家族になれない


私の恋人は、夜になると窓から会いに来てくれる。

「会いに来たよ、ナマエ」

私には見えない、何かに乗って。


幼馴染の傑くんは、昔から頭が良くて優しい男の子だった。ドジでのろまな私に懲りずに付き合ってくれて、男女の幼馴染だったのに中学校の間も一緒に登校してくれた。
真面目で、優等生で、でも少しだけ悪戯好きの、私の大好きな幼馴染だ。
その傑くんと私に転機が訪れたのは、中学三年生のときだった。

「ナマエ、好きだよ、私と付き合って欲しい」

学校からの帰り、それぞれの家に分かれる道で、傑くんが私の手を握って言った。

「わ、私でいいの…?」
「ナマエがいいんだ」

私は嬉しくって、ろくに言葉も出すことが出来なくって、うんうんと何度も頷いた。すると傑くんが私の髪を梳くように何度も撫でてくれて、気がついたら私は泣いてしまっていた。


傑くんは、このあたりの高校には進学しないらしい。郊外の宗教系の専門学校に通うのだそうだ。
そこでは寮で生活するらしく、私と傑くんは少しの遠距離恋愛になった。家が元々近すぎたから遠いと感じるだけで、一般的には遠距離恋愛と呼ばない距離なのかもしれないけど。

「寂しい?」
「…うん。だって毎日一緒にいてくれたんだもん」

傑くんが家を出るという日、我慢をしていたのに傑くんがそんなことを言うから、堪えきれなかった本音が溢れた。

「じゃあ毎週ナマエに会いに来るよ」
「毎週?」
「ああ。金曜日の夜にしよう」

傑くんと私は指切りをして、それからちょこんと触れるだけのキスをした。
初めて触れる傑くんの唇は熱くて、ほんの少し触れただけとういのに燃えてしまいそうだと思った。


「会いに来たよ、ナマエ」

初めての約束の金曜日の夕方、傑くんは私のケータイに「窓から下を見て」とメールを入れてくれて、私がその通りに二階の自室から窓の外を見ると、真下の歩道に傑くんが立っていた。

「傑くん!」

私はそう声を上げて、トタトタと階段を降りる。途中リビングにいた母に「どこか行くの?」と聞かれたから「傑くんが来てくれたの」といえば「気を付けてね」とだけ言われた。
傑くんのことはもちろん母も知っていて、なんなら傑くんのお母さんやお父さんのこともよく知っている。
だからもうすぐ夕飯だという時間に出ていくことも、傑くんが一緒だと言えば咎められることはなかった。

「傑くん!」
「や、ナマエ」

傑くんがひらりと手を振って、私を迎えてくれた。傑くんは上下真っ黒な服で、多分制服なんだろうと思ったけれど、学ランじゃなくってなんだか不思議な服だった。
ボタンも少ないし、ズボンもなんだか幅が広くて工事現場の人みたい。

「それ、高校の制服?可愛いね」
「ありがとう、傑くんも制服?だよね、不思議な形」

中学の頃はセーラー服だったから、ブレザーは着慣れない。傑くんが褒めてくれるのがくすぐったくて、意味もなくスカートの裾を何回も直した。
傑くんの制服もかっこいい。傑くんは何を着たってかっこいいんだけど、見慣れない服のときはいつもドキドキしちゃう。

「ああ、これね、カスタムしてもらえるんだよ」

カスタム?制服でそんなことができるんだ、変わった学校なのかなぁ。
傑くんは自分の通う学校のことをあまり教えてくれなかった。私立の学校だって言っていたけれど、なんて名前だっただろうか。

「ちょっと歩く?ナマエの好きなツツジが咲いてたよ」
「公園の?」

行きたい!私はそう言って傑くんの差し出した手を握る。
公園のツツジというのは、私と傑くんが小さい頃からよく遊んでいる川沿いの公園に毎年見事に咲くものだ。
二人で並んで歩く。傑くんの顔は、見上げないといけないほど離れてしまった。
じっとその整った顔を見つめていると、その視線に気付いた傑くんが「ん?」と言って私に笑いかけた。

「ううん。なんでもない」
「見惚れた?」
「もう、傑くんはいじわるだ」

私は急いで視線を逸らして、前とも下ともつかない中途半端な場所に視線を投げる。
「ごめんごめん」と口先だけで謝って、傑くんが手を握る力を強くした。私もそれに応えてぎゅっと握り返す。
徒歩十分。きっと遊んでいた子供たちも夕飯の時間だからと家に帰ったんだろう、たどり着いた公園には誰もいなかった。夕暮れのじんわりオレンジ色の光がフィルターをかけたように景色を霞ませる。

「ナマエ、見て、ツツジ」
「本当だ。今年も綺麗に咲いたね」
「公園のツツジはこうやって丸く剪定されるみたいだけど、野生のツツジはもっと大きく自由に育つらしいよ」
「そうなの?」

傑くんはなんでも知ってるなぁ。聞けば、傑くんの通う高専にはもっと大きくて野性味のあるツツジが咲いているらしい。
そのあと私と傑くんはなんでもない話をして、行きよりも時間をかけて家路についたのだった。


私と傑くんのお付き合いは順調だった。
基本的には毎週金曜日の約束通り傑くんは私に会いに来てくれて、学校が忙しい日や用事のある日は事前にメールをしてくれた。
傑くんの学校生活が忙しくなるにつれ、予定が合わない日は増えていったけれど、その分傑くんはマメにメールをくれたり、時折電話もしてくれた。
そんな生活が続いた高校二年の春。夜の十時。

「会いに来たよ、ナマエ」

いつもならメールをくれて家のそばで待ち合わせをするのに、私はその日いつものセリフを自分の部屋で聞いた。
え、と思って窓の外を見ると、傑くんが空中に浮いていた。

「す、傑くん?え、なに、な、なんで浮いて…」

私は窓に駆け寄って、ガラガラと急いでそれを開ける。やっぱり傑くんは空中に浮いていた。
傑くんはぽんと飛び移るようにして私の部屋へ入った。

「驚かせてすまないね。これはなんというか…一般人には見えない力みたいな、そんなところ」

曰く、時間がなかったからついね。と、傑くんは悪戯っ子みたいな顔で言った。
傑くんは昔からみんなより大人びていて、ちょっと変わったところがあったけれど、私は今日までこんなところに遭遇したことがなかった。
両親が今日は夜勤と出張だったので、傑くんが窓から入ってきても何の説明もせずにすんだ。
お茶を持って部屋に戻ると、傑くんが私のベッドに寄りかかって眠ってしまっていた。

「傑くん?」

控えめに声をかけてみたけれど、起きる気配はない。私は傑くんに毛布をかけて、隣で体育座りをしながらその寝顔を眺めた。
ああ、そうだ。遭遇したことがないなんてことはなかった。
小学三年生頃、私は傑くんと一緒に怖い思いをしたんだった。


学校のすぐそばの祠がある空き地は、私と傑くんが通うそろばん教室の抜け道だった。
その日は見たいアニメがあるからいつもは通らないその空き地を抜けようという話になって、私と傑くんはその場所に足を踏み入れた。
手入れされているのかいないのかも曖昧なその場所の木は乱雑に伸び、まだ夕方だっていうのに空き地を真っ暗にしている。

「やっぱりやめよう」
「走って行ったら大丈夫だよ」

やめよう、という傑くんを押し切って、私はそう言った。
大した広さもないはずなのに空き地は途方もなく遠く感じた。走っても走っても辿りつかない。どころか出口さえ見えてこない。
どうしよう、どうしよう。

「あっ…!」

そのうちに私は地面の何かに足をとられてバタンと転んでしまった。手を繋いでいた傑くんも巻き添えになり、引きずられて尻餅をつく。
見えない、はずなのに私の足は何かに掴まれているようだった。怖い、怖い、どうしよう。

「ナマエちゃん、ナマエちゃん!」

傑くんが心配そうな声で私の名前を呼ぶ。見上げた傑くんはひどく不安そうな顔をしていた。

「いま、いま、助けてあげるから…!」

そう言って、傑くんが私の足に何度か触れると、掴まれているような感覚がすうっとなくなった。
傑くんが少し乱暴に腕を引いて私を立ち上がらせると、何度も足をもつれさせながら私と傑くんは空き地を走って逃げ出した。

「ナマエちゃん、大丈夫?」

傑くんだって怖かったはずなのに眉をぎゅっと寄せるばかりで、涙を流すことはなかった。反対に私は、もう涙が出なくなるんじゃないかというほど泣いた。泣いているあいだ、傑くんはずっと私の頭を撫で続けてくれた。


「ん、ぅう…」
「ナマエ、起きた?」
「すぐる、くん?」

ああ、そうか、傑くんの寝顔を見ながら寝ちゃったんだ。
毛布は私と傑くんをひとまとめに包んでいて、寝る前よりも傑くんと寄り添うかたちになっていた。

「ごめん、寝ちゃってた」
「私もだ」
「疲れてたの?」
「どうだろう」

自分のことなのにどうだろう、なんて不思議なことを言うなぁ。
傑くんは私の頭を撫でて、それから髪にキスをした。傑くんは、こういうちょっぴりキザなことを平気でやるんだから困っちゃう。
時計を確認すると、深夜の二時をまわったところだった。

「任務で沖縄にね、行ったんだ」

はい、お土産。そう言って、傑くんが差し出したのは、星の形をしたクッキーだった。

「わぁ可愛い。ありがとう」

任務、というのは、傑くんがここ半年くらいポロリとこぼしている言葉だ。
初めてその言葉を聞いた時は聞き返して、それをはぐらかされた。それからは深く聞いてはいけないのだと思い、私はその言葉を追求することができていない。
ふと傑くんを見上げると、何だか苦しそうな顔をしていた。

「傑くん、何かあった?」
「…いや、平気だよ」

本当に?と尋ねようとして開いた口を、傑くんはあっという間に塞いだ。やっぱり傑くんの唇は熱いので、私は燃えてしまいそうだと思うのだった。
下唇をそっと噛まれ、あ、と思った時には傑くんの舌が私の口内に侵入していて、少しの抵抗の暇も与えず絡めとられた。それから傑くんは私のことを抱きしめ、手を縫い留められて、そのまま初めて体を繋げた。
傑くんは少し苦しそうにしていて、初めてで痛かったはずなのに、痛みなんて感じていられなかった。
それでも、泣いたのは私だった。好きなひとと繋がれて嬉しかったのにどうして涙が出るのか、わからなかったけれど私は泣いた。


私と傑くんのお付き合いはそれからも変わらなかった。傑くんは私の見えない何かに乗るようにして部屋を訪れ、何でもない話をしたり、キスをしたり、エッチをしたりした。
会える日はどんどん減っていたけれど、メールも電話も相変わらずくれたし、会える日にはたくさん愛してくれた。
寂しいという気持ちはあったけれど、それを不満に思うことはなかった。

2007年、9月。日中は暑さがまだまだ残るけれど、夜になると少しだけましだ。
今日は金曜日、傑くんが会いにきてくれる日。
私は深夜、自分の部屋でぼうっと報道番組を見ていた。先週起きた南の島国での災害のニュースだった。
傑くんから今日は来れるとメールが入っていたから、先週買った可愛い部屋着をおろした。いつ来てくれるかな。時計の針は深夜の一時を指している。

「会いに来たよ、ナマエ」

不意にそう声がして、傑くんがいつも通り窓辺に姿を現した。暗くてよく見えないけれど、頬に汚れがついている。
任務?か、何かだったんだろうか。
私は窓辺に近寄って、いつもの通り手を伸ばす。傑くんは私の手を取って、そっと引き寄せてくれた。足元には何かがあるような感触はあるのに、何があるのか今日も見えない。

「好きだよ」

ごめんね。と、聞こえた気がした。好きだよと言われたはずなのに。どうして、そんなふうに。
傑くんは私の頬に手を添えて、そっと顔を近づけると私にゆっくりキスをした。触れた唇が、氷みたいに冷たい。

「すぐるくん」

あっと言う間に、今度は目に見えない何かによって空中に吊り上げられた。
状況を理解できないまま傑くんのほうを見ると、ちょうど月が雲から這い出たようであたりを静かに照らしていく。
傑くんの頬の汚れが、濁った赤色であることに気がついた。泣いてなんかいないのに、泣いているみたい。
そうだ、傑くんはいつも、泣くのがへたくそなんだった。

「あっ…」

泣いてもいいんだよ、と、言おうとしたところで、私は見えない何かに引きずり込まれるように視界を失った。
私はついぞ、夏油傑というひとを救うことが出来なかったのだと、鈍っていく意識の中で思い知った。


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