クァンタンで待ち合わせ


術師を辞めるという決断をしたとき、最後までそのことを言えずにいた相手がミョウジさんだった。
ひとつ上の高専の先輩で、あの五条さんたちの同期。四人いる学生の中で一番気兼ねなく接することができる相手だったと思う。
規格外の強さを、あるいは特別な能力を持つ、示し合わせたかのように優秀な先輩たちの中で、この人は比較的平凡な感性を持ち合わせており、非術師の家系出身だった自分にも何かと良くしてくれた。
私は当時からこの優しい先輩に憧れていて、もっと言うと私はこの先輩のことが好きだった。

「七海くん、術師辞めたんだって?」

五条くんから聞いた。とミョウジさんは続けた。あの人はまた余計なことを、と思ったけれど、おそらく私が実際に辞めるまで言わずにいてくれたのだろうことを察し、そんな人の心があったのか、と失礼なことを思い浮かべる。

「…はい」
「そっかぁ。じゃあさ、最後に一緒にご飯行こうよ」

ミョウジさんに誘われてやってきたのは、彼女が好きなデザートがあるというファミリーレストランで、何でも好きなの頼んでいいよ、と奢ってくれるつもりでいるらしい。私はデミグラスソースのハンバーグ定食にして、ミョウジさんが勝手にドリンクバーをつけた。

「この前ね、二週間海外任務行ってきたの。マレーシア」
「ミョウジさん海外出張多いですもんね」
「術式的にね。それでさぁ、どんな辺鄙なところ行かされるのかと思ったらクァンタンだったの、リゾート地」

やがてハンバーグ定食の他にミートソースのパスタとドリア、それからポテトとフライドチキンが運ばれてくる。テーブルを埋め尽くすほとんどは、見た目よりもよく食べる彼女の注文だ。
ドリンクバーで調達してきたメロンソーダは不健康なほどの鮮やかな緑色。私はそれを横目で見ながらブラックコーヒーをずずっと啜った。

「チェンバタビーチ、もう海が青くってね、日本とは全然違う色。遮るものがないから空も広くてさ」
「へぇ、マレーシアってそんなところあるんですね」
「七海くんは海外任務って行ったことなかった?」
「はい。海外へは祖父方の親戚に会いにデンマークへ行ったことが一度だけ」

そっかぁ、七海くんクォーターだったね。と言ってミョウジさんはメロンソーダのストローに口をつける。
東南アジアにこれといった興味もイメージもなかったが、ミョウジさんの口から語られるマレーシアは随分と興味深かった。
観光地化している屋台が集まっているエリアより少し北に向かう道があって、その先にある小さいビーチの方が綺麗だと言うこと、猿が観光客のアイスクリームを狙ってやってくるので、注意しなければならないこと、マレーシア人は夜型が多いので、朝の方がゆったりとビーチを楽しめること。二月でも気温が30度を超えるので日本との寒暖差がキツかったこと。

「任務じゃなかったら最高だったよ」

ミョウジさんの話はいつも想像を掻き立てる豊かさがある。言葉の巧みさや説得力が相まって、教師のような口ぶりだな、と話すたびに思う。
だから不思議と、いつまでも聞いていたくなる。

マレーシアでの出来事をひと通り終えて、ミョウジさんが会計を済ませると店の外へ出た。春先の風はまだ少しだけ肌寒い。

「じゃあね、七海くん。元気でね」

そう言って離れていこうとした彼女の腕を、思わず引いた。小さな体がぐんと勢いづいた後に止まった。
この人は、私が術師を辞める理由を正しく理解している。だから今日食事に誘った時も最後に、と言ったし、見える側の世界とその世界を離れる私の距離を適切に保とうとするだろう。
ミョウジさんは、もう会わないつもりだ。

「…また、行きませんか、食事」

ミョウジさんは少しだけ驚いた顔をして、それから「いいよ」と笑った。


それからの私とミョウジさんの関係は、先輩後輩から二、三ヶ月に一度、予定を合わせて食事をする友人になった。
ミョウジさんのおすすめの店と私のおすすめの店を交互に選び、どうということもない話をする。
今日はミョウジさんが見つけたという餃子が美味い大衆中華料理店だった。店内に気取った感じがなく、ある程度ガヤガヤとしているのが気張らなくて済む。彼女おすすめの餃子もだが、麻婆豆腐がピリッと辛くて美味い。
呪術界がどうのとかそういう話が出てくることはなかった。気を使わせていたのだと思う。

「仕事どう?」
「クソですね」

即答すると、あはは、と声を上げてミョウジさんが笑った。
私は証券会社に入社して、毎日毎日ウォールストリートジャーナルとワールドビジネスサテライトをチェックし、口八丁でクズ株を買わせて儲けた金が私の給料になった。
呪術師はクソだと思って辞めたが、結局一般企業だってクソだ。

「ミョウジさんは最近どうなんですか」
「私?そうだなぁ、あ、そうだ最近サボテン育て始めたの。結構楽しいよ、手かからないし長いこと留守してても大丈夫だからね」

定期的にサボテンを撮影しているというミョウジさんのスマホのフォルダを見せてもらった。見事にサボテンばかり写っていて、この人が果たしてまともな生活を遅れているのか少し心配になる。まぁ、私に言えたことじゃないのだが。

「この前ね、初めてデンマーク行ったよ、イーベルトフト。めっちゃくちゃ寒かった!」
「それはまた…随分田舎に行きましたね」
「そう!しかも冬だよ!サマーハウスがばーっと並んでてさ、屋根にガンガン雪積もっててもうめっちゃ寂しいの!夏に行きたかったなぁ」

ミョウジさんは餃子をパクリと口に入れ、美味しい、と感想を漏らした。
私は呪術界との関わりを断ちたくて一般企業に就職したくせに、この人との関わりを断つことは出来なかった。時々会って食事をするだけの関係をもう4年も続けている。
しかも、この人は餃子もガーリックステーキも堂々と食べる。食事のあと私とどうにかなるかもとか、そう言うことは一切考えていないんだろう。
こっちはこうやって未練がましく繋ぎ止めようとしているのに。


そのうちに目が回るほど仕事が忙しくなって、食事の約束を取り付けることさえ難しくなってきた。朝から晩まで金、金、金金金金。金のことばかり考えている。
もう術師も非術師もたくさんだ。そこそこの歳まで稼いで、そしたらどこか物価の安い国でフラフラと人生を謳歌したい。

「七海くん、クマやばいね」

どうにか半年ぶりに約束を取り付けて訪れたイタリアンの店で、ミョウジさんに苦笑された。「仕事忙しい?」ペペロンチーノをくるくるとフォークに巻き付けながら聞かれ、まぁ、と曖昧な返事をする。
忙しいと言うよりは息苦しいと言った方が正しいのかもしれない。クソ上司のもとでクソみたいな仕事をする生活に生き甲斐なんてものを感じたことはもちろんない。それでも毎日金のことを考えながら仕事をしているのは、金さえあれば呪いとも他人とも関わらなくて済むからだ。

「元気なさそうなのは心配だけど、久しぶりに会えて嬉しいよ」

口籠る私がそれ以上話を広げなくていいように、ミョウジさんが会話の方向を変える。
最近サボテンの花が咲いたんだよ。この前から多肉植物もいくつか増やしちゃった。多肉植物の分厚い葉っぱがみっちりしてて可愛いんだよ。決して煩わしいとは思わなせない絶妙な声音でミョウジさんが話を続ける。
ここ数年でサボテンの種類を覚えたのは、間違いなくこの人の影響だ。
ふと会話が途絶えて、重苦しくはない沈黙が訪れて、私は躊躇いながら口を開いた。

「…ミョウジさんは、生き甲斐とか、そういうものを感じたことがありますか?」
「生き甲斐ぃ?そんなのないよ!」

考えたこともない、といった様子でミョウジさんが笑う。
少しムッとしたのが顔に出てしまったのか、ごめんごめんと手をあげて口先だけの謝罪をした。

「生き甲斐っていうのは考えたことないけど…でもそうだなぁ、任務とかでさ、綺麗な景色見たりすると生きててよかったなぁって思うことあるよ。ちょっと大袈裟だけどね」

タイのノーンハーンでしょ、あとトルコのパムッカレ、エチオピアのダナキル砂漠も凄かった。彼女は今まで見てきた絶景を指おり数えていく。
相変わらず海外任務が多いらしいミョウジさんは世界秘境百選とかを制覇する勢いなのではないかと思う。
そのひとつひとつにどこがどういう風に綺麗だったか、圧倒されたか、印象的だったかの説明を添えて、気分は世界一周旅行だ。

「でもやっぱり、クァンタンのチェンバタビーチが忘れられないかな」
「どうしてです?」

先ほどから話を聞く限り、もっと、というと語弊があるが秘境らしい秘境にも足を運んでいるだろう。
その彼女が一番にビーチリゾートを選ぶ理由に興味があった。

「笑わない?」
「ええ、もちろん」

少し言いづらそうに唇を尖らせて、視線を右へ左へ泳がせながら、またもうひとつ躊躇って、それからぽつんと言葉を吐き出す。

「…朝のビーチ見てた時にね、七海くんにも見て欲しいなぁと思ったの、できれば一緒に見たいなぁって」

だから、一番。照れくさそうにそう言って少し笑った。
このひとは餃子もガーリックステーキも遠慮なく食べる。今日だってペペロンチーノを嬉々として選んでいた。そのくせしてなんだ。まるで私を意識しているみたいなことを言う。

「ミョウジさん。クァンタン、一緒に行きましょう」

あの日なんとか掴んだ腕を、今度は引き寄せて抱きしめることが出来るように、いくつか作戦を練ろうと思う。綱渡りみたいなこんな関係はもう御免だ。
ミョウジさんは「約束ね」と言ってくるくる巻いたペペロンチーノを口へ運ぶ。
卓上旅行などではなくて、アナタと一緒に朝のビーチを眺めに行きたい。


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