夜間飛行




※夏油傑の喫煙描写があります。未成年の喫煙描写を含みますが、それを推奨するものではございません。


夜の散歩は心地が良い。
冬は流石に堪えるが、大概の季節はこうして夜のほうが過ごしやすいと思える。
冷えた土の匂いを感じながら、私はぼうっと夜空を眺めていた。今日は新月だから、星がいつもより主張して見える。
ポケットから煙草を取り出して一服をしていると、背後でがさごそと草を分けるような物音がした。
誰だろうな、と思いながら気配を探っていたが、姿を現したのは思いもよらない人物だった。

「夏油くん?」
「ナマエ?」

風呂上りの、少しくつろいだ格好の同級生がそこに立っていて、きょとんとした目をこちらに向けている。
視線の先を辿ると、私の煙草を見ているようだった。

「ごめん、すぐ消すよ」
「ううん、大丈夫」

そう言って、ナマエは私の隣までとことこと移動をした。
頭一個分よりも下にある彼女の顔は、少し火照ってピンク色をしている。

「煙草のにおいがしたから硝子ちゃんかと思って。夏油くんも吸うんだね、煙草」
「ああ、少しね」

本当は少しどころではないのだけれど、何故だか彼女には後ろめたくて誤魔化した。
「美味しいの?」と聞かれたので「不味いよ」と返すと、ふうん、と返事だけがあり会話が途切れる。

「夏油くんって結構不良?」
「どうだろう」
「ふふ、本当は五条くんとおんなじくらいかもね」

彼女はそう言って笑って、私と悟がこの前叱られたばかりの悪戯の話を持ち出した。

「ナマエは優等生って感じだ」
「そうかな」

こてんと頭を傾けて考える仕草をする。ナマエは私たちの学年の中で一番の優等生だ。
悟ほど強くはないし、硝子のような稀有な能力を有しているわけでもないが、勤勉で真面目で絵に描いたような善人だと思う。

「じゃあ、そんな優等生のナマエを、非行に誘ってもいいかい?」
「非行?」

そう。と肯定して、私は煙草の火を携帯灰皿で揉み消すと、ナマエの手を取って走り出す。後ろで「夏油くん!?」と驚くのもお構いなしだ。
ナマエを連れた私は高専の敷地を抜けるとこまで走り、筵山を出てやっと足を止めた。ナマエは息を切らして、一体何が始まるんだという顔をしている。

「夜の散歩だよ」

ずるっと飛行型の呪霊を取り出し、その上に乗ると、ナマエにも乗るように促す。
少しの間のあとナマエもそっと足を出し、まるで魔法の絨毯に座るかのように二人で呪霊に座り込んだ。
私の指示で呪霊がふわりと浮き上がり、バランスを崩しそうになったナマエが私のシャツを握る。

「腕に掴まって」
「う、うん、ありがとう…」

開いた腕にナマエを掴まらせて、向かい合うようにして体勢を整える。
ゆっくりとしたスピードで高度を上げ、眼下に高専の校舎の明りが見えた。昼も夜もお構いなしの呪術界は、補助監督も夜まで働き通しだ。

「すごいね、こんなふうに空を飛ぶなんて初めて」
「結構いいだろ?」

きょろきょろとあたりを見回しながらナマエが言う。
そりゃあ、呪霊操術や式神や、特別空を飛べるような術式がなければこんな機会はそうないだろう。

「夏油くんはよくこうやって夜のお散歩してるの?」
「たまにね。空から町を見るのが好きなんだ」

私の言葉に、そうなんだ、と返事をしてからナマエはだんだんと姿を現した町を見下ろした。
風が少し強く吹くたび、ナマエはぎゅっと私の腕を掴む力を強くした。それがどこかいじらしい。思えば私はこの日彼女のことを好きになったのだろう。

「すごいね、高専の近くって田舎だと思ってたけど、想像以上に絶景っていうか、綺麗で感動しちゃった」

20分弱の周遊を終え、地上に戻るとナマエが興奮気味にそう言った。

「また行こうか、夜の散歩」
「また誘ってくれる?」
「もちろん」

私の言葉にナマエはきらきら目を輝かせ、約束だよ、と言って嬉しそうに笑う。
その様子がたまらなく可愛らしく見えて、私はナマエの手をとって、寮につくまで離すことが出来なかった。


それからこの夜の空中散歩は私とナマエの秘密の逢引のようになった。
任務のない夜、ケータイで連絡を取り合って裏庭に抜け出し、そこから二人で筵山の外まで歩く。
高専の結界を抜けたら私が呪霊を取り出して、二人で寄り添って座る。
大型の呪霊で窓や高専関係者にバレるのを避けるため、いつも小さい呪霊にくっついて座った。
ナマエは呪霊に乗るとき、決まって私の腕に捕まるようになった。
今日も私の腕をぐっと掴み、空を見上げる。

「あ、見て、夏油君。向こうに飛行機が見える」
「本当だね」
「呪霊は映らないと思うけど、私たちもレーダーに映らないのかな?」
「どうだろう」

考えたこともなかったな、と、ナマエの言葉を考える。
相変わらず、ちょっと変わったことを言うというか、視点が違うというか。

「夏油くんは飛行機乗ったことある?」
「そうだね、今まで何度かは」
「いいなぁ。私、飛行機って乗ったことがないの」

遠くの夜空を過ぎ去っていく飛行機を眺めながら、ナマエが言った。

「ねぇ、夏油くん、煙草吸ってよ。私、夏油くんの煙草のにおい好きなの」

その言葉に、私はポケットから煙草を一本取り出すと、じゅっと先端に火を灯す。
煙草のにおいが好きなんて、やっぱり変わったことを言うな、とナマエを見やるといつの間にか双眸はじっとこちらを見つめていた。

「煙草のにおいが好きなんて、ナマエ、変わってるね」
「そうかな」
「そうさ」

でも、硝子ちゃんの煙草のにおいは別に好きじゃないよ。と、立ち昇る煙草の煙を視線で追いかける。
丁度月を覆い隠していた雲が流れ、私とナマエはスポットライトを当てられたように照らされた。
ゆるくカーブを描く首から肩のライン。月明かりで影を落とすほど長い睫毛、それから私の腕を掴む小さな手。
術師だから、きっと普通の女の子よりも鍛え上げられているのだろうけど、自分と比べれば折れてしまいそうだとさえ思った。
こんなにも君は美しいのか。

「…好きだ」

言うつもりもなかったのに、気がつくと私の口からは愛の告白が漏れ出していた。
ああ、と思ってももう遅くて、この距離で聞こえないはずもない告白は彼女の耳にしっかりと届いていたようだった。
私はじっとしていられなくて、ふぅ、と煙を吐き出すと、空いた片手で彼女の顎を誘導し、無防備な唇にキスをした。
短いキスの後に顔を離すと、ナマエは小さく「苦い」と言って、私の肩に寄りかかるように擦り寄った。

「でも、好き」

眼下には今日も人々の生活の明りが灯り、遠くに23区の暴力的な眩さが見える。
人間の達成と愚かさを止揚する迫力が、そこに存在していた。


私とナマエは付き合うようになっていろんなところにデートに行ったけれど、お互い一番のお気に入りは夜の空中散歩だった。
今夜も私とナマエは手を繋いで筵山を降り、抱き合うような距離まで寄り添って空へ昇る。

「こうやってさ、明りの数だけ人がいるんだなあって思ったら、なんかくらくらしちゃうね」

高専二年の夏、もう何度目かも数えるのをやめた空中散歩の日、ナマエが町を見下ろしてそんなことを言い出した。
この頃はナマエも慣れてきたらしく、初めて一緒に飛んだときのような怯えは少しもない。

「どういうこと?」
「何ていうんだろう。これだけたくさんの人が生きてて、生活があって、それもほとんど皆呪いが見えなくって。私たちってほら、この人たちのために呪いを祓っているでしょう?」

くらくらしちゃう、という感覚についての説明までは辿りつかなかったが、彼女の言いたいことは何となく分かる気がした。
途方もない数の人々がいて、呪いがあって、それを一握りの術師が祓う。私たちはそれを繰り返す。私たちは術師で、私たちは非術師を守るためにある。守るために、あるはずだ。

「傑くんは嫌がるかもしれないけどね、正しい人でいなくても、いいと思うの」

ナマエは眼下の町並みから視線を逸らさないままそう言った。
その横顔はほの白く、月明かりの落とす影が彼女の輪郭をクリアにする。

「傑くんって頑張り屋さんで、すぐに無理をしちゃうから」

その言葉は私をどこか見透かすように確信めいて響いた。
「変なこと言ってごめん」と小さく謝り、今度は頭上を見やる。私は何か言葉を返そうとしたのに、気の利いた相槌のひとつも持ち合わせていなかった。
空気が遮断されたような沈黙が流れた。

「…今日はなんだか月が近いね」

しばらくのあと、そう言ったナマエの視線の先には闇の中に大きく燦然と昇る月があった。

「今夜はスーパームーンなんだって」
「スーパームーン?」
「そう。月の軌道が地球に一番近くなるから、月が最も大きく見えるんだよ」

そうなんだ。と私の説明を聞いてナマエはもう一度振り返るように月を見上げる。
月が煌々と輝いて、その主張で星々は掻き消され、息を潜めていた。
不意に彼女が私の腕を引き、どうかしたのか、と見下ろすと少し怯えたような顔をしているように見えた。

「呪霊、降ろそうか?」
「ううん、違うの」

ナマエは否定の言葉だけを吐き出し、腕を掴む手が緩められることはない。

「傑くんが、月に連れて行かれちゃうみたいな気がして…」

可愛らしいことをいうものだから、私は思わず笑ってしまって、気を悪くしたナマエが口先を尖らせる。
ごめん、と謝ったものの許してくれないのか、顔はつんと向こうを向いたままだ。

「傑くん、煙草吸って」

逸らされたまま、ナマエが言った。
私はポケットから煙草を取り出し、一本を咥え、火を灯す。先端の赤く焼ける煙草の葉とシガレットペーパーが香ばしく霧を立てる。
そのかすかな白の向こう側で、ナマエがこちらを向くのが見えた。

「キスしよっか」
「煙草味?」
「イヤかい?」
「ううん。好き」

私は煙を吐き出すと、ナマエの顎を掬って唇を近づける。
あわく開かれたそこに舌をすべりこませ、上顎を擦るように撫ぜると、彼女の肩がぴくりと震えた。

「ん、んぅ…」

鼻から抜けるナマエの吐息を無視して、もっと深く蹂躙していく。
薄く目を開くと、月がまるで人の眼球のようにこちらを覗いていた。残念。彼女のこんなにとろけた顔は、お月様にも見せられないな。
私はナマエを月から隠したまま抱き込み、離れ際に軽く下唇を噛んでやると、彼女のまぶたがじんわり上がり、力のないらない判然とした瞳が私を熱くさせた。

「もう…こんなとこでこんなに…」
「でも、イヤじゃないだろう?」
「落ちたらどうするの」
「私が手を引いて助けるさ」

からかうようにそう言えば、照れた仕草でナマエが頷く。
鼻先の触れ合うような距離で、ぽっかりと空に浮かぶ。

「少し遠くまで行ってみよう」
「うん。傑くんの行きたいところなら、どこへでも」

私とナマエは、今日も夜の空中散歩をする。見下ろす先には生活の明りが灯り、途方もない数の人々が暮らす。
私のそばに君がいてくれたなら、それだけで少しも怖くはないんだ。
ナマエの手を握り、月からの逃亡を試みるのだった。


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