コーヒーショップロマンス


私の勤務地は、麻布にある。コーヒーの器具や豆を販売している所謂専門店だ。
クラフト紙っぽいカラーに鳥のマークが描いてあって、それが可愛いなぁ、と思いながら大学に通学していた。
卒業と同時に就職した会社が世に言うスーパーブラック会社で、私は三ヶ月で挫折し、すごすごと退職した。
そのときふと思い出したのが、毎日通学時に見ていたコーヒーショップのことであった。
別に特別コーヒーが好きというわけではなかったけれど、なんとなくあのお店のことが気になってその日のうちに足を運んだ。どういう巡り合わせか、ちょうど求人のチラシが店内に貼ってあって「これ、応募できますか」と、その場で店員さんに声をかけたのだった。

「いらっしゃいませ」

見事面接試験に合格した私は、二週間前から晴れてコーヒーショップ店員として第二の人生を歩みだしたのだった。
第二の人生は言いすぎだけど。

「今日ロングベリーのモカ入ってる?」
「あ、えっと、少々お待ち下さい」

ひとつ誤算だったのは、私が想像していたよりコーヒーの世界は奥が深いということである。
ロングヘアーのきりっとしたキャリアウーマン風のお客様は、モカをお求めらしい。
モカ、モカは確かコーヒー豆の種類だということは勉強した。けどロングベリーってなんだ。研修でも聞いたことない。
助けを求めようと店長のほうを確認すると、運悪く電話対応に入ってしまっている。私はすこしあたふたしながらショーケースの中を探す。
モカだけで2種類ある。でもエチオピア産モカ・アビシニア、イエメン産モカ・マタリと書いているだけでロングベリーという単語はどこにもなかった。

「ねぇ、ちょっと、まだ?」

まずいぞ、お客様がイライラしてきた。
えぇぇ、なに、ロングベリーって何!

「も、申し訳ございません、当店のモカのご用意はモカ・アビシニア、モカ・マタリの二種類になるのですが…」
「あるんじゃない」

えっ!

「あなた、店員なのに商品の勉強不足だわ」

ぐさ、ぐさぐさぐさ。音を立てて見えないナイフが刺さっていく。
そりゃ、どうもすみませんなんだけど、まだ店員歴二週間なんですよ、ちょっとぐらい大目に見てくれたっていいじゃないっすか。いや、そんなこっちの事情はお客様には関係ないことだ。

「申し訳ございません、今月入ったばかりの新人でして…アビシニアの挽き方はいかがしましょうか」

電話を終えた店長が後ろからフォローをしてくれて、お客様はなんとか納めたようだった。
そこからは店長が接客を交代してくれて私は事なきを得た。

「大丈夫だった?」
「す、すみません…勉強不足で…」
「はは、まだ入ったばっかりだからね、気にしないで」

店長はすごくいいひとだ。お店もおしゃれでかっこよくて気に入っている。
けれどそこそこ受けるこの「店員なのに知らないの?」系のご指摘に、私は心が折れそうになっている。
なにせコーヒーの世界は奥が深すぎて、全然覚えられないのだ。


店長の昼休憩中、先ほど教わった「エチオピア産のモカコーヒーは細長い見た目をしているためロングベリーと呼ぶこともある」ということをメモにとって勉強をしていると、カランカランと鈴の音がしてお客様の入店を告げた。

「いらっしゃいませ」

私すぐに姿勢を正してお客様を確認する。
スーツで眼鏡の男性がひとり、慣れた様子でショーケースのほうへ歩いてきた。

「すみません、今日はG1のトラジャは入っていますか」

ぐれーどわん…グレード1…?なんだ、それは。
初めて聞いた。私は今朝のことが頭を過ぎり私は思わず押し黙ってしまった。聞いたことない。もちろん商品の説明書きにも書いていない。

「…あの…?」

不審に思ったのか、お客様が私のほうをじっと窺うように見た。なんか言わなきゃ。
休憩室の店長に声をかけて、えっと、それで…。

「もしかして新人さんでしたか?」
「えっ、あの、はい、すみません…」

お客様の声に私は反射的に頭を下げた。注意されているわけではないとわかっていたけど、頭は真っ白だ。

「ああ、いいんです。こちらこそすみません」

眼鏡のお客様はそう言って、こちらが恐縮するほどぱたぱたと両手を振る。
それからショーケースの前を少し歩き、ひとつの銘柄の前で足を止めた。

「えっと…これですね、トラジャ。これのランクを聞きたくて」
「ランク…」
「そうです。インドネシアのコーヒーは1から5でランク付けをされているんですが、一番等級の高いものをG1と分類しているんです。トラジャを買うならG1と決めているので、この入荷分がそのG1なのかを知りたいのですが、確認していただいてもいいですか」

なるほど、そんなのあるんだ。
解りやすい彼の説明を聞き、私は休憩室の店長に声をかけにいった。
店長にお客様からの話をすると「僕が行くよ」と言ってくれたので、店頭に戻る店長にそのままついて行った。

「すみません伊地知さん、まだ新人で…」
「ああ、全然大丈夫ですよ。入ってすぐだと、そこまで教えるのは酷ですしね」

どうやらこのお客様は常連さんらしく、店長はよく知った様子で声をかけている。
伊地知さん、伊地知さんっていうんだ。

「コーヒー、お好きなんですか?」
「あ、えっと、その…正直、詳しいほどでは…すみません、店員なのに勉強不足で…」
「いいんですよ。誰しも始めはそんなものでしょうから」

伊地知さんは店長が豆を挽くあいだ、私にそう話を振ってくれた。
優しい。なんて優しいひとなんだろう。朝イチのお客様を思いのほか引きずっていた私は大げさに感動をする。
お客様がみんな伊地知さんみたいだったらいいのに。

「伊地知さん、お待たせしました」

あっという間に作業は終わってしまって、店長がクラフト紙に包んだコーヒー粉を持って戻ってくる。

「頑張って下さいね」
「はい、ありがとうございます!」

少し気弱そうに笑って、伊地知さんはぺこりと頭を下げると出入り口に向かう。
その日から、私は伊地知さんの来店を心待ちにするようになった。



「ミョウジさん、こんにちは」
「いらっしゃいませ!」

伊地知さんは大体スーツでやってくる。
黒いジャケットとパンツで、ネクタイも黒い、喪服みたいだ、と思ったのは内緒である。

「今日はグアテマラのアンティグアを頂きたいんですが…」
「アンティグアですね、今日の入荷にあったはずなので…」

私はカウンターの内側からショーケースに沿って歩く。
丁度真ん中くらいにグアテマラ産アンティグアと書かれた豆を見つけた。

「挽き方はいつもの中細挽きでいいですか?」
「はい、お願いします」

伊地知さんは、いつも豆を中細挽きにする。この中細挽きとは、ハンドドリップに最適な挽きかたなのだそうだ。
私は豆を量って店長に声をかける。豆を挽く作業は、もちろんまだ任されていない。
挽きおわるのを待つ間、伊地知さんは少し話を振ってくれる。私はいつもそれを楽しみにしていた。

「グアテマラのコーヒーの等級はもうマスターから習いましたか?」
「いえ、まだです。インドネシアのとは違うんですか?」
「グアテマラは標高によってグレードを分けてるんですよ」

標高?品質じゃなくって?
曰く、7つもの段階に分けられており、グレードが高いものは1350メートル以上の高地で栽培されるらしい。
私は「メモとってもいいですか」と言ってポケットからメモ帳を取り出し教えてもらったことをひかえていく。

「すみませんね、伊地知さん。色々教えてもらっちゃって」
「いえいえ、こちらこそ専門家のいる所で下手の横好きがお恥ずかしいんですが…」
「いや、助かってますよ。伊地知さん教えるの上手いから」

店長と伊地知さんがメモをとっている私を挟んでそんな会話をしていた。
本当に店長の言うとおりで、伊地知さんは教えるのが上手い。店長の教え方が下手とかそういうんじゃ…ないことにしておこう。

「これからも良くしてやってくださいね」
「もちろんです。ミョウジさんやマスターがご迷惑じゃなければ」

店長は「助かってるよね?」と私に声をかけてきて、私はぶんぶん大げさなほど首を縦に振る。迷惑なんてことあるもんか。

「め、迷惑なはずないです!」
「この子もそう言ってますから」
「はは、それなら良かったです」

そのうちにコーヒー豆は挽き終わり、いつものクラフト紙に包むと、伊地知さんはお会計をして退店していった。


私が伊地知さんについて知っていることは少ない。
そりゃ、お客様と店員の話す機会なんて全然ないし、店長にあれやこれやと詮索するのもよろしくない。
知っていることと言えばコーヒーが好きなこと、それから学校関係の事務の仕事をしていることくらいのものだった。

「ミョウジさん、伊地知さんのこと待ってるの?」
「えっ!いやあの、そんなんじゃ…」

不意に店長にそんなことを言われて、私はぶんぶんと両手を振って否定する。いや、その通りなんだけど、その、そんなにわかりやすかっただろうか。

「…あの、店長」
「ん?」
「伊地知さんって、来る曜日とか決まってるんですか…?」

店長は一瞬ぽかんとしたあと笑って「新しい豆が入荷する木曜日が多いよ」と教えてくれた。

その日の午後、私と同じくらいの年頃の女性がそうショーケースの前で尋ねてきた。

「あの、コーヒーを初めて豆で買うんですけど、おすすめってありますか」

入社当時なら「どうしよう」とテンパっていた類の質問だけれど、もうあの頃の私とは一味違うのだ。

「でしたら、コスタリカ産のこちらのコーヒー豆はいかがですか?コスタリカではハニープロセスという独自の精製方法で処理されておりまして、クリアで酸味も柔らかく、とても飲みやすい仕上がりになりますよ」

まぁ、半分くらい伊地知さんに教えてもらったことなんだけども。
女性は私の説明をふんふんと聞き、ちょっと首をひねる。初めてって言ってたし、詳しくないんだろうことは簡単に推測できた。

「じゃあ、それにします」
「ありがとうございます。豆は挽いてお持ち帰りになりますか?」
「あっ、はい…えっと…ちゅうぼそびき?でお願いします」

女性はスマホの画面を確認して挽き方を指定する。
どこかのハウツーサイトか、それとも有識者のアドバイスだろうか。私は「かしこまりました」と返事をして店長に豆を挽いてもらった。
準備を整えている間、女性は店内の器具を見て回っており、器具一式とコーヒー粉をまとめて購入してくれた。
器具が全部ハンドドリップ用のものだったから、なるほど中細挽きで大正解である。


翌日、来たる木曜日。私はいつも以上に緊張しながら店頭に立っていた。
店長曰く、伊地知さんが来る確率が一番高いのは豆の入荷する木曜日。お昼すぎか夕方に来店することが多いらしい。
午後一時。昼休憩にいつもよりしっかり化粧を直した私は、いよいよ落ち着きを無くしていた。

「いらっしゃいませ」

カランカランというドアベルの音に入り口のほうを見ると、いつものブラックスーツ姿の伊地知さんの姿があった。

「こんにちはミョウジさん」
「こんにちは!」

この頃は、いらっしゃいませ、という挨拶だけでなくて、こんにちはと挨拶をすることも増えた。

「今日はどうしますか?」
「何か変わったものは入荷していますか?」
「あ、これなんですけど、ブラジルのアラビカ種なんですけど、バレルエイジドらしくって、店長がお客様に片っ端から勧めてますよ」

ブラジルはコーヒー大国である。その中でも、7割を占めるポピュラーな品種がアラビカ種だ。けれどこの「バレルエイジド」という製法が凄いらしい。ウィスキーの樽で寝かせて風味をつけるのだそうだ。
朝、入荷作業をしてるとき店長が嬉々と話してくれたことだが、そんな製法まであるのか、と私は脱帽した。

「珍しいですね。ではそれを頂きます」
「承知しました。中細挽きですね」

伊地知さんは即決して、私は豆を量って店長に声をかける。
お客様は大体挽きを待つ間、昨日の女性客のように店内を見て回るが、伊地知さんはいつもカウンターのところに残って私と世間話をしてくれる。

「随分慣れましたね」
「そうだといいんですけど…」
「コーヒーは掘り下げると中々難しいですし、こういった専門店だと要求される知識も幅広くて大変じゃないですか?」
「それは…そうですね。私なんか予備知識なしで働き始めたので、勉強しなきゃいけないことが山ほどあります」

伊地知さんともっと話がしたい。
コーヒー豆は毎度すぐに挽き終わってしまう。こういう、つるんとした上澄みの話でなくて、もっと、こう、伊地知さん自身の話が聞きたい。

「あの、伊地知さん、その…」
「どうかしましたか?」

くちを開いてすぐ怖気づいてしまって、言葉を詰まらせる私を伊地知さんが不思議そうに見ている。
頑張れ、私、ここで黙ってどうする。今日まで何回もシミュレーションしたでしょ。「良かったら一緒に食事行きませんか」家で何回も練習した台詞でしょ。

「わ、私、シフトが六時までなんですけど…その、良かったらお食事とか、一緒に、行ってもらえませんか…」

予定よりなんか格好のつかない台詞になって、私は絶望した。もっと大学時代パリピに混ざっておけばよかった。ああ、同じゼミだったあの子はきっともっとスマートにお誘いできるんだろう。私にはハードルが高すぎた。

「すみません、今日はその、このあと職場に戻る用事がありまして…」

伊地知さんの返事を聞いて、私は見事粉砕されサラサラと粉になった。中細挽きなんてもんじゃない。極細挽きだ。
そうだよね、そりゃそうだよね。常連さんと店員だもん。そもそも伊地知さんに彼女がいるかも知らないし、指輪はしてないけど、それこそもしかしたら既婚者とかかもしれないし。
ああ、終わった、私の恋。さようなら私の恋。
なんとか人の形を保ちながら「突然変なこと言ってすみません」とフォローしようとしたら、それより先に伊地知さんが口を開いた。

「ミョウジさんの都合がよければ、明日の夜、一緒に食事をしませんか」
「えっ!」
「あ、もちろん都合が悪ければ断っていただいても…」
「大丈夫です全然!いつでも!空いてます!」

私は思わず大きな声で言って、そしたら伊地知さんがほわっと優しい顔で笑った。
「あとでここに連絡をください」と言って、伊地知さんは名刺を取り出すと裏側にさらさらと電話番号を書いてくれた。
私はそれを受け取って、お会計の対応をしたはずなんだけど、正直どうやってレジを打ったのか覚えていない。

「では、連絡待ってますね」

伊地知さんの退店後、店長がにやにやした顔で「良かったね」と言ってきて、私はやっと自分の顔が真っ赤になっていることを知るのだった。


戻る






- ナノ -