愛で台無し




※児童買春に関する表現がございますが、それを容認するものでも推奨するものでもございません。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。


「おい恵、お前、迎え行ってこい」

春のぼんやりと暖かな夜のことだった。
談話室を通りかかったとき、急に真希さんにそう声をかけられた。
時計は午後九時。明日は任務だから面倒ごとなら御免被りたいが、これがただの面倒ごとではないと俺は知っていた。

「場所はどこですか」

そう尋ねると、真希さんが「ん」と短く言って、スマホの画面を見せてくる。
そこにはミョウジ先輩からの「真希、お迎えお願い!上着もほしい!」のメッセージと共にマップが表示されていた。
俺は溜め息もそこそこに部屋に戻るとスウェットから着替え、丈の長いジャケットを手に取る。寮の玄関で待ち構えていた真希さんに紙袋を渡され、中を見るとミョウジ先輩のサンダルが入っていた。


ミョウジ先輩がいるだろう場所の最寄の駅で降りると、目的地をアプリで確認しながら住宅街を走る。
電車の中で住所を調べたらよくあるマンションだった。それだけで大体の事の経緯は想像がつく。
駅から俺の足で走って10分もかからない場所にそのマンションはあった。七階建てのそれの外階段をぐるぐると登る。四階と五階の間の階段に、ぺたりとうずくまるミョウジ先輩を見つけた。
上はキャミソールにワイシャツを羽織っていて、下は暗くて見えないけど下着くらいは履いていると信じたい。足元は素足だった。

「なんて格好してんですか、あんたは」

俺の声に顔を上げたミョウジさんが頭の上にハテナマークを飛ばしながらこちらを見ている。続いて手元に視線を落とし、握ったスマホで自分の送ったメッセージを確認しているようだ。

「あれぇ、恵くん?真希は?」
「真希さんに言われて迎えに来ました」
「ああ、ごめんね」

俺は持っていたジャケットをミョウジ先輩の肩に掛け、靴の入った紙袋を渡す。
「ありがとー」と間延びした語調で俺からそれを受け取り、早速いそいそとサンダルを履き、ジャケットに腕を通した。

「今度は何ですか」

ミョウジ先輩がどうしてこんなことになっているのか、理由はいくつか思いつく。そもそもこんなふうになっているのは初めてじゃない。数を数えるのは数年前に面倒になって辞めた。

「えっちしてる時にさぁ、蝿頭が見えたの。あ〜と思って反射的に祓ったのね。そしたら相手がちょっと感じ取れる系の人だったみたいで、気味悪がられちゃって締め出し」
「彼氏ですか」
「違うよー」

彼氏でもない男と、この先輩は寝る。
今に始まったことじゃない。それにしてもこんな格好のまま外に放り出すとは今回の男は特別酷いな。
そういえば、初めてこの人に会ったときも似たような格好をしていた。


俺がまだ小学校の三年の頃。
津美紀と二人で住んでいたボロアパートと学校の間、同じくらいのボロアパートの鉄階段に、よれよれのタンクトップ一枚のほとんど裸みたいな少女が痣だらけで座っていた。それがミョウジ先輩だった。

「きみ、何か用?」

面食らってじっと見てしまっていたから、視線に気がついたミョウジ先輩が俺にそう問いかけて、俺は見てはいけないものを見たような気分になり何も返事をすることなくその場を走り去った。
自分のアパートについて、荒い呼吸で帰宅した俺を不審に思った津美紀が「何かあったの?」としつこく問い詰めてきたから、俺は正直に自分の見た少女のことを話した。

「へんな、女子がいたから。裸みたいなかっこうで、怪我だらけで…」
「えっ、どこで?」
「四丁目の郵便局の近くの…ボロアパートのとこ」
「それきっと、隣のクラスのミョウジさんだ!」

津美紀は俺の話を聞いて思い当たる節があったようで、慌てて玄関に向かうと「すぐ戻るからね」と俺に行って走って出て行ってしまった。
その言葉の通り津美紀はものの10分ほどで帰ってきた。ミョウジ先輩を連れて。

「ミョウジさん、今日お父さんもお母さんもいないんだって。一緒にごはん食べようね」

津美紀に押されるようにして連れてこられてただろうミョウジ先輩は、居心地が悪そうに俯いていた。
その晩、俺たちは丸い小さいちゃぶ台を囲んで食事をした。うちに来たときタンクトップ一枚だった先輩は津美紀の服を着ていた。

「美味しい…伏黒さん、お料理上手なんだね」
「津美紀でいいよ。私もナマエちゃんって呼んでいい?」
「うん…津美紀ちゃん…」

俺と津美紀は大人に見捨てられた子供だった。正確には当時既に五条先生が後見人になってくれてはいたけれど。
だから同じような境遇にいる子供のことはなんとなく見分けることができた。

端的に言うと、ミョウジ先輩は虐待を受けて児童買春をさせられていた。
これは先輩と津美紀が六年生の頃、俺と津美紀だけにこっそりと教えてくれたことだ。ろくでもない母親に育てられ、その母親が連れてきた男とセックスを強要された。反抗すれば着の身着のままで家の外に放り出されたという。

「気味の悪い子ってお母さんが私をぶつの。私、変な化け物みたいなのが見えるから」

俺はそれを聞いて「呪いだ」とすぐに直感した。
次の週に俺たちの様子を見にやってきた五条先生に「変な化け物みたいなのが見えること」を相談したら、ミョウジ先輩を見てくれることになって、俺の直感は正しかったと証明された。
虐待のことを五条先生に見抜かれてもミョウジ先輩は、自分の家のことを話さなかった。

「…五条さん、わかってるんでしょ、なんで、ナマエさんのことは助けてくれないんですか」
「本人が何でもないって、家を離れないって言ってるんだ。僕にはどうしようもないよ」
「でも…!」

恵。と俺の名前を呼んで、五条先生は言葉を制した。

「誰かを守るにはね、少なくともまず強くないといけない。あの子を劣悪な環境から無理矢理にでも連れ出したいっていうんなら、君が強くなって、檻から逃げる方法を教えてあげるしかないんだよ」

ミョウジ先輩は、児童擁護施設に入ることも、五条先生に助けを求めることもしなかった。高専に入るまで、時折五条先生が行う俺の訓練に混ざるだけで、あとは今までと同じ暮らしをするというのだ。

「多分だけどね、恵。あの子は今の生き方しか知らない。恵が教えてあげなよ、他の生き方があるってこと」

五条先生は珍しく真面目な声で言った。今思えば、このとき既に俺はミョウジ先輩のことが好きだったんだろう。それがむかつくことに、五条先生にはお見通しだったというわけだ。


ミョウジ先輩と並んで夜道を歩く。サンダルのぺたぺたという音が煩い。夕飯時の住宅街だから、時々犬の鳴く声と、どこかの家から漏れ聞こえるテレビの音と、それから誰かの笑い声が聞こえる。なのに、俺とミョウジ先輩はまるで世界から切り離されたようだった。

「ミョウジ先輩、いい加減こういうの辞めたらどうですか」
「こういうのって?」

先輩がはぐらかすので、苛立った俺が舌打ちをすれば先輩は「ごめんごめん」と思ってもないくせに謝罪した。

「どう考えても良くないじゃないですか、こんなの」
「浮気とかはしてないよ?相手もフリーってちゃんと確認してるし」
「そうじゃなくて」

この人はいつもこうだ。悪戯に自分を粗末に扱うような真似をしてくれるなと今までだって散々言ってきたのに、一度も伝わったことがない。

「クセみたいなものだからなぁ」

クセってなんだよ。
腹が立つ。五年も経って、まだ俺はこの人を連れ出すことが出来ていない。自分の不甲斐なさに、腹が立つ。
俺は意味もなく地面を睨みつけた。

「何が欲しくて、こんなことばっかりしてるんですか」
「今日の恵くんは質問が多いねぇ」
「茶化さないでください」

噛み付くようにそう言えば、ミョウジ先輩はようやくへらへら笑うのをやめ、華奢な顎に手を掛けてじっと考え始めた。つんとした鼻先を街灯の青白い光が照らす。
うーん、と唸るあいだ、二台の車が真横を走り去っていった。

「…そうだなぁ。昔から、私ってこんなふうじゃない?だから、安心するのかも。誰かの体温感じて、えっちして、何にも考えないでいられると」

じんとした声だった。どこにも反響せず、まるで俺にだけ聞こえるような、そんなひっそりとした温度だ。
このひとは未だ、この生き方しか知らない。

「誰かの体温っていうのがどこの誰だっていいんなら、例えば、俺が彼氏になったら辞めてくれるんですか、こういうの」
「え?」

俺は隣を歩くミョウジ先輩の手首を掴み、その反動でミョウジ先輩がぐんと勢いよく立ち止まった。
驚いた彼女はそのやわい顔を俺に向け、何度かぱちぱちと瞬きをする。

「好きだ」

あんたが生きるべき世界はもっと広くて、もっとあったかいところのはずなんだ。
少なくとも愛も情もない相手に身体を開いて、悪戯に傷つくような生き方じゃない。
あんたには、もっとちゃんと愛されていて欲しい。

「名前…」
「は?」

手首をくるんと回し、手のひらを上に向け、ミョウジ先輩は俺の手首を握った。春先の風に冷やされた指先が俺の静脈を撫でる。
長い睫毛は街灯によって頬に影を落とした。

「いつからか、恵くん私のこと名前で呼んでくれなくなっちゃったから寂しかったんだ」

思いがけない言葉に、俺は記憶を辿る。あれは多分中学の頃、ミョウジ先輩が少しも俺のことを意識してくれないのが悔しくて始めたことだった。それを先輩が寂しく思っているなんて、想像もしたことがなかった。

「恵くんと付き合ったら、また名前で呼んでくれる?」

そんなの。

「いくらでも呼びますよ」

ミョウジ先輩は、ナマエさんはへにゃっと笑って「じゃあ付き合おう」と言った。
俺はナマエさんの手首を掴んでいた力を緩め、手のひらがぴったりと重なり合うように指を手を繋いだ。するとナマエさんが指を絡めてきたので、もっとぴったりと隙間なく繋がった。

駅前まで着いたら、もったいないから電車でいいよ、というナマエさんを押し切ってタクシーの列に並んだ。
ジャケットを羽織ってるとはいえ、あんた自分がどんな格好してるのかわかってないだろ。このひとの安売り癖を、早速今日から直してもらわなければならない。

「覚悟して下さいね」
「うん?」

ナマエさんが生きてきたろくでもない世界を、愛して台無しにしてやる。


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