リングワンダリング


ぐるぐるぐるぐる、私はずっと同じところを回っている。
ぐるぐるぐるぐる、出口はない、横道もない。私はただひとつ目の前の道を、途方に暮れながら歩き続けている。

高専二年生のとき、私は大切な人をふたり失った。灰原雄、それから夏油傑。前者は気心の知れた大切な同期で、後者は大好きな憧れの先輩だった。
私は当時夏油先輩のことが好きで、夏油先輩も私と灰原くんと七海くんをまとめてよく面倒を見てくれた。優しい憧れの先輩のことを、灰原くんといつも話題にしていた。
夏に灰原くんが死んで、秋に夏油先輩が離反した。
不思議と涙は出てこなくて、私はただ呆然と中庭のベンチで空を眺めていた。見事な秋晴れの空だった。

「ミョウジ先輩…」
「…あれ、伊地知くん」

ふと気づくと、目の前に伊地知くんが立っていた。彼はいつも以上に不安そうな顔をして立っていたので、私はベンチの隣をぽんぽんと叩く。
伊地知くんがそろりと近づいてきたから、彼が座ったのを確認してから隣の自販機でカフェオレを二本買った。

「はい、どーぞ」
「えっ、あっ、ありがとうございます…」

特級術師夏油傑の離反という事実が呪術界に与えた衝撃は大きかった。とくに、五条先輩は近寄れないほど荒れている。
伊地知くんもさぞびっくりしたことだろうと思う。

「びっくりしたねぇ」
「あの、その、ミョウジさんは…」
「ん?私?」

主語はなかったけれど、私たちは互いに何のことだかをよくわかっていた。
それくらいこのところの高専はその話題で持ちきりだった。尤も、大きな声でそんな話をするひとなんていなかったけれど。

「大丈夫。術師だから」

耐えられなくなった人がリタイアする、仲間が死ぬ、守れなかった人が死ぬ。そんなのはこの世界では日常茶飯事だ。まあ一般人呪殺して逃亡なんてのは流石にレアケースなんだけど。
大丈夫。そう、大丈夫なのだ。だって私は、呪術師なのだから。
依然不安そうな顔の伊地知くんに、私はにこりと笑ってみせた。


高専を卒業し、七海くんが呪術師を辞めた。一般企業に就職するらしい。灰原くんが死んだときからなんとなくそうなるんじゃないかと思っていた。
私はその日も中庭のベンチに座って空を眺めていた。もう大好きな憧れの先輩も、優しい同期もこの世にいない。ずっと一緒に戦ってくれた七海くんだって、ここを出て行ってしまった。
霞がかったような空が、麗らかな春の陽射しを届ける。

「あ、伊地知くん」

あの日と同じように、伊地知くんが目の前に立っていた。私はまたぽんぽんとベンチを叩き、伊地知くんに座るよう誘導する。

「あの、ミョウジさん」
「何飲む?カフェオレでいい?」
「あの…」

隣でなにか言いづらそうにする伊地知くんを遮って、私は立ち上がった。
優しい彼の言葉をいまは聞きたくなかった。
私は自販機に二人分のお金を入れて、ピ、とカフェオレのボタンを押す。

「私のことめちゃくちゃに抱いてって言ったら、伊地知くん抱いてくれる?」

がこん。カフェオレが取り出し口に落ちる音がした。
ちらりと横目で見ると、伊地知くんが真っ赤になったあと、青ざめたような顔になっておろおろと動揺し始めた。

「えっ、あの、そんな…!」
「ふふ、わかってる。ごめんごめん」

冗談だよ。とは言わなかった。冗談じゃなかったから。
心の拠りどころ、というとチープな言葉だけど、私はそういうものの一切を失ったのだった。
何か圧倒的な本能で、自分を塗りつぶすことが出来たらいいのに。そうしたらそんな言葉を考えずにいられる。

「…ミョウジさんには、自分を大事にして欲しいんです」

伊地知くんは渡されたカフェオレを両手でぎゅっと握って、奥歯を噛み締めるような声で言った。
私はプルタブを引いて缶を開け、ごくりと一口分喉に流し込んだ。自販機のカフェオレはもう冷たいものに切り替わり始めていた。

「自分を大事にするって、難しいね」

リングワンダリングという言葉がある。
円を描くように、同じ場所でぐるぐると彷徨い歩くことをいうのだそうだ。平坦な場所で視界を失うような時、またはランドマークになるようなものの見当たらないとき、その現象は促進されるらしい。
まるで私だな、と、アルミ缶の縁をなぞりながら笑った。


憧れの先輩も、優しい同期もいなくなっても、お付き合いしていた術師が先週死んでも、私は往生際悪く術師を続けていた。
気がつけば準一級術師にまでなることが出来ていて、なんとなくここが私の打ち止めだろうな、というものを最近感じている。

「あれ、伊地知くんだ」

任務の報告に訪れた高専で伊地知くんを見かけた。おーい、と呼びかけて手を挙げると、気がついた伊地知くんが私のほうへ駆け寄ってくる。
伊地知くんは補助監督になった。優しい彼には、術師になることはできなかった。

「出張帰りですか?」
「うん。久しぶりだね、同じ場所で働いてて久しぶりなんていうのもヘンだけど」

どちらともなく歩き始めて、気がつくといつものベンチに辿りついていた。
ベンチの前の木は、紅葉が始まっている。紅葉と、桜と、あと名前のわからない木が何種類か。

「伊地知くん、何飲む?」
「えっ、いいですよそんな」
「いいからいいから」

もう学生じゃないですからと遠慮する伊地知くんを押し切って、今日も私はカフェオレのボタンを押した。押してしまえばもう断れないので、伊地知くんは大人しくそれを受け取る。
プルタブを引けば、かしゅ、とアルミの擦れる音がした。

「伊地知くん最近どう?五条先輩に無茶言われてない?」
「はは…ノーコメントで…」
「ふふ、五条先輩、伊地知くんのことお気に入りだからなぁ」
「そうですかね?」

ベンチに並んで座る。澄んだ青空の下を、赤とんぼが飛んでいった。
そうだよ。と言って私はあのとんでもなく軽薄で、恐ろしく強い先輩のことを思い浮かべる。
そうすると不思議なもので、もう何年も見ていない憧れの先輩のことまで思い出してしまった。ちょうど、あれも秋だった。

「ミョウジさん?」
「ん、あ、いや、なんでもないよ」

夏油先輩のこと、灰原くんのこと、七海のこと、優しくしてくれた先輩術師、懐いてくれた後輩、それから先週死んだ恋人のこと。私はひとりひとりの顔をじっと思い浮かべた。
私より強い人も、弱い人も、皆死んだり、或いはここを離れていった。私だけが同じ場所で何も変えることが出来ずにぐるぐるぐるぐると歩いている。

「私さ、先月付き合い始めた人がいたの」

はい、と伊地知くんは小さな声で返事をした。いつもより小さな声だったのは、多分私がこの後になんて言うのか分かっていたからだと思う。伊地知くんは補助監督だ。術師の死を知らないわけがない。

「先週ね、彼、死んじゃったんだ」

良い人だった。付き合って日は浅くて深い仲にはなっていなかったけど、優しく思いやりのある善人だった。非術師の家系出身で、術師のわりに普通の感性を持ち合わせていて、私に「泣かないで」と声をかけてくれるひとだった。
優しくて、正しかった。きっと、だから、死んだのだと思う。

「ミョウジさん」

伊地知くんの声は咎めるようだった。
眼前の木に、雌雄が輪になったトンボがとまっていた。きっとこの二匹は今、自分の子孫をどうにか残そうという本能だけで輪になっている。他のことは何にも考えていない。無駄なことは考えてなんかいない。一心不乱に、命を燃やしている。

「伊地知くんはさぁ、私のことめちゃくちゃに抱いてって言ったら、抱いてくれる?」
「ミョウジさん」
「もうね、びっくりしちゃう。付き合ってる人が死んじゃうのこれで二回目なの」
「ミョウジさん」
「ほんと、もう、何にも考えたくないの、私ばっかり生きててもしょうがないのに」
「ミョウジさん!」

ばちん。頬に痛みが走った。伊地知くんの手が私の頬を打ったのだと、数秒遅れて理解した。
痛いのは私のはずなのに、伊地知くんを見ると、彼のほうがよっぽど痛そうな顔をしていた。

「…これ以上言うなら、私は本当にミョウジさんを抱きますよ」

伊地知くんが私の肩を引いて、私の身体をぐっと抱きすくめる。ミントのすっとした匂いが香ってきた。
伊地知くんの身体は術師と違ってちょっと薄くて、でもあったかくて心地が良い。

「泣いて下さい。誰も見ていませんから」

そう言われて、私は初めて、自分が泣きたかったのだと知った。
小学生ぶりに流した涙は、ぼたぼたと容赦なく溢れ続け、伊地知くんの背広を濡らした。泣き方なんて忘れてしまったと思っていたのに、身体はどうやら覚えていたらしい。

「あのときだって、冗談なんかじゃないって、気づいてましたよ」

伊地知くんの優しい声が耳を撫でる。骨っぽい大きな手が私の背中をあやすように優しく叩いた。

「私はずっと、ミョウジさんを見てきましたから」

私を、伊地知くんが?
抱きすくめられた力が思いのほか強く、身体を離して伊地知くんの顔を見ようとしたのに、伊地知くんはそれを許してくれなかった。
私は仕方なくそのままの姿勢から顔を上げて、視界に入った伊地知くんの後頭部を見る。するとその向こうで、輪になったトンボがどこかへ飛んでいってしまうのが目に入った。

「…いつから?」
「もうずっとです。恥ずかしくなるくらい、ずっと」

ぐるぐるぐるぐる、私はずっと同じところを回っている。
私はようやく、このどうしようもない場所でひとつのランドマークを見つけた。


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