ピエタ


あ、ヤバい。これはマズったな。
と、思ったところで後の祭りだ。

「いッ…てぇな…」

俺の体は宙高く吊り上げられ、呪霊の触手が俺の腹をどっと払う。眼前に迫る触手を呪力で爆破し、続けざまに俺を吊り上げている触手を爆破した。
落下しながらまた術式を発動させ、とどめ、という瞬間にまた呪霊の触手が伸び、空中で避けきれず視界が赤く染まった。

「ッ…くっそ…!」

ざふっと呪霊が消える気配は感じた。よし、なんとか任務達成だな。
遠のく意識の中、補助監督の焦った声が聞こえる。ブチ切れる硝子ちゃんの顔が浮かんで、俺は思わず大きな声を上げて笑った。あ、やばい、貧血。


硝子ちゃんとは、俺の婚約者の名前である。
俺は五条家の枝の家系出身で、まぁそこそこの術式を持って生まれて来れたが、同世代に六眼持ちの無下限呪術が生まれてしまってはそんなものは些末なことである。
枝とはいえ、御三家の血をわりと濃く継いでいることもあり高専三年の春、突然婚約者というものが発表された。それが硝子ちゃんだ。
腐っても御三家の枝に生まれているから、婚約者という制度にはそこまで抵抗はなかったのでそれについては驚かなかった。ただ親父から電話で、ふたつ下の学年に今日入学すると言われた時はちょっとびっくりした。

「初めまして、君が家入硝子ちゃん?」

黒髪のボブ、整った顔なのに、じとっとやる気のない目をしているのが勿体ない。が、こんな可愛い子が婚約者って結構ラッキーじゃん、と思ったのがファーストインパクトだ。

「誰おまえ。キッショ」

お察しの通り、硝子のファーストインパクトは最悪だったようだけれど。
ふたつ下の学年は才能のオンパレードって感じだった。まず、はとこの悟くんがいる。それから呪霊操術なんてとんでもない術式を持った男子生徒がいて、これがまさかの非術師の家系らしい。そして硝子ちゃん。彼女もまた、反転術式が使える稀有な存在である。
一年生は仲が良かった。まぁ悟くんと夏油くんが時々マジバトルして校舎を壊すが、術師のケンカにしては可愛いほうだろう。硝子ちゃんもなんだかんだ一緒に過ごしていて、結局のところ仲がいいってことは容易に理解できた。
俺は残念ながら同級生がいないので、そうやってわいわいとしている姿を見るのは羨ましくもあり微笑ましいものだった。

「あんた…それなに」
「あれ、硝子ちゃんだ」

硝子ちゃんとの付き合いも二年目に入った春。ある日の任務終わり、花を買って高専に戻ると、硝子ちゃんがぐっと顔をしかめた。
硝子ちゃんが俺に興味を示すなんて珍しいこともあったもんだ。

「あー、これね。お墓参り的な?」

俺は残念ながら同級生がいない。正確には、もういない。
二年のころ、一緒に赴いた任務で命を落としたからだ。

「同期がね、そろそろ命日だがらさ」

同期は、非術師の出身だった。ビビリの女の子で、術式はなく、さっさと補助監督志望に転向してしまえば良かったのだと今は思う。
普通の女の子だった。可愛いものが好きで、おとなしくて、甘いものが好きだった。実のところ、俺は彼女のことを少しいいなと思っていた。

「硝子ちゃん?」
「…私も行く」

硝子ちゃんが珍しくそんなことを言って、俺の隣を歩いた。
同期の墓は、高専の敷地内にある。彼女は天涯孤独で頼るところもないような身の上だったから、遺骨は葬儀のあと高専の墓地で弔われることになったのだ。

「硝子ちゃん、珍しいね」
「別に」

墓地までの坂道を登る間、俺は硝子ちゃんのつむじを見下ろした。
硝子ちゃんは一言だけそう言って、しばらく言葉はなかった。春の暖かい風がすうっと吹き抜ける。
桜が咲いている。二年前のあの日も、確か満開の桜だった。

「ミョウジにとって大切な人なら、挨拶くらいしとこうって思っただけ」

風に絡め取られてしまいそうな声だった。俺は硝子ちゃんがそんなことを言ってくれるのが嬉しくて、でもそれを口にするのは恥ずかしくて「そっか」と、何でもないふりをして相槌を打った。
無機質に整然と立ち並ぶ墓石は、随分古いものからぴかぴかと新しいものまで様々だ。術師は死後、基本的にそれぞれ自分の家の墓に納まるものだけれど、同期のように無縁仏となってしまうものはここに弔われている。
手前から五列目、左の一番端に、彼女の墓はある。俺は途中の水場で桶に水を汲み、布巾を濡らして絞ると墓石を頭から拭いていった。

「私もやる」

そう言って、硝子ちゃんは枯れた花の入った花入れをひょいっと取り上げ、ざばざばと洗って綺麗な水で満たしていく。
それから今日俺が買ってきた花の高さを揃えてふたつの花入れに分けた。

「ありがとね、硝子ちゃん」

揃って膝をつき、手を合わせる。
さぁさぁ風が吹いた。どこからともなく花の匂いが漂ってくる。
二年前、二人で赴いた任務。もう少し俺が強ければ、あのとき死なせずに済んだんだろうか。考えてたってどうしようもないことを、俺は未だにぐるぐると考えてしまう。

「私がさ、もしも1年早く生まれてたら、ミョウジの同期のこと、助けてあげられたかな」

ぽつんと、硝子ちゃんが言った。
まさか硝子ちゃんがそんなことを言うとは思いもしなくて、ぎょっと隣の硝子ちゃんを見下ろした。

「それは…どうだろうね」

あの日の同期のことを思い出す。
実力以上の呪霊に運悪く当たった。当時俺はまだ二級で、彼女は三級だった。なのに該当の二級呪霊祓除のあと、一級相当の呪霊に遭遇してしまった。
あっというまに彼女は足をもがれ、腹に大きな穴を開けられた。助けられる傷じゃないのは火を見るより明らかだった。
俺はあの日、遺体になった彼女を抱え、高専まで血まみれで帰投した。泣いたのかどうかは、もう覚えていない。

「あの日、俺がもっと強かったら、死なせずに済んだかな、とは思うよ」
「ミョウジ?」

硝子ちゃんはひとを救うことが出来る。その反転術式を以てして、本来であれば死んでしまうような傷を癒すことができる。
そんな彼女のが背負う「もしも」は、きっと俺なんかよりよっぽど可能性があって、だからこそ苦しいはずだ。

「…硝子ちゃんに救われる人は、これからたくさん現れるさ」

もしも、なんて言葉はこの世で一番無意味だと、硝子ちゃんだってよくわかっているはずだ。それを、俺のために言ってくれたことが嬉しくて、この子を絶対に幸せにしようと誓った。


意識が引っ張りあげられるような感覚があった。
随分懐かしい夢を見ていたらしい。高専の学生だった頃の、もう十年近く前の記憶だ。

「…ミョウジさん!!」

補助監督の声で目が覚める。ずきずき腹が痛む。首だけで傷口を確認すると、腹の部分にはぐるぐると包帯が巻かれていた。
見覚えのない天井だ。アルコールと、クレゾール液の臭いがする。どうやらここは病院らしい。
なんで俺こんなとこで寝てるんだっけ。窓から射してるのは朝日か、夕日か、どっちだろう。
ああ、そうだ、確か任務に出てたんだっけ。一級呪霊三体、普段ならそこそこ苦労しても手傷を負うような相手じゃなかった。そうだ、途中で合体まがいの融合しやがって呪力上がったんだっけ。
順を追うようにして自分の状況を確認する。ああ、そうそう、祓ったとき最後の最後で頭に一発食らったんだ。

「何時間経った?」
「15時間です」
「ちなみに何針?」
「腹部20針、右側頭部10針です」
「あちゃあ」

これは中々の痕が残るだろうなぁ。
任務中に傷を受けた怪我人は、基本的に高専の、硝子ちゃんのもとに送られる。が、それまでの猶予さえない怪我人はこうして高専と提携関係にある一般病院に運び込まれることも多い。
昨日は確か硝子ちゃんが京都に呼ばれてたし、出血も酷かっただろうから俺は病院に運ばれたんだろう。
そしてついでと言ってはなんだが、15時間眠っていたらしいので、どうやらこの光は朝日らしい。

「現場はどうなってる?」
「後任の二級術師が見回りにだけ派遣されました。大物はミョウジさんが祓ってますから」
「そっか、その子の名前教えといて。今度メシ連れてくよ」

そこまで話をしていて、早朝の病院には不似合いな大きな音で扉が開かれた。珍しい。
俺はぎぎぎと軋む体を起こし、点滴の繋がれた左手をひらっと挙げた。

「やっほ、しょーこちゃん」

らしくないガサツさで扉を開けたのは、俺の婚約者だった。
はぁはぁと肩で息をしていて、走ってきたんだろう、髪もぼさぼさになってしまっている。
補助監督は「席を外しますね」と気を効かせて出て行ってくれたから、病室には俺と硝子ちゃんの二人っきりになった。

「硝子ちゃん、出張お疲れ様」
「きみなぁ…」
「いやあ、久々にやっちゃった」

硝子ちゃんはずんずんとベッドに近寄り、丸椅子にどかっと腰かける。
それから俺の布団に突っ伏すような姿勢になって、硝子ちゃんは言った。

「なに私がいないときに怪我してんの」
「ごめん」
「私がどんだけ…」

続きは言葉にされなかった。だけど硝子ちゃんがなんて言おうとしていたかなんてことは、聞かなくたってわかる。
硝子ちゃんはクールでドライに見えるけれど、実はとことん仲間思いなところがある。それは隣にいることを常に望むようなわかりやすいものではなく、どんなふうであっても生きていてほしいと願う最も根源的な慈悲だ。
突っ伏す硝子ちゃんの髪を撫でる。あんまり綺麗とは言えない髪だけど、それは硝子ちゃんがいかに仲間を救うために頑張っているのかを物語っているようで、俺は好きだった。

「ナマエは顔だけが取り柄なんだから」
「うそ、硝子ちゃん俺の顔好きだったんだ」

そうおどけると、硝子ちゃんが顔を上げて、拳で俺の胸をどすっと殴った。ぐぇ、と情けない声が漏れ、じとっと硝子ちゃんが俺を睨む。
何かまだお小言があるのか、と思って「ん?」と尋ねると、今度は硝子ちゃんの眉間にしわが寄った。

「…良かった…」

硝子ちゃんは目を閉じて、祈るように両手を組んだ。
それは、何か宗教画のような侵しがたい神聖さがあるように思えた。硝子ちゃんの不健康な肌の色のせいかもしれなかったし、東から射す朝日のつくる影のせいかもしれなかった。

「硝子ちゃん、泣いてるの?」
「泣くわけないだろ、馬鹿」

そうやっていつもみたいに強がるから、俺は硝子ちゃんの手を捕まえて、逃げられないようにして、あごを掬いあげる。
硝子ちゃんの不健康そうな頬を、幾重にも涙が伝ったあとがあった。

「じゃあ、これは?」
「…酒」

俺と目が合ってしまわないように無茶苦茶な誤魔化し方をするのが可愛くて、俺はちゅっと頬に口づけた。
涙のしょっぱい味がした。

「随分しょっぱいお酒だね」

硝子ちゃんがカッと赤くなって、それからまた、ほろりと涙がひと滴おちる。
好きな子に泣かれて嬉しいなんて、俺もたいがい性格が悪いのだ。


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