午後のファーストキス


私と恵は、幼馴染みたいなものだ。
私は術師の家に生まれて、ただ環境が良くなくて、夜蛾さんに引き取られるかたちで呪いを学ぶことになった。恵は恵で五条さんが後見人になって術師を目指すようになり、私たちは必然的に入学前から高専で出会った。

「恵ぃーいるー?」

私はノックもせずに恵の寮室のドアを開ける。休日の今日は長袖のジップアップパーカーとショートパンツでリラックススタイルだ。
とたとた部屋に入ると、ゆるい部屋着の恵がベッドに背を預けて本を読んでいた。

「あ、いたいた」
「ノックぐらいしろ」

私はいつもどおり小言を言う恵を無視して持ってきたお菓子をテーブルに置くと、恵の隣を陣取る。

「映画見ようよ。借りてきたの」
「いいところだからこっち読む」
「あ、そ」

恵は本から視線を逸らさずにそう言った。
私はテレビとプレイヤーの電源を勝手につけて、借りてきたディスクをセットする。今日のチョイスはこの前の冬に公開されていた学園ラブロマンス。平凡な女の子と、かっこいいけどちょっと不良で不器用な男の子の話。

「自分の部屋で見れば良いだろ」
「えー、いいじゃん。もうお菓子も持ってきちゃったし」

私はバリッとお菓子の封をあけ、新作のポテトチップスをぱくりと口に運んだ。和風しょうが醤油味。
映画は人気の少女漫画の原作で、私はずっと単行本を買い続けていた。映画が公開されたときに見に行きたかったんだけど、なんだかんだと行きそびれてレンタルを待っていたというわけだ。

「恵?」

間もなく再生開始、というとき、恵が本を閉じて立ち上がった。
どうしたんだろうと思って動きを辿ると、簡易キッチンに置いてある小型冷蔵庫からオレンジジュースとお茶を取り出した。
ペットボトルからとくとくそれぞれをグラスに注ぎ、オレンジジュースを私の前に、自分はお茶のグラスを持って元の位置に戻る。

「ありがとー」

ん。とだけ返事が返ってくる。なんだかんだ恵は面倒見が良い。自分は飲まないくせに、私用にオレンジジュースを買っていてくれる。
「ポテチ食べなよ」と勧めたら、無言で袋の中から一枚取り出していた。

「これ美味いな」
「和風しょうが醤油だって。期間限定らしいよ」

恵は期間限定ポテチをお気に召したのか、二枚目三枚目をぱくぱく食べた。お菓子食べてる恵って結構珍しい。
そのうち画面はCMから映画本編に切り替わり、私はそそくさと画面に向き直った。

「ナマエが読んでる漫画のやつか?」
「そう。主人公の女の子がミスエイティーンの子なんだよ。相手役の男の子はキンプレのショウくん」

ふたりとも毎日テレビやらネットニュースやらで名前を見る今をときめく人気者だ。恵はあんまりそういうのに興味がないから、予想通り「ふうん」と気のない返事をした。
漫画を読んでいるからあらすじは知ってるけど、映画オリジナルのキャラクターが出てきたり、漫画にはない展開があったりして結構印象は違う。
あと、これは映画のビジュアルが公開されたときからわかっていたことだけど、ショウくんが演じてる男の子の髪型がちょっと違う。きっちりセットされていて、映画のほうがおしゃれっぽい。

「あ、この駅知ってる。任務で一回寄ったよ」
「駅?」
「ほら、あそこだよ、恵の中学の近くの」

序盤のシーンで見知った駅が出てきた。軽く位置を説明すれば、恵はしばらく考えて「ああ、あそこか」と思い当たったようだった。
恵の住んでたアパートからは逆方向だし、駅名出ないとわかんないよね。
身近な駅がロケ地になってるのってなんかソワソワする。

「ここさぁ、近くに恋愛成就のパワースポットあるんだよ」
「呪霊が凄そうだな」
「そうそう。なんか特に神聖な場所ってわけでもなくって何となくパワースポットって言われてる場所だから、低級呪霊がわんさかだった」

恵と話しながら、そのときの様子を思い出す。
人間に決定的な悪さを出来るような強い呪いはいないんだけど、笑えるくらい数が多かった。
恋愛成就のパワースポットだという湧き水があり、少し離れた場所から石を投げ、特定の場所に入れば成就するという触れ込みだ。
神社でも神域の類でもなく、湧き水は何のご利益もないただの湧き水だということを、あのときすれ違ったお姉さんたちに伝えたい。

「そこに任務だったのか?」
「うん。夜蛾さんと呪骸の実験」

呪骸の実験中、私は適度に呪骸のお目付け役をしながら湧き水に足を浸していた。
夏の暑い時期だったから、冷たい湧き水がめちゃくちゃ気持ちよかった。
夜蛾さんの目を盗んで、所定の位置から一回だけ石を投げてみた。石は放物線を描き、湧き水の中心にある器みたいに削れた石の中へ見事に入った。けれどこんなことで恋愛が成就するなら雑誌で恋愛特集が組まれることもない。
私は結局また足を浸しに戻って、その冷たさを堪能したのだった。そういえば。

「恵の部屋暑くない?」
「普通だろ」

絶対そんなことない。暑い。
恵はあんまりエアコンをつけない。だから恵の部屋もアパートもいつだって夏は暑く冬は寒い。
もう六月だよ、と言おうとして、人様の体感温度に文句をつける前に自分で調節しようと試みる。そうだ、パーカーなんか着てるから暑いんだ。脱いじゃおう。
私は羽織っていたジップアップのパーカーを脱ぎ、オープンショルダーの半そでカットソー姿になった。下はもともとショートパンツだからこれ以上どうしようもないが、うんうん、これだけでずいぶん涼しい。

「お前なぁ…」

なに?と思いながら、脱いだパーカーを軽く畳んで画面に向き直る。
画面の中ではショウくん演じる男の子がヒロインを壁際に追い詰め、ちょっと意地悪く「俺のこと少しは意識しろよ」なんて言っている。壁ドンというやつである。

「ああいうのドキドキしちゃう。ショウくんみたいなイケメンやったらイチコロだよねー」
「全然わかんねぇけど」
「あ、安心して!恵もショウくんと同じくらいかっこいいよ!」
「いや、聞いてねぇよ」

そう言いながら、恵は閉じた本をずっと開いていない。私の感想に「わかんねぇ」「お前好きそう」「興味ない」と言いながらも、画面にずっと付き合ってくれている。恵はなんだかんだ言って優しい。
映画は佳境だ。男の子がヒロインを追いかけて雪の中を走るシーン。公開された冬に見てたらいかにも寒そうで臨場感があったんだろうけど、この初夏に見ると「なんかいけそう」と思ってしまう。
あっと言う間にヒロインを見つけ、男の子がやっと「好きだ」と告白した。ここ、漫画とちょっと流れ違うんだな…。

「面白かったけど、駅が出てきたときあのパワースポットの呪霊思い出しちゃって集中できなかった」

エンドロールを眺めながら、同意を求めたというよりは独り言に近い感想を述べる。
制作会社と配給会社のロゴが出た後チャプター画面に切り替わったので、停止ボタンを押してディスクを取り出した。

「恵、明日から泊まりだよね、仙台だっけ?」
「ああ。呪物の回収」

ディスクをケースにしまい、とたとたと四つん這いで元の場所に戻る。
クッションまでたどり着くと、オレンジジュースの残りをごくんと飲み干した。グラスはすっかり水滴でびちゃびちゃだ。

「いーなー仙台出張。牛タン食べたい」

遊びじゃねぇ。と言われ、わかってるよ、と返す。
わかってるけど、いいじゃん、出張ってなんかカッコいい。しかも単独。私はまだ三級だから、単独任務なんて許されてない。

「恵についていこうかな」
「はぁ?」
「ほら、こっそりついて行ってさ、ホテルは恵の部屋入れてもらえば良いじゃん。寝るのは床で我慢するから」

私がわくわく仙台同行計画を冗談半分で言うと、恵が大きく溜め息をつく。そんなに呆れることなくない?

「…お前、ちょっと無防備すぎるぞ」

とん、と肩を押されて、気がつくと天井と恵が視界に広がっていた。
恵の手が私を逃がさないとばかりに私の顔のすぐ横に伸ばされ、恵はそのまま私のお腹の上に跨る。壁ドン…じゃないな、床ドンってやつか。

「えっ、なに、どうしたの、恵」
「俺も男なんだけど」

眼前の恵が上半身を傾け、じっと私の顔を覗きこんだ。
さっきまでは平気だったのに、急に心臓がどくどくと鳴りだして、全身に急ピッチで血液が送られてる。
恵の顔がゆっくり近づき、睫毛の長さがはっきりと見える。あ、だめ、これ、キスされる、やつ。

「…なんで抵抗しないんだよ」
「えっ!」

な、なんで私がキレられてるの!?
恵は唇が触れるか触れないかのぎりぎりのところまで近づいてピタリと動きを止めると、不服そうな顔になってちょっと離れてから言った。

「男にこんなふうに迫られたら逃げるだろ、普通」
「わ、私だって恵以外の人にこんなことされたらちゃんと逃げるよ!」

恵だから逃げてないんだよ、わかってよ。
恵は目をまん丸にして上体を引き、黙ったまま私の上からどいた。私は何て言ったらいいかもわからずに、ふたりの間に変な沈黙が流れる。
恵は胡坐をかいて、私は体育座りをして、どちらともなく向き合った。恵は決まり悪そうに顔を逸らす。

「勘違いしそうなこと、言うな」

しばらくして、ぽつんと恵が言った。
私は行き場をなくしてぺたりと床に投げ出されている左手に自分の手を重ねて、そろりと近づく。

「…勘違いじゃないよ、ばか」

そう言って、逸らしたまんまになっている恵の顔を覗きこむと、これ以上ないくらい耳まで真っ赤になっている。でもきっと、それは私も同じだ。
だってこんなにほっぺたが熱い。

「…恵、私、恵のことがす、」

き。と言おうとして、それは叶わなかった。
恵の薄い唇が私の間抜けに開いた唇に重ねられたからだ。ほんの一瞬重なっただけのぬくもりはすぐに離れ眼前に恵の整った顔がいっぱいになる。

「好きだ」

あの恋愛成就のパワースポットは、実は本物なんじゃないだろうか。そんなありえないことが頭の中に浮かぶ。
いつからだろう。幼馴染のようなものに、私の中でもっと特別な感情が付け加えられたのは。私が恵を、男の子だって思うようになったのは。

「…この映画の男の子さ、漫画だともうちょっとつんつん頭でクールな感じなんだよ」
「は?」

本当は、ちょっと恵と重ねて見てたなんて、恥ずかしくて言えない。
初めて漫画の表紙を見たとき、恵に似てるからつい買っちゃったんだって言ったら、恵は引く?

「私も、恵が好き」

私はもう一度恵の唇に自分のそれを近づける。たどり着くより先に恵が私の唇を啄ばんで、ちゅっと小さいリップ音がした。
幼馴染みたいなものなんて曖昧な関係じゃなくて、今日から新しい名前をつけて。ねぇ、恵。


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