幸福論


春は嫌いだ。嫌なことを思い出すから。

「夏油、ちょっと自転車乗る気ない?」
「は?」

ナマエは唐突にそう言い、錆びたオンボロの自転車をきぃきぃと引きずっていた。
高専を出て半年と少し、金と呪いを集めるのに宗教団体の利用を思いついたが、そう簡単にことが運ぶわけもなかった。
二階建てのアパートは錆びた外階段つきの築35年のヴィンテージ。立て付けの悪い窓を開けると、坂を下った先に砂浜が見える。尤も、観光地化はされていないだだっ広い砂浜だ。
風呂はアンティークなタイル張り。夏は良さそうだけど、冬の間は足先が冷えて仕方がない。畳もところどころ日に焼けていて、掃除しても換気しても部屋はなんとなくカビくさい。
つまるところ、現在の住まいは田舎のオンボロアパートだった。


悟と硝子に別れを告げてからひとつ季節が過ぎた。外では雪がちらついている。
もう一人の同期には会えずじまいだったな、と未練がましくその顔を思い浮かべてみたが、そうしたところで何がどうなるわけでもない。
菜々子と美々子を連れて始めた逃亡生活は何かとままならないことも多かった。決して自分の選択を後悔はしていないが、何の準備もせずに実行に移したのは少し短慮だったなと思う。
特級という身分で稼いでいた金を元手に東京から離れた港町にアパートを借りた。ろくに子供の相手もしたことがなかったのに、食事やら風呂やら何かと二人の面倒をみるのは、中々に難しい。
蓄えも無限にあるわけではない。金と呪いを効率よく集める方法を早く編み出し、実行する必要があった。

「とはいってもな」

術師の家系でないことはしがらみもなく大変にすばらしいことだが、何のネットワークもないのは非常に不利だった。
どこか何かのツテを早々に掴んで、この燻った現状をなんとかしなくては。
そんなことを考えていると、ピンポン、と古めかしいチャイムが鳴った。何の訪問者の予定もなかったはずだが、ただでさえ男と小さい女の子二人という変な組み合わせで目をつけられかねないのだから、居留守をするのは得策ではない。
「はい」と返事をしてドアを開けると、目の前には見知った顔が鼻を真っ赤にして立っていた。

「来ちゃった」

たったひとり、会えないままでいた同期。ナマエだ。

「はぁ、寒ぅ…ごめんだけど中に入れてくんない?もう超寒い。明日は絶対大雪だって」

あの日探しても探しても会えなかった彼女が、どうしてこんなところに?高専の差し金か?
それにしては何の敵意も感じない。
私が警戒を隠さずその場を譲らないでいると、ナマエは眉を下げて困ったような顔をした。

「私高専辞めたんだよ」
「は?」
「だから、辞めたの。高専。今はなんていうか…フリーの術師?みたいな?」

ナマエは「はい」と言って紙袋を押し付けた。中には東京バナナと人形焼と東京駅限定のチョコクランチが入っている。
何のつもりか、と思っていたら「お土産だよ」となんでもないような顔で言われた。

「どうしてここが分かった」
「え?女のカンってやつ?」
「真面目に答えろ」

そう凄むと、ナマエは怒んないでよ、と両手を振る。
私は呪詛師として手配されている身だ。どんな理由かは知らないが、高専を辞めたからといって呪術規定を守らない理由にはなり得ない。

「ごめんごめん。私が個人的に探したの。めっちゃ大変だったんだよ、掲示板で知り合った仲介屋さんにいろいろ調べてもらってさぁ。ようやくたどり着いたってわけ。すごいお金かかった」

その言葉に嘘はないようだった。ナマエはポケットからカイロを取り出し、両手で握って暖を取る。見ただけでわかるほど真っ赤になっていて、ひどく痛そうだ。ここに辿りつくまでも随分時間を要したことが伺えた。

「私は処刑対象の呪詛師だぞ。一体何を考えて――」

いるんだ。と続けようとして、続けられなかった。寒さですっかり冷え切った身体で、ナマエがぎゅっと私に抱きついてきたからだ。

「好きな人に会いたいっていうのに、そんなに理由なきゃだめ?」

四ヶ月もかかっちゃった。と言って、顔を上げた彼女が笑った。

「ナマエ私のこと好きだったの?」
「気づいてなかったの?」

「全く」と返せば「ひど!」と相槌をうってからぱっと身体を離し、ナマエはまたカラカラと笑う。
まだ四ヶ月しか経っていないのに、その笑顔がどうしようもなく懐かしいものに感じた。

「私の気持ちは変わんないから、夏油が許してくれんならそばにいさせてよ」



ぎぃぎぃぎぃ、今にも壊れそうな音を立てながら自転車は坂道を下る。いや、下るというよりは転がると言ったほうが正しいだろう。
車通りがないのを良いことに、アパートから海まで続く急斜面をとんでもない速度で駆けていく。
私がサドルに跨っていて、ナマエは荷台に乗って私の腰をぎゅっと掴んでいた。彼女が景色を見ようと左右に身体を揺らすものだから、安定が悪くて仕方ない。
乗った瞬間からこのオンボロ自転車が二人乗りに耐えれるはずがないことは明白だったが、そんなものは後の祭りだ。

「夏油ー!みて!海!!」
「言われなくても!見えてる!!」

最悪だ。しかもこの自転車今ブレーキが切れたぞ。
この坂道は最後コンクリートの階段を下って砂浜に直結している。このまま行けば確実に浜に突っ込む。
後ろのナマエは能天気に笑ったまんまだ。

「やば!もしかしてブレーキ切れちゃった系?」
「もしかしなくても今切れたところだよ!」
「はは、夏油もガチ切れじゃん!」

笑い事か!と言おうとしたところで、勢いづいた自転車はそのままコンクリートの階段をがたがたと下り、私とナマエは盛大に砂を巻き上げながら砂浜に投げ出された。
受身を取ったから怪我はないが、オンボロ自転車は少し離れたところで見事に分解している。

「てか、夏油は呪霊でもなんでも出せばよかったよね」
「あ」
「うそ、気づいてなかったの?てっきりあえて道連れになってくれたんだと思ってたんだけど」

夏油ってときどきめっちゃ天然だよね。と言って、ナマエは砂浜の上に大の字に寝転がった。
そうだ。そもそもブレーキ切れた段階で飛ぶなり何なりすればよかったものを、何律儀に投げ出されるまで乗っていたんだ。

「夏油のそういうとこ好きだよ」
「…君も飽きないな」
「飽きるわけないじゃん」

ナマエは、高専在学中はどちらかというと悟に似たタイプで、悟が悪巧みを始めると真っ先に飛びついて参加していた。傍若無人な彼女に菜々子と美々子の世話なんぞ務まるものか、と思ったが、意外や意外、子供の扱いも家事も充分に心得ていた。
四人での生活を始めてから三ヶ月、ふたりはよくナマエに懐き、私がひとりで面倒を見ていたときより目に見えて楽しそうに過ごしている。

「そうだ。多分そろそろ孔さんから連絡来ると思うよ」
「いいところ見つかったって?」
「たぶん。結構積んだし、あの人仕事のことは信頼できるから」

孔とは、ナマエが呪詛師御用達の掲示板で知り合った仲介人だ。私の所在もその男に頼って見つけたらしいし、その道の仲介人としては良い仕事をしてくれるだろうと期待している。
金と呪いが集められれば基本的にこだわりはないが、厄介ごとを抱えているようなところは避けたい。

「教祖様はどんな格好して人前に出るつもり?」
「そうだな。袈裟とかはどうだい?」
「胡散くさ!」
「ハッタリは大事だろう?」

私とナマエは麗らかな春の空の下で浜辺に寝転び、まるでピクニックの予定を立てるみたいにこれから行う大それた犯罪の計画について話した。
宗教団体を設立し、それを呼び水に私が教祖の座について呪いと金を集める。信頼できる仲間は多いほうが良いが、選定には細心の注意を払わなければいけない。仲間のことは家族と呼ぼう。

「教祖様が袈裟ならさぁ、私はなにがいいかな?やっぱり尼さんみたいに見えたほうがいい?」
「いや、ナマエは教祖の妻ってことにするから特別な衣装は要らないんじゃないか?」
「あ、そういう設定でいく?」
「隣に女性がいるのをあれこれ詮索されるのも鬱陶しいしね」

その設定は考えてなぁったなぁ。と言って、じゃあちょっと良いスーツにしようか、それとも着物がいいか、と、ナマエは団体での自分の衣装についてああでもないこうでもないと考えを述べている。
春の穏やかな波の音が、心地よく鼓膜を震わせた。

「仲間…じゃないや、家族、たくさん増えるといいね」
「上手くいくと良いんだけど」
「大丈夫、絶対上手くいくよ」
「どこから出てくるんだい、その自信」

だって夏油だもん。と、なんの根拠もない自信をナマエは嬉々として語る。
くすくすと堪えきれない笑いをこぼせば、不服とばかりに頬を膨らませた。
それから少しの間流れていく雲を眺め、ナマエは立ち上がってぱんぱんと洋服についた砂を払っていく。私も同じようにして粗方の砂は落とせたけれど、どうせ全部は落とせてないから、これは風呂に入ったときにどこからともなく砂が落ちてくるやつだ。

「帰りにスーパー寄ってこ。今日は美々ちゃんと菜々ちゃんのリクエストでハンバーグだよ」
「ナマエの作るハンバーグは美味しいからね」
「おだてても量は増やしませーん」

それは残念。そう肩をすくめると、ナマエが「嘘ばっか!」と言って呆れた顔をした。
さっきは設定って言ったけど、別に私は本当にしたって良いと思ってるんだ。こんな身分だから籍は入れられないけど、君さえよければどうかな、なんて。

「ねぇ夏油。家族ってさ、良い響きだよね」
「そうだね」

きっと君はそんなつもりで言ってないんだろうけれど、心のうちを見透かされたみたいでどきりとした。
指折りハンバーグの材料を数えていくナマエを見下ろし、追いかけて来てくれた冬の日のことを思い出す。

「ナマエ、ありがとう」
「なによ、いきなり。へんな夏油」

今年も相変わらず春は嫌いだ。でも君の隣に居ると、そんなことさえ忘れていられるよ。



戻る






- ナノ -