伊地知潔高の場合


マッチングアプリ。それは出会いの減った現代人が効率よく好みの相手と出会うための魅力的なツールである。


マッチングアプリに登録して早半年。ナマエはロクな出会いも得られないままそれを続けていた。
これはどのアプリにも概ね言えることだと思うが、出会いというものは何ごとも初動が肝心である。登録直後は捌ききれないほどのイイネが届き、日毎それは減っていく。新着ユーザーとしてアプリに表示されるときが一番花で、最近はあからさまな業者のイイネしか届かなかった。

「年収1500万以上の自営業がアプリにいてたまるかっつーの」

パッとイイネが届いた相手をスキップ。登録した当初は絶対業者だとわかりつつも面白がってメッセージのやり取りをしてみたものだが、もはやその気力なんてない。サクラと業者滅びろ、と思いながら新着のお相手を見ていく。

「煙草は…吸わない人が良い……お酒は飲める方が楽しいけど…コンサルとか金融関係の仕事してる人はなぁ…」

出逢えてもいないくせにああだこうだと値踏みするのは性格が悪いかなとも思いつつ、そもそもここはそう言う場なのだからと割り切って自分に言い聞かせる。
あんまり年上も無理だし、顔写真載せてない人はナシ。あと自由記入のプロフィール欄でわけわからないことを書いている男も無しだ。

「あ…このひとちょっといいかも…」

パッと目に留まったのは、真面目そうな眼鏡の男性だった。歳は同じくらいの20代半ば。結婚歴無し、当然子供もなし。職業は事務員。年収は600-800万円。プロフィール欄の自己紹介によれば、殆ど怒ったことのない温和な性格らしい。自撮りらしき写真が何故かブレていて、それでも新着のユーザーでありながらイイネは既に50以上ついていた。

「うー、こんなにイイネ来てたら絶対相手にしてもらえないぃぃ…」

そうは言いつつも、うだうだと先方に足あとだけをつけていても仕方がない。ナマエは意味もなくぎゅっと目をつむりながら、ニックネーム「IK」にイイネを送った。


翌朝、アラームとともに起床すると、マッチングアプリの通知が付いていた。さっそく開いて確認をすれば、昨日イイネを送ったIKとマッチングしている。返してくれたんだ、とウキウキしながら、ナマエは早速トーク画面を開いてメッセージを入力する。初めまして、ナマエといいます。から始まるスタンダードなそれを送り、意気揚々と出勤の準備をした。
あんまり早く返信があってもプレッシャーだけど、中々返事がないのも当然気になる。IKからの返信は結局その日の夜9時を超えても返ってこなくて、間違ってイイネを返しただけだったのだろうかと少し落ち込んだ。
さて切り替えて次だ、とアプリ内を彷徨うも中々いいお相手は見つからずに、時計がてっぺんを回る。もう寝ようかというときにアプリに通知が来た。

「あっ!返事来てる!」

新着メッセージはIKからのものだった。彼の名前は伊地知というらしい。絵文字のない少し固い印象のメッセージだったけれど、なんとなく写真で見る彼のイメージとマッチしていて不思議と嫌な距離の遠さは感じなかった。
思わずナマエは即レスをしてしまい、これは少しくらい溜めてから返したほうがよかったのだろうかと出来もしない駆け引きについて考えた。

「伊地知さんっていうのかぁ。なんかバンドで同じ名前の人いなかったっけ」

伊地知からの返信を待つももう瞼が重くて、寝落ちするような形でその日を終える。朝になれば、伊地知からの丁寧なメッセージがまた返ってきていた。送信時間は深夜2時半。彼は随分夜更かしのようである。


それからも緩やかに伊地知とのメッセージは続いた。他にマッチングしている男性とのメッセージのやり取りもあったけれど、返ってこなくなってしまったり自分の中で何か違うと思ってしまったりして中々続かなかった。
伊地知のメッセージが返ってくるのは概ね夜の11時から深夜3時頃。ひょっとすると、彼は生活リズムが一般的な会社員と違うのかもしれない。そんなタイミングだからメッセージのやり取りの件数は他よりも少なかったけれど、穏やかに続いていくそれは心地が良かった。

「……そろそろ会ってみたいかも」

メッセージのやり取りが続いたところで、結局それだけでは分からないことが多い。直接会って話してみたいし、ナマエとしては好印象だから出来れば距離を縮めたい。どこかでお茶しませんか。という文言を書いては消してを繰り返し、それだけで数日は経過した。

『ナマエさんが良ければ近々どこかでお茶しませんか』

だからこのメッセージが来たときはものすごい勢いでガッツポーズをした。もちろん即レスで「ぜひ!」と伝えて、そこからは彼の予定に合わせてとんとん拍子で予定が決まっていく。最寄りから数駅都心に向かった大きめの駅で待ち合わせをすることになり、ナマエはクローゼットを開けてどんな服がいいだろうかとさっそく吟味をした。


そして迎えた当日。迷いに迷って、ここは王道のフェミニン系だろうと白いブラウスにキャメルのサーキュラースカートを合わせ、足元はヒールの低いパンプスを選んだ。鞄はなるべく小さいショルダーバックだ。
何度も鏡で自分の顔を確認し、ちょこちょこと前髪を直す。どうせ道中で多少崩れてしまうのだからと分かっているけれど、気にせずにはいられなかった。

「ちょっと…早かったかな?」

待ち合わせの10分前には駅前に到着してしまい、スマホを確認する。伊地知から「今到着しました。焦らずに来てくださいね」とメッセージが入っていた。もう伊地知も来ているのだ。はっと顔を上げ、きょろきょろと周囲を確認する。大きな駅だから待ち合わせをしている人間も多い。とりあえずナマエは自分も待ち合わせ場所に到着したという旨を返信し、また顔を上げて伊地知を探した。

「あの、すみません。ナマエさんですか?」
「えっ、あっ、はい。伊地知さんですか?」
「はい。初めまして」

後ろから声をかけられ、振り返ると伊地知がにこにこと人のよさそうな顔で立っていた。写真より少し疲れているような印象はあるけれど、実物のほうがより優しくて誠実そうに見える。

「行きましょうか。職場の先輩…というか上司のような人に教えてもらったカフェがあるんです」
「はい」

伊地知に案内され、大通りから一本入った道に面しているカフェに入った。外壁も内装もナチュラルで温かい印象があり、店内には美味しそうなコーヒーの香りが漂っている。こんな素敵なカフェを知っているなんてやっぱり素敵な人だ。いや、職場の人から教えてもらったと言っていたから、もしかしたら今日のために聞いてくれたのかもしれない。そう思ってしまうのは浮かれすぎだろうか。
ナマエはミルクティーを、伊地知はブラックと迷ってカフェオレをオーダーする。「コーヒーお好きなんですか?」と聞けば「好きなんですけど最近職場で量を減らすように言われてしまって」と恥ずかしそうに頬をかいた。

「ふふ、でもカフェオレは飲んじゃうんですね」
「いやぁ、ミルクが入ってるので大丈夫かなと…」

冗談めかして話す雰囲気はメッセージのやり取りとは違う印象だった。誠実そうなのは変わらないが、随分話しやすい。少し痩せた頬と眼鏡が神経質そうな印象を与えかねないから、これは黙っていると損するタイプなのではないかと思う。
いくつか取るに足らない世間話をして、正直ナマエは付き合えたら素敵だなとまで思っていた。

「お仕事お忙しいんですか?」
「そうですね、繁忙期ではないんですが、少し勤務時間が不規則なもので…」

事務職なのに勤務時間が不規則なんて大変だな。そう考えていた時だった。チリチリと小さくドアベルが鳴って、客の入店を知らせる。入店してきたのは白い髪が印象的な随分スタイルのいい男だった。モデルか何かだろうか。
伊地知は入口に背を向ける位置にナマエはその向かい側に座っているから、きょろきょろと周りを見まわす彼とサングラス越しに目が合ったのはナマエだけだった。サングラス越しなのに目が合った、と思うのは、彼が一直線にナマエたちのテーブルに向かってきたからだ。

「どぉもー、君がナマエちゃん?」
「ヒッ!ご、五条さん!?」

伊地知の肩越しにぬっとナマエへ顔を近づける。とんでもない美形だが、なんで自分のことを知っているんだという疑問でそれどころではない。伊地知は白髪の美形の登場にあからさまに顔を引きつらせている。

「ちょ、五条さん、なんでここに…」
「僕が教えたカフェなんだから僕が来たっておかしくないでしょ」
「今日は任っ…仕事のはずですよね!?」
「ちょっぱやで終わらせてきた」

白髪の美形は五条というらしい。繰り広げられる会話の内容からして伊地知の職場の人間なのだろう。一直線に足を運んできたあたり、間違いなく今日のことを知っているようだった。

「というか、なんで彼女の名前知ってるんですか、私言ったことありませんよね!?」
「だってお前のスマホ見たらこの子とだけなっがいことメッセージ続いてるんだもん。すぐわかったよ」
「勝手に人のスマホ見ないでくださいよ!」
「はいはい、騒ぐと店の迷惑だよ」

五条は当然のように伊地知の隣に座り、軽く手を上げて店員を呼ぶと本日のケーキセットとクリームソーダを注文する。あまりに当然とばかりに乱入してくるものだから突っ込むタイミングを見失った。

「初めましてナマエちゃん。いやぁ、君くらいだよ、伊地知の退屈なメッセージに長々と付き合ってくれたの」
「は、はぁ…えっと、退屈なっていうのは…?」
「こいつ、返信する時間深夜だしお堅いメッセージばっかりでしょ。だからマッチングした女の子に飽きられてそのうち返ってこなくなるんだよね。結婚相手としては伊地知って結構いいらしいじゃん。だからマッチングはするみたいなんだけど、そんなのばっかりでさぁ」

ぺらぺらと暴露していく五条に伊地知が青いんだか赤いんだか分からない顔色ではくはくと口を動かした。
ナマエはそんなことを感じなかったけれど、あまりにメッセージだけのやり取りが長くなると上手くいかないという話も聞いたことがある。

「ナマエちゃんだけが辛抱強く付き合ってくれてたってわけ」
「ご、五条さん!だから滅多なこと言わないでくださいよ…!」
「真剣な顔で女の子と一緒に行けるいいカフェ知りませんかとか言ってくるんだもん。もう僕も応援したくなっちゃって」

登場からここまで一切応援している人間の挙動ではないと思うけれども、本人的にはそのつもりらしい。

「だからナマエちゃん、これからも伊地知のことよろしくね」

どうして職場の先輩がまるで母親のような言葉で交際を勧めてくるのか。なんだか伊地知と付き合うとなるととんでもないオマケが付いてきそうな気がしてならないが、これでもう伊地知と会えなくなったら残念だと思うし、その可能性には目をつむることにしようと思う。
結局この次にデートをした時も当たり前に五条が付いてきた。伊地知の焦る顔が可愛らしくて、第三者にデートを邪魔されているなんて状況さえどうでもよくなってしまった。


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