伏黒恵の場合


マッチングアプリ。それは出会いの減った現代人が効率よく好みの相手と出会うための魅力的なツールである。


「もうやめてやる……」

恨み言のようなそれをスマホの画面に向かって吐き捨てる。アプリに登録をするのはもう四度目だ。入会と退会を繰り返す人きらいです、なんて文言を他人のプロフィール欄で見たことがあるが、こちとら繰り返したくて繰り返しているわけではない。
ナマエはマッチングアプリでしっかりと出逢い、しっかりと退会し、しっかりと別れ、そしてまたしっかりと入会する、というこの負のスパイラルに陥っていた。

「はぁ…もうどういう人がいいのかわからん…」

相手を選ぶ基準はさまざまである。写真の雰囲気、価値観、趣味、職業、年収、その他もろもろ。当たり前のことだけれど、アプリのプロフィール欄に書かれたことだけでは個人の1パーセントも表現できていないのではないかと思う。
もっとも、だからこそこれはきっかけに過ぎず、メッセージを交わしたり実際に会ったりしてお互いに相手を見極めるのであるが。

「ナマエ、また悩んでんの?」
「もう正解がわからん」
「テキトーにイイネ押しとけばいいじゃん」

目の前でストローに口をつけているのは大学時代からの友人である。彼女はマッチングアプリを通して出逢った相手と交際し、もう三年になろうとしていた。上手くいっている彼女が羨ましくて始めたのに、自分は少しも上手くいっていなかった。

「きっかけなんてテキトーでいいんだって。上手くいかなかったら次にいけばいいんだから」
「次に行かずに結婚目前みたいな人に言われても説得力ないんですが…」
「私はたまたまだって」

確かに、こういうものはある程度運の話でもある。たまたま目に留まったとか、たまたまメッセージの返信が早かったとか、そういう些細なことが積み重なってマッチングは成立するものだし、それは実際に付き合い始めてからも同じことだ。しかしそれは努力のしようがないと言われているも同然に聞こえて、じゃあ一体どうしろと言うんだろうという気分にもなってしまう。

「あ、ほら、この子かっこいい。イイネしちゃお」
「えっ!あっ!ちょっと!」

彼女は勝手に「F」という仮名で登録されている男性にイイネを送ってしまった。抗議するももう手遅れである。軽い調子で「ごめんってば」と謝る彼女に反省の色はない。

「案外うまくいくかもよ?」
「こんなイイネついてる人がイイネ返してくれるわけないじゃんっ」
「気張らないほうがいいんだよ、こんなのさ」

そう言って、彼女は手元のアイスティーのストローにぱくりと口をつけた。


その日の夜だった。アプリと連動しているフリーメールのアドレスに一通のメールが届いた。なんだろうな、と思って開くと、そこには「Fさんとマッチングが成立しました」の文言が書かれている。

「えッ!」

慌ててアプリを開くと、マッチングしたお相手の欄に赤い丸で通知がついていた。Fさんって昼間の人だ。
男性は女性に比べてイイネを貰いづらいと聞くけれど、そんな中でも彼は明らかに人気ユーザーという奴だった。まさかその彼が自分にイイネを返してくれると思わなかった。
ナマエは早速メッセージの画面を開いて「マッチングありがとうございます!」の常套句から始まるそれを入力していく。

『伏黒です。よろしくお願いします』

Fは伏黒のFなんだなぁ、と他愛もないことを考えながら、メッセージは軽快に続いた。伏黒はナマエよりひとつ年下の25歳。友人に勧められて登録をしたらしい。
猫よりも犬派。読書をするならノンフィクションが好き。硬派なイメージが積み重なっていく。どんな仕事をしているのかと尋ねると「公務員のようなものです」と中途半端な答えが返ってきたのが気になるが、まぁそんなものは些細なことだった。
メッセージの頻度は他の男性に比べて低いけれど、文章が丁寧な感じで印象が良いし、出来れば一回くらい会ってみたい。


そしてとうとうその伏黒と会う約束を取り付けることが出来た。明日の土曜日、お気に入りのブックカフェがあるのだけど一緒にどうか、という誘いを彼が快諾してくれた。次こそいい感じになるのではないか。根拠もなくそう気持ちは浮ついた。
彼に会うまでに新しいワンピースを買った。普段は仕事で動きやすいようにパンツスタイルのスーツばかりで、私服なんて出かける用事があるときくらいしか袖を通すこともない。つまりこのワンピースは彼とのデートのためだけに買ったものだった。いいな、と思ってもらうためには全力投球だ。

「えっ、あれっ…ここ、どこ…?」

残業を終えた午後9時過ぎの帰り道。普段と同じ道で帰っていたはずが、いつまで経っても自宅につかない。通いなれた道を間違えるはずもなく、しかし確実に普段と同じ道ではなかった。
一度駅の方に戻ろう。そう思って踵を返したが、どこまで行っても駅に戻れない。

「うそ…えっ、なんで…?」

ぞっと背中が冷たくなる。まるで誰かに見られているみたいだ。ナマエはひゅっと息をのみ、地面を蹴って駆けだした。パンプスでは上手く走ることも出来ない。ぜえぜえと肩で息をするほど走って、それでもどこにも辿り着かない。映画や漫画じゃあるまいし、こんなことあってたまるか。目尻に涙が浮かぶ。
ついに足が重くなってきて、ナマエは途方にくれながらその場に立ち尽くす。泣き出しそうなのを必死に堪えていたら、地面が揺れてなにか生ぬるいものがナマエの足を掴んだ。

「ヒッ……!」

ハッと視線を落とすと、大きな人間の手のようなものが地面から伸びていた。人間じゃないなんてのは明らかで、強引にそれはナマエを地面に引きずり込もうとする。死ぬ。そう直感した。頭の中はパニックで、どうにか逃げようにも力が強くて逃げられる様子はない。その時だった。

「玉犬」

男の声とともに黒い影が足元を走り抜ける。ナマエを掴んだ手をその影が食いちぎり、ナマエは支えを失った反動でぺたりと地面に尻もちをついた。助かったのか。心臓は依然バクバクと激しく鳴り続けている。

「怪我、ありませんか」

先ほども聞こえた声が今度はナマエに語りかけ、ナマエは恐る恐る顔を上げた。そして声の主の相貌を見て、また言葉を失う。あろうことか、目の前にいたのは明日会うはずの伏黒だった。

「ふ、しぐろ…さん…?」
「え、なんで知って……あ」

ナマエから遅れること数秒、伏黒も目の前にいるのがアプリで連絡を取っている相手だと気が付いたようだった。
自分の足を掴んでいたのは何だったのか。それにナマエを助け出した影はまるで伏黒が呼び出したかのように思えた。普通じゃない。何かおかしい。けれど何がどうおかしいかを説明するすべをナマエは持たなかった。

「あの、怪我なかったスか」
「は、はい…大丈夫、です」

ナマエが何とかそう返事をすれば、伏黒は「良かったです」と少し口元を緩める。彼が手を差し出し、ナマエはそれを掴んで立ち上がった。半ば放心状態のまま、何度かまばたきを繰り返す。

「えっ…と、伏黒さん…なんでここに…?」
「今日は近くで任…仕事があって」

にんしごとってなんだろう。伏黒は夜に紛れるような上下黒の服を着ていて、その背後に先ほどの影に見えたやたら大きな犬が控えている。犬と一緒に夜の街で化け物を退治する仕事?いや、そんなものがあってたまるか。

「伏黒!ごめん、さっき一匹取り逃した!」
「問題ない。いま祓った」
「すばしっこい呪いでさー」

大きな犬の背後から今度はピンク髪の男が姿を現した。そして伏黒の向こうにナマエがいるのを見てあからさまに「ヤバい」とでもいうような顔をする。聞き間違いでなければ今彼は「のろい」と言った。のろい。呪い?

「おい虎杖」
「ごめんって。伏黒に隠れて見えんかった」

伏黒が苦々しい顔で「虎杖」と呼んだ男を睨みつけた。虎杖を引っ張っていってごにょごにょと二人でいくつか話し、伏黒はナマエの元までまた戻ってくる。

「駅まで送ります」
「いや、えっと…」
「まだ、危ないかもしれないんで」

何が、とは怖くて聞けなかった。先ほどのような化け物がまた出るかもしれないとでもいうのか。いやに冷静でいられるのは、自分一人でないということと、単純に思考がショートしているからに違いない。
結局ナマエは虎杖に見送られながら駅まで歩くことになり、逆戻りではあるのだがそれも言い出せずに伏黒の隣を歩いた。そういえば大きな犬はいつの間にかいなくなっている。

「あの、えっと…助けてもらった…んですよね?ありがとうございました」
「いや、仕事なんで」

やっぱり仕事なのか。きっちりしているのか抜けているのか、伏黒は自分が尋常ならざる者であるということの鱗片をちらほらと溢した。

「明日、楽しみにしてるんで」

惚れ惚れするほど端正な顔でそんなことを言われてしまうと、頭を渦巻いていた疑問がすべて隅に追いやられてしまうような気がする。ちょっと、多少、少しくらい、特殊な仕事なのかもしれない。そうだ、べつに今すぐ結婚するとかそう言うわけじゃないんだ。もう少し話してみて、気が合うなら付き合ってみて、それからでもいいじゃないか。

「わ、私も…楽しみにして、ます」

伏黒がホッとしたように目元を緩める。
結局謎めいた一連の全容を知るのは、数年後、自分の名字が伏黒になるときのことだった。


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