夏油傑の場合


マッチングアプリ。それは出会いの減った現代人が効率よく好みの相手と出会うための魅力的なツールである。


友達が結婚した。それも一年間に三人も。正確に言えばそのうちの一人は友達と呼ぶほと親しいわけではないから知人という括りになるのだろうが、そんなことは些末なことだ。とにかく、そこそこ近しい人間が立て続けに三人も結婚したことにナマエは内心焦っていた。

「……大人になったらなんとなく好きな人が出来てなんとなく結婚するもんだって思ってたのに…」

結婚願望がないわけではない。むしろどっちかというと強い方だと思う。けれど中々「この人だ」と思える男性には巡り合うことが出来ず、いつの間にか彼氏もいないまま二十代半ばになっていた。
そういう経緯があり、友人の勧めでマッチングアプリに登録をした。何を隠そう彼女はアプリで出会った男性と付き合い、最終的には結婚に至ったのである。面倒で気を遣うメッセージのやり取りを経て、ナマエは今日一人の相手とカフェで会う約束をしていた。

「あーやば。緊張する…」

相手は傑という男性で、ナマエよりひとつ年上。万人受けするタイプの顔じゃないが、涼し気な目元はナマエの好みだった。正直写真の印象がかなり大きな割合を占めているといっても過言ではなかったが、他に判断するといってもメッセージのやり取りだけで人柄がそこまでわかるわけでもあるまい。
プロフィールによれば背も高いし収入面も安定しているし、マッチングアプリの中では高スペックすぎてナマエは業者を疑っていた。しかし何事も経験である。昼間でどこかに連れ込まれるみたいな心配もないし、宗教の勧誘をされたり変な壺を買わされそうになったらすぐに退散しようと心に決め待ち合わせ場所に5分前には辿り着いていた。

「えっと……」

きょろきょろ左右を見まわす。まだ待ち合わせまで時間もあるし来ていないのかもしれないが、もしかして待たせていたら申し訳ない。不意に目の前が影になる。顔を上げると、黒いジャケットに黒いパンツ姿の長髪の男が立っていた。

「ナマエさんですか?」
「あ、はい」
「傑です。今日はよろしくお願いします」

この男が待ち合わせ相手の傑だった。全身黒づくめのコーディネートは一見威圧感を与えるように思われたが、彼の優し気な面持ちのせいかさほどそれを感じさせない。こういうものは写真と実物でかなり印象が違うこともあるけれど、傑はプロフィール写真で見たままだった。むしろ実物のほうがよかった。

「じゃあ、移動しましょうか」

ごく自然な動作で傑はナマエをエスコートしていく。こんな素敵な人に出会えていいんだろうかと気持ちが浮つく半面、ますます業者の疑いが頭をもたげていく。待ち合わせの駅からすぐの通りに面したカフェに入り、ナマエはカフェラテを、傑はブラックコーヒーを注文した。

「待ち合わせ場所、分かりにくくなかったですか?」
「えと、全然…あの、もしかしてお待たせしちゃってました?」
「いえ全然。それにナマエさんを待たせたくなかったので」

会話も非常にスマートだった。がつがつとこちらが引くほど話しかけてくるわけではなく、しかし沈黙にならないように配慮されている。好きな音楽と映画の話でそこそこに盛り上がり、彼の趣味だという格闘技の話を聞いた。格闘技なんて少しも興味がないのに、傑の話が上手いせいかするすると飲み込むことが出来た。

「傑さんは何かスポーツとかされてたんですか?」
「小さい頃は水泳を。高校の時は筋トレが趣味で…まぁ現場系の仕事もしてたので、そのせいもあって鍛えてはいるんです」

なるほど、納得である。彼は背が高いし、服の上から分かるほど体つきもしっかりしている。いままで現場系の仕事をしていた時期もあるというのなら、体が資本なんていう時期もあったのかもしれない。

「ナマエさんは何かスポーツされてましたか?」
「私はずっと文系で全然縁がなくて」
「アウトドア嫌いじゃないなら、今度ボルダリング行きませんか?最近私ハマってるんです」
「えっ、運動音痴なんですけど出来ますかね?」
「はは、大丈夫ですよ。初心者向けのコースとかもありますから」

話すほどに彼に対する好感度はうなぎ上りだった。もう頭の中では彼と付き合ったときのことを思い描いていたし、こんな素敵な彼氏が出来たらどうしようとフライングで浮かれていた。


解散したあとのメッセージで来週飲みに行かないかと誘われ、ナマエは二つ返事でオーケーした。危惧していた業者の心配もなく、彼ほどのスペックの人がマッチングアプリにいるのは謎だけれど、とにかくナマエの中では交際する方向でだいぶ思考が傾いていた。

「お待たせ、ナマエちゃん」
「あっ、傑くん!」

敬語抜きで話そうよ、と言われてますます距離が縮まったように思う。今日も傑は黒づくめだったが、むしろこれは彼のスタイルのよさを最大限に活かすためにはごく当然な格好のように思えてきた。

「食べられないものある?」
「辛いのはちょっと苦手かな」
「了解」

傑のお気に入りだという中華料理の店に入り、メニューを眺める。優柔不断な面のあるナマエをリードしてくれるのが心地よく、押しつけがましくもない。彼と話しているのは楽しくて、このところ感じている肩と右腕の痛みもすぐに忘れられそうだった。

「……ナマエちゃん、もしかして体調悪い?」
「えっ、そんなことないよ…?」

図星をつかれて一度まごつく。傑の切れ長の目がナマエをじっと見つめた。デートに来ていて体調不良を認めてしまうのもいかがかと思うが、体調不良からくるあれこれを「気が乗らないから」だと誤解されてしまうのも本意ではない。

「両肩と右腕、痛いんじゃない?」

今度は痛みを感じている部分を言い当てられ、ナマエは驚きのあまりにぱっと目を見開いた。誰にも言っていないはずで、まさか傑に話したことなどあるわけがない。

「どうしてわかったの?」
「庇って動いてるように見えたんだ。ほら、足痛めたりとかすると庇って歩き方に違和感が出たりするだろう?」
「すごい、傑くんお見通しなんだね」

ここまでしっかり言い当てられてしまったら隠し立てする必要もあるまい。ナマエは正直に最近調子が悪いのだと打ち明けると、傑は「仕事の頑張りすぎかもしれないよ」と眉を下げる。

「うん……ちょっと上手くいかなくて…」
「悩みがあるなら聞かせて」
「でもせっかく傑くんに会ってるのに愚痴言っちゃうのなんて…」
「これからいくらでも話すんだから平気だよ」

傑は当たり前のようにそう言って、これから、という言葉にぎゅっと胸が掴まれるような気分になった。彼もこれからのことを考えてくれていて、少なくとも次があるということだ。ナマエはそこから乗せられるがままぽつぽつと仕事の愚痴をこぼしはじめた。夏油はそれを丁寧に聞き「それはつらかったね」「大変だったね」とナマエを端から肯定していく。
まだ知り合って間もない彼にどうしてこんなことばかり話してしまっているんだろう。そう思うはずなのに、彼の相槌が心地よくてなかなか止めることが出来ない。

「よかったら私の店に来るかい?」
「お店?」
「そう。リラクゼーション系の店やっててさ。主にアロマとマッサージなんだけど、ナマエちゃんさえよければ予約空けとくよ。あ、もちろん代金はいらないから」

にっこりと傑が笑った。そう言えばプロフィールの職業欄に「サービス業」と書いてあったが、店を経営しているとは知らなかった。彼のお店というなら疑うところもあるまいし、ナマエは二つ返事でその申し出を受け入れる。

「よかった。じゃあ開いてる日教えて。私が最寄りまで迎えに行くね」
「そこまでしてもらうのは…」
「いいんだよ。私にはそのくらいしか出来ないし…ナマエちゃんの話もっと聞きたいな」

傑がテーブルに頬杖をつき、ナマエを見つめる。何かそれに強烈な引力のようなものを感じ、ナマエは目をそらすことが出来なかった。不意に彼はナマエとの距離を詰め、肩にそっと触れる。

「どう?痛いのよくなった?」
「え…?あれ、本当だ……」

何を、と思って自分の肩の感覚に注意を向ければ、確かに彼がいう通り痛みはずっかり消えてなくなっていた。ナマエの反応を確認してから傑は肩に乗せた手を取り去る。一体今のは何だろうか。冷えて固まっていたような肩に血が巡っていくのを感じる。

「傑くん、今なにしたの?」
「フフ、ただのおまじないだよ」

おまじない。まるで幼い少女のような言葉遣いに不思議な感覚を覚えながらも、ただ彼は肩に触れただけなのだから不審な点があるわけもない。傑はそれから「結構こういうことあるのかい?」と尋ね、ナマエは今まであった妙な身体の痛みの経歴を話していく。

「ナマエちゃんは憑かれやすいんだね」
「疲れやすい?」
「大丈夫。そう言うのウチじゃ大歓迎だよ」

「疲れやすい」ことを大歓迎だなんてどういう意味だろう。少し考えて、ウチというのが彼の店を指しているのかを納得をした。確かに疲れやすいのなら店としてはいい固定客になるだろう。ちょっと待て、これは業者の勧誘じゃないのか、と頭の片隅で警鐘が鳴るが、別に危ないと思えば店に通わなければいいだけの話じゃないかと脳内でもう一人の自分が自信満々にそう言う。
つまるところナマエは彼のことを信頼し始めていたし。何か妙な人物であるはずがないと根拠もなく確信を得ていた。
そこからは大しておかしなことを聞かれるわけでもなく、音楽や読書、それから最近行った旅行先やなんかの話をした。

「あ、そろそろいい時間だね。駅まで送るよ」

気が付けばもう終電の迫る時間になっていた。慌ててナマエが帰り支度をしている間に傑が会計を済ましてしまっていて、自分の飲み食いの分だけでも払おうと財布を出したが、それをやんわり止められる。

「傑くん、ごちそうさま」
「このくらい全然。丁度いい呪いも回収できたし」
「え?」
「はは、何でもないよ。ナマエちゃん寒くない?」

彼が何か言った気がしたけれど、長身だからか声が遠くて聞き取ることが出来なかった。それにしても、今日は会って間もないはずの彼に随分と自分をさらけ出してしまった。引かれていないだろうか、と隣を見上げると、彼も同じようにしてナマエを見つめていたものだからばっちりと視線がかち合う。

「どうかしたかい?」
「えっ!あっ!な、なんでもない…」

どうにか誤魔化そうにも上手く言葉が見つからず、傑にくすくす笑われてしまった。あっという間に駅に辿り着いてしまい、ナマエが今度こそ何か言わなければと口を開くと、それより先に傑のほうが声を出す。

「ナマエちゃん、今日は楽しかった。また連絡してもいいかい?」
「うん!もちろん!あの、傑くんのお店にも是非行かせて!」
「フフ、ありがとう。また連絡するね」

傑に見送られ、ナマエは改札を通り抜ける。今度はいつ会えるだろう。今日は自分の話ばかりをしてしまったから、次は彼の話もたくさん聞きたい。彼のお店はどんなところだろうか。アロマも扱うと言っていたけれど、それはローズやラベンダーのような華やかなものだろうか。涼し気な面持ちの彼のことだから、白檀などのお香の匂いもきっとぴったり似合ってしまうに違いない。

「うーん、呪いの供給源にするだけのつもりだったんだけど……まぁ、こういうのもたまにはアリかな」

彼が暗がりの中で薄く笑ったのはナマエには見えていないようだった。


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