スプラッシュ・ダイヴ


ミョウジナマエは、驚くほどの箱入りお嬢様だ。
非術師の親を持つ私はそう詳しくないが、なんでも由緒正しい家に生まれ、蝶よ花よと育てられたらしい。
術式は持っているけれど、戦闘は正直強くない。高専に来た理由は「最低限身を守るすべを学ぶため」らしい。
浮世離れしたお嬢様が学校に果たして馴染めるものかと初めこそ思ったが、あと二人の同級生もよっぽど浮世離れしていたので、入学当初はむしろ私だけが浮いていた気がする。

夏の暑さの中、近隣県の中学校に発生したという呪霊の祓除を私とミョウジさんで請け負うことになった。入学してまだ半年も経たない一年生に任せるにはおあつらえ向きのスタンダードな任務だった。
夜の学校に侵入し、目撃情報の最も多い理科準備室を起点にして捜索を開始する。目撃の情報の通り、三級呪霊が二体いて、それを各々制圧する。彼女の場合は祓い、私は降伏させて取り込む。
慣れない呪霊の味に顔を顰めていると、窓の外を眺めているミョウジさんが不思議そうに声を出した。

「ねぇ夏油くん、あれなぁに?」

指をさす先には、夜間灯と隣接する道の街灯にほのかに照らされるプールがあった。
それ以外に変わったものが何かあるか?と目を凝らしてみたが、そこにはよくある25メートルプールがあるだけで他に変わったものもない。

「何って、プールだよね」
「えっ、あれプールなの?」

噛み合わない会話に、思考が一瞬止まる。嘘だろ、まさか。

「ミョウジさん、もしかして学校のプール見たことないのかい?」
「うん、私学校って通ったことがないから」

勉強は家庭教師さんが来てくれていたから、両親には行く必要ないって言われていたの。ととんでもないことをさらっと言われた。
箱入りっていうか、そんなのもう軟禁のレベルだろ。学校はなにも勉強だけを学びに行く場所じゃない。それを通わせないなんて。

「みんなあのプールで泳ぐんだね」

羨ましそうな、寂しそうな、そういう種類の感情がいくつか混ざったような目をしてミョウジさんが窓の外を眺める。

「…少しだけ、見に行くかい?」

うっかり口が滑った。彼女のそんな顔を見ていたらいつの間にかそんなことを口走っていた。
あ、と思ったときにはもう遅い。

「いいの!?」

補助監督への連絡が、とか、そもそも必要とされていない場所への故意な侵入は不法侵入だろ、とか、いくつも問題が頭を駆け巡ったが、きらきらとした顔で振り返られて、もう後には引けない。


校舎からプールに到着すると、ミョウジさんはくんくんと鼻を動かして臭いを嗅いでいる。どうやら塩素の臭いもお嬢様には馴染みのないものらしい。

「不思議。これ何かの薬品の臭い?」
「塩素のこと?消毒のために入れてるんだよ」

道すがらプールに入ったことはないのか、と聞けば、写真で見たことがあると少しズレた答えが返ってきた。箱入りもここまでくるとまるで虐待だな、と頭の片隅で考える。
そんなに興味津々にされたら、足先だけでも浸けてみる?とでも言いたくなってきた。
ミョウジさん、と声をかけようとしたところで、一歩前を歩いていた彼女がばさばさと制服を脱いでいく。は、ちょっと待て、嘘だろ。

「えっ、あっ、ちょっと、ミョウジさん!?」

思わず大きな声で呼び止めたが、時すでに遅しだ。あっという間に下着姿になったミョウジさんはそのままざぶんとプールに入ってしまった。
大きな飛沫を上げて、プールの水があたりに飛び散る。塩素の臭いが濃くなった気がした。
薄い身体をすべて沈めて、そのあと勢いよく水面に顔を出し水を切るようにあたまを振った。

「あー、気持ちいい」

彼女から聞いたことのない色っぽくて少しかすれた声、長い髪から滴るしずく、頼りない夜間灯に照らされた白い肌。
まるで映画のような光景だった。私はその姿に目を奪われ、言葉を失ったまま彼女から滴るしずくに見入ってしまった。
一回こうやって、思いっきりプールに入ってみたかったんだ。そう言って唇に弧を描かせる。

「…私ね、高専卒業したらすぐ結婚しなきゃいけないの」

ミョウジさんは水面を眺めながらぽつんとそう漏らした。
呪術界というものが非常に閉鎖的で前時代的な風習を有していることは知っていたし、彼女の今までの言動からあり得る話だと思っていたが、直接本人の口から聞くのは初めてだった。

「うんといい術式持ったひとのお嫁に行くんだって。私、生まれた時からそうやって決まってて、だから学校も行かせてもらえなかったんだと思う」

先ほど軟禁だろ、と思ったが、まさにそのままだ。彼女は後継とか伝統とか格式とか、そういうもののために飼い殺しにされている。
ミョウジさんはちゃぷちゃぷと水面をなぞり、その感触を楽しんでいるようだった。
それから私のほうを見て「夏油くんもおいでよ」と言った。私はなんだか断ることが出来なくて、彼女に倣って制服を上も下も脱ぐと、下着一枚でプールに飛び込む。
上がった水飛沫に彼女がきゃっきゃと笑う声が水の中にまで伝わった。

「学校って楽しいんだね。私同い年のお友達もいなかったから、毎日みんなと一緒にいられるのが楽しくって楽しくって…生まれた時から屋敷の中にでしか生きていけないって知ってたはずなのに、結婚してまた屋敷に閉じ込められるんだと思うと、嫌だなぁって」

ミョウジさんの傍までよると、きめ細かな肌が高解像度で見える気がして思わずごくりと息をのんだ。
同級生のあられもない姿に興奮すると同時に、なにか侵しがたい神聖なものを見ているような気分にもなった。
私の思考など微塵も理解していないだろうミョウジさんは未だスクリーンの向こう側にいるような完璧さを保っている。
彼女は視線をどこにもやらず、ぽつりと言った。

「私、もっと外の世界が見たいなぁ…」
「…まだ私たちは一年生だろう、卒業まで随分あるじゃないか。家から逃げようって、足掻いてみるのもいいんじゃない?」

我ながら無責任な言葉だな、と言ってから少し後悔をした。きっと彼女は、足掻く術すら知らないというのに。
ちらりと隣を見ると、気分を害した様子はなく、きょとんとした顔でミョウジさんはこちらを見ていた。
この後に繋げる言葉が何も思いつかなくて彼女の首筋を伝う水滴を見つめたままでいると、沈黙を破ったのはミョウジさんだった。

「じゃあ、夏油くんが攫ってくれる?」

私が?君を?

「…私が攫っていいの?」
「うん、夏油くんと一緒にいたら楽しそうだから」

ふふふ、と愉快そうに彼女は笑った。
きっとなんの打算もなく言われた言葉。私と一緒にいたら楽しそうなんて、初めて言われた。

「卒業までに強くなって、戦える術師になるの。それでも決められた相手と結婚しなさいって言われたら、夏油くんが攫って」
「それは魅力的な計画だね」

妙案とでも言いたげな顔でミョウジさんが嬉々として計画を立てる。その計画の中に早速組み込まれているのがくすぐったくて面白い。
ミョウジさんは突然「見ていて」と言ってプールサイドまで移動すると、ざぶんとプールから上がる。すっかり濡れてしまった下着が陸に晒らされていっそう目に毒だ。
彼女はぺたぺたと飛び込み台の方まで移動すると、真ん中の5と書かれたその上に乗る。

「夏油くん、受け止めて!」

は?嘘だろ!?
思うより身体が先に動いて思い切り踏み切った彼女の着水予想地点まで水を掻き分ける。それでも少しだけ間に合わなくて、ミョウジさんを抱きとめたはいいが、そのまま後ろ向きにプールに飲み込まれてしまった。

「あはは、気持ちいい」

盛大に水飛沫を上げた彼女は水面から顔を出すと、まるで小さい子供のように笑った。
危ないだろう、とか、なんでこんなことを、とか、そういう言葉が一切抜け落ちて、私は彼女を咎める言葉を失う。
柔らかくて細い身体の感触がじかに伝わってくる。

「プールがこんなに気持ちいいものだって、私今日初めて知ったの。私、本当に知らないことばっかりだね」

ミョウジさんは向き合うように正面に来ると、私の胸板に手をあてた。きっとこのどくどくと鳴る鼓動が手のひらを伝ってしまっているだろう。
白い下着が透けて、半透明になったレースが彼女の胸元に張り付いている。彼女の鼓動も、私と同じくらい脈打っていればいいと思う。

「ねぇ夏油くん、私にいろいろ教えてよ」

この無垢なお嬢様に、少しだけ悪戯を仕掛けてみたくなった。それは新雪を一番に踏み荒らすような好奇心と背徳感に似ている。

「そうだな、じゃあ手始めに、キスでもしてみるかい?」

私は白く透き通ったミョウジさんの頬を包むように持ち上げ、その小さな唇を塞ぐ。少しだけ塩素の味がして、夜間灯がドラマティックに私たちを演出した。
私は何度か触れるだけのキスをして、離す間際にちゅっと吸いついてやる。

「んっ…キスって、気持ちいいんだね。溺れちゃいそう」
「君、それ天然?」

何が、とでも言いたげな顔をしている。天然だろうことは聞かなくてもわかっている。
好奇心と背徳感は、案外お互い様なのかもしれない。
これからまだまだ長く続く高専での生活に、一体どんなことが待ち受けているのか。少なくとも、卒業するまで、このお嬢様に振り回されることは今日確定してしまったようだ。


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