奈落の階段


私は夏油先輩の美しい背中が好きだ。広く、柔らかで、背筋は真っ直ぐに伸びている。何度も私を守り、何度も私を導いてくれた背中。夏油先輩の背中を見ていると、私の進むべき道はここのなのだと、はっきりと思い知ることができた。
私の生きる場所はここのほかどこにもないのだと、教え続けてくれた。

一年生の夏ごろのことだった。私は初めて夏油先輩のサポートで任務に就くことになった。
サポートというよりも正しくは私に経験を積ませるための任務で、私なんかが夏油先輩の助けになれることなどはひとつもなかった。
少し遅れて入学した私は夏油先輩とは殆ど話したことがなくて、前日わざわざ同級生の灰原くんに夏油先輩のひととなりを聞きに行った。
灰原くん曰く、とても頼りになる強くてかっこいい先輩、だそうだ。ためしに七海くんにも聞いてみたけれど、概ね同じ回答が返ってきた。
私にとって先輩と言えば五条先輩で、あの先輩の隣で楽しそうにしている夏油先輩の姿を何度か見かけたことがあったから、夏油先輩がそんな良い人だなんて到底信じられなかった。

「ミョウジさん、任務慣れてきた?」
「えと、はい。少しずつですけど…」
「そう。何かあったら聞いてくれ、私に答えられることなら、何でも答えるよ」
「あ…ありがとうございます」

結論から言うと、そんなものはただの杞憂だった。
長い道すがら、夏油先輩は私の言葉に耳を傾け、未だ慣れない高専での生活についてのアドバイスをいくつも授けてくれた。
任務中も、私を決して甘やかすことなく、的確に丁寧に呪霊に合った戦術や女の私でも実践できる体術の指導をしてくれた。特級になるのではと目されている術師から、なんとも贅沢なことだ。
私はこの任務をきっかけに夏油先輩と立ち話をするような仲になり、そのあとは勉強を教えてもらう仲になった。
私が夏油先輩のことを好きになるのに、そう時間はかからなかった。

「夏油先輩、あの、いま時間、いいですか」

私は自販機の傍のベンチでコーヒーを飲む夏油先輩にぱたぱたと近づいた。
夏油先輩がひとりの時に声をかけているのは、五条先輩が怖いからだ。決してそんな、こう、下心があるわけじゃない。

「ミョウジ、何飲む?」
「えっ、そんな悪いですよ…」
「ふふ、灰原ならコーラでってすぐ言うよ」
「…じゃあ、オレンジジュースで…」

夏油先輩はポケットから財布を取り出し、小銭をちゃりんちゃりんと投入すると、オレンジジュースのボタンを押す。取り出し口から出したオレンジジュースを差し出してくれたので「ありがとうございます」とお礼を言って受け取った。
先輩はまたベンチに戻って、隣においでとばかりに自分の横をぽんぽんと叩く。私はそれに従って、緊張からくるぎこちない動きで隣に腰かけた。

「何か、気になることでもあった?」
「いえ、その…私…」

好きです。そう伝えて、返事はいらないからと立ち去るだけの予定だったのに。うっかりジュースまで買ってもらって、あまつさえ隣に座ってしまった。どうしよう。
夏油先輩と私の関係は、どうということもない先輩と後輩の域を出てはいない。変わったことと言えば、灰原や七海を呼ぶみたいに私のこともミョウジと呼び捨てにするようになったぐらいのものだ。
絶対意識されてない。わかってる、けど、どうしても毎日毎日強くなっていく気持ちを私はもう自分一人で秘めていることが出来なくなってしまった。

「あの、夏油先輩…私、先輩のことが、好きです」

オレンジジュースの満タン入ったアルミ缶をこれでもかとぎゅっと握り、私は言葉を吐き出した。
そう、もう本当に、告白したというよりは吐き出したというほうが似合う有り様だった。
私は途端に恥ずかしくなり「返事は要りません」と言って立ち上がった。足を一歩踏み出したのに前に進めず、服を引っ張られる感覚で振り返ると、夏油先輩が私の制服を引いていた。

「返事は、聞いてくれないの?」

そこには、私のほうをじっと見つめる夏油先輩の姿があって、夢かと思ったけれど「私も好きだよ」と言ってくれた。


夏油先輩とお付き合いを始めてから、一度だけ一緒の任務になったことがある。
二年生の夏、とっくに特級になっていた夏油先輩とふたり、宮城の海まで派遣された。前日から宮城に入り、現場近くのホテルで一泊して翌日任務遂行後高専へ戻るというスタンダードな一泊二日の任務だったのだけど、何せホテルに着いたのが夜の十時を半分もまわってからだった。

「うーん、せっかくだし浜辺まで出てみる?」
「はい、行きたいです」

夏油先輩の誘いに、私は勢いよく頷いた。
二人して向かった浜辺は海水浴場として整備されている場所ではなく、夏でも地元の人が来るか来ないかと言った風体の、小石がコロコロ転がっている小さな浜だった。今は靴を履いているからいいけれど、きっと裸足だったら怪我をしてしまう。
潮風が南からの温風を運び、頬のそばを生ぬるく通り過ぎていく。
月が海の上に光を落とし、まるで空まで続く階段のようになっていた。何だっけ、こういうの、どこかの国の言葉で名前がついていた気がする。
ふと、夏油先輩が立ち止まって、その階段をじっと見つめた。私は半歩後ろにいるから表情までは窺えない。

「スウェーデンでは、こういう階段みたいな光をモーンガータと呼ぶらしいよ」

そうだ、スウェーデン語だ。
夏油先輩はそう言って、顔は動かさないまんまだった。美しい背中だ。広く、柔らかで、背筋は真っ直ぐに伸びている。
私は思い出せなかった言葉を知ることができたというのに、ちっともすっきりしなかった。どころか、私の胸はざわざわと騒ぎ、ロープで締め付けられるように痛んだ。
月に向かうこの階段を、夏油先輩が登って行ってしまいそうに、思えて。

「夏油先輩、いかないで」

気がつくと私はくんっと夏油先輩の制服を引いていた。振り返った先輩とようやく目があって、ひどく疲れた顔をしているのだと、私はようやく気がついた。

「大丈夫、私はここにいるよ」

先輩は子供をあやすような優しい手つきで私の頭を撫でた。
それから私たちは細波のたびに数を変えるその階段を何度も数え、囁くような声で話をした。私はその間ずっと、夏油先輩の制服を放すことはできなかった。


その任務の翌週のことだった。同級生の灰原くんが任務で命を落とした。
私も七海くんも重傷で、弱っちい私は左目をやられた。家入先輩の反転術式でも治らなくて、見た目だけは元どおりになったけれど左目の視力は完全に失われた。

「ナマエ、目が覚めたのか…!」
「夏油、先輩?」

私は高専の医務室で目を覚ました。体が思うように動かない。かろうじて首を動かすと、やつれた顔の夏油先輩が私を覗き込んでいる。

「あの、私」
「いい、動くな。体を動かすのも辛いだろう」
「私、どれくらい眠ってましたか」
「10日間だよ」

10日間。随分と眠ってしまっていたんだな。カレンダーを見ると、もう9月になってしまっていた。任務は8月だったはずなのに。

「あの、灰原くんは」
「灰原は…」

灰原くんの遺体のことを聞こうとすると、夏油先輩は苦い顔をした。ああ、勘違いさせてしまっているなとすぐに気がついた。私は現場で、灰原くんの下半身が呪霊に喰われたところを見ている。彼がもういないことをとっくに知っている。

「違います、あの、遺体はちゃんと、高専まで運んでこれましたか」

私がそう付け加えて質問をし直すと、夏油先輩は眉間にシワをぎゅっと寄せて「ああ」と短く言った。よかった。せめて、ここに帰ることができて。

「…君に、そんな覚悟をさせなければいけないのか、この世界は」

丸イスに座った夏油先輩が、唸るような低い声で言った。私はかろうじて動かすことのできる右手をそろりと近づけて、その頬にそっと触れた。少しだけ濡れたように湿っていて、それが汗なのか涙なのかはわからなかった。

「夏油先輩、いかないで」

モーンガータを二人で眺めていたときみたい。まるで階段を登って行ってしまいそう。ここには階段も月もないのに、私はたまらなくなった。
夏油先輩が私の手に自分の手を重ねて、ぎゅっと握りしめる。指先が少し震えている。

「大丈夫、私はここにいるよ」

嘘だ、と思った。もう、夏油先輩はここにいない。
私は泣きたくなって、息を殺した。私が泣く代わりのように、夏油先輩が泣いた。初めてみる夏油先輩の泣き顔だった


私がその話を夜蛾先生から聞かされたのは、私がリハビリを始めたすぐの頃だった。

「傑が任務向かった集落の人間を皆殺しにして逃亡した。112名だ」
「…え?」

地方での任務があるから、帰ってきたらデートをしようと約束をしていた。
新大久保と新宿の駅のちょうど真ん中くらいにできたワッフルの美味しいカフェに行く予定だった。

「何か知っているか、と聞こうとしたんだが、その様子じゃお前も知らされてなかったか」
「…はい…何にも…」
「…すまん。まぁ、なんだ、無理はするなよ」

夜蛾先生は私の方をぽんと叩き、通り過ぎるように私の後ろに歩いていった。
ああ、夏油先輩は、モーンガータを登って行ったんだ。私は突然のことというのに突拍子もない詩的な言葉が浮かんだ。
いや、突拍子ないなんてことはなかったのだ。私はきっと、あの夏の日からどこかでわかっていた。

私は高専を飛び出して、新宿に向かっていた。日焼け止めも塗らず日傘も持たずに、秋のまだ暑い日差しの中をふらふらと歩いた。
電車を乗り継ぎ乗り継ぎで辿り着いた新宿西口。
俯きながら歩いていると往来の人と肩がぶつかった。照り返しがじりじり右目を焼く。左は見えていないのでその熱ささえわからなかった。

「殺したければ殺せ。それには意味がある」

気の遠くなるような人混みのなかで、夏油先輩の声が聞こえた気がした。私は俯いていた顔をはっと上げて、左右を見回す。半分になってしまった視界では、周囲を見回すこともままならない。夏油先輩、夏油先輩、どこ、どこ、どこ!

「げとう、せんぱい…!!」

ふと、人混みの中に一等美しい背中を見つけた。ああ、間違いない。あれは、夏油先輩だ。
私は人を掻き分けてその背中に向かって走り出した。
夏油先輩、夏油先輩、いかないで、夏油先輩。

「夏油先輩、いかないで」

私はようやく夏油先輩に追いついて、夏油先輩のTシャツのすそを引っ張った。振り返った夏油先輩は、困ったように笑っていた。

「大丈夫、私はここにいるよ」

何度も聞いた言葉。嘘、嘘、嘘だ。
夏油先輩はいなくなろうとしていた、だからどうせ気付いていたくせに私のことを置いて背を向けていた。きっとこの手を離してしまえば、人混みに紛れて夏油先輩はどこかに行ってしまう。そしたら多分もう二度と会えなくなる。

「夜蛾先生から私のことは聞いた?」
「はい、呪術規定9条に抵触したと聞きました」
「それを聞いた上で、今私を引き止めたの?」

私は「はい」と真っ直ぐに頷いた。
夏油先輩はここ最近見せていたような疲弊した顔はしておらず、どこか清しい顔に見えた。

「私はもう、高専には戻らないよ。君が好きだった夏油傑にも成れない」

私がどんな夏油先輩が好きだったか、知らないくせに。私は無性に腹が立って、奥歯を噛み締めて睨みつけるように見上げた。

「ここにいるよって言うなら、ちゃんと私を連れて行ってください」

先輩は優しい手つきで私の指を解くと、少しだけ笑って、そっと手を握ってくれた。
新宿駅の雑踏は私たちになんか無関心だ。半分になった視界では目の前の夏油先輩を見ることがやっとだった。でもそれでよかった。

「ナマエに、私が目指す理想を話すよ。一緒に来るかどうかは、それを聞いてから決めてくれ」

夏油先輩はそう言うけれど、私はその理想が例えばこの国の人間の鏖殺だと言われても、きっとこの手を離すことはしない。
私はこのひとと生きていく。
私の生き方は決めた。あとは夏油先輩ために、私にできることを精一杯やるだけだ。

「夏油先輩がいれば、私本当に、それだけでいいんです」

階段の先に、一緒に連れて行ってよ。ねぇ先輩。



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