おはようからおやすみまで




※夏油not離反パロです。


補助監督、と言っても、日本語的な意味で監督しているかどうかというとかなり怪しい。術師補助とか事務責任者とか、あるいは総合補佐みたいな言葉のほうが業務内容や立場を表しているんじゃないだろうか。夏油はそんな取り留めもないことを考えながら、自宅マンションまで送迎してくれる国産高級車のフルカスタムシートに身をゆだねていた。

「では夏油さん、また明日、9時にお迎えにあがりますね」
「わかったよ。明日は埼玉だったね」
「はい。クリーニングに出していたシャツがそこにありますから、一緒に持って帰ってください」
「いつも悪いね、ありがとう」

ハンドルを握るのは二つ年下の女性補助監督だ。学生時代は補助監督志望ということもあってあまり関りはなかったが、彼女も現場に出るようになって仕事を一緒にこなす回数が増えた。仕事ぶりは真面目できめ細やかで、他の呪術師からの評判も良いと聞く。

「ナマエ、明後日って何時だった?」
「明後日は午後からですので13時にお迎えに上がる予定ですよ」

回数が増えたどころか、今日も明日も明後日も現場への送迎は彼女の運転だった。評判のいい補助監督がどうしてさも夏油の専任のようになっているのか──。話は二年ほど前に遡る。


フリーランスになるか高専所属の特級術師として任務に従事するかを上層部と揉めに揉めた時期だった。そもそも高専の考え方とは反りの合わない部分が大いにあった夏油は、自分に課される任務のあまりの量に私生活がままならない状況にあった。帰宅すると倒れるか眠るかの微妙な具合でベッドに沈む毎日で、食事は宅配かインスタントばかり。外食しようにもそんな時間があれば家で伸びて少しでも体力を回復したいくらいで、人生で一番生活がすさんでいた。

「くっそ……反転使ってる悟と同じだと思うなよまったく……」

特級術師は夏油のほかに二人ほどいるが、ひとりは海外を遊びまわっているらしく、実質同期の五条と二人で案件を捌いている。しかしまぁ、五条は反転術式が使えるのだから、蓄積する疲労という意味では単純な比較対象にならない。

「はぁ、やば…メシ……」

空腹と睡魔の両方がいっぺんに襲ってくる。こういう場合、勝つのは大抵睡魔である。もういいや、何もかも後回しにして眠ってやろう。そう思った瞬間にインターホンが間抜けな音を立てて鳴った。配達、宅配?記憶はないが、もう最近細かいことは覚えていない。重たい身体を引きずってなんとか玄関まで辿り着く。もう一度インターホンが鳴って、あ、受話器の方で確認すればよかった、と今更思った。そんなことにも頭が回らない程度には疲れていた。

「……はい」
「あ、夏油さん。ミョウジです。良ければ差し入れを──」
「ミョウジさん…?」

玄関先に立っていたのは今日の担当補助監督だったナマエであった。スーツ姿のままの彼女がビニール袋を提げているところまで確認して、もうそこで限界だった。ぐらっと視界が揺れ、靴を脱ぎ散らかしたままの玄関に倒れ込む。

「えっ!?げ、夏油さん…!?大丈夫ですか!?」
「……った…」
「夏油さん、しっかりしてください!えっと、救急車…それとも家入さん……」

ナマエが夏油の傍に屈み、うつ伏せに倒れた夏油の体勢を仰向けに変えさせる。緊急の連絡先を口走ったから、そういうことじゃない、と思って何とか意思の疎通をはかる。

「腹が、減った」
「え?」

そこで睡魔が本格的に襲ってきて、ぷっつりと意識が途絶えた。


じゅうじゅうと音を立て、鼻腔をくすぐるのは出汁のいい匂いだ。何だっけ、と思いながら瞼を緩慢に動かすと、キッチンの前に人が立っていて、何やらもくもくと作業を進めている。なんで一人暮らしの自分の家に誰かがいるんだ。

「あ、夏油さん、目、覚めました?」

ソファの上に眠っていたようだけれど、女性の柔らかい声がかけられていっそう何のことだくか分からなくなった。美味そうな出汁の匂いが空腹をかきたてる。キッチンにはナマエが立っていた。

「親子丼作ったんですけど、食べられそうですか?」
「え、あ、うん…」
「よかった。じゃあすぐよそいますね」

ナマエはごく自然な動作でどんぶりに白米をよそい、その上に親子煮をかけていく。ダイニングテーブルにそれが置かれて、夏油はのろのろソファから立ち上がると、箸やスプーンまできっちり配膳の終わったその前に座った。

「…いただきます」
「召し上がれ」

ぼんやりと回っているのかいないのかわからない思考のまま匙を手に取ってそれを口に運んだ。鶏肉はジューシーで柔らかく、出汁の染みこんだ玉ねぎがまるで極上のソースだ。卵の半熟加減も絶妙で、親子丼のなかに一体感をもたらしている。美味い。空腹の限界ということも大いにあるんだろうが、それを差し引いても美味い親子丼だった。

「……美味い」
「よかった。すみません、勝手に上がりこんでお借りしちゃって」
「いや、全然構わないんだけど、ミョウジさん、なんでわざわざ…?」
「えっと、今日ご自宅までお送りしたときに随分疲れていらしたので、差し入れだけでもと思って来たんです。そしたら夏油さん、玄関でばったり倒れちゃうから、目が覚めた時に食べられるように何か用意しておこうかと…」

彼女が恐縮しながら自分の状況を説明する。そうだ、思い出した。空腹と睡魔の限界で行き倒れかのように倒れたんだった。彼女が来てくれていなかったら、今頃引きずったままの空腹に揺り起こされてカップ麺に湯を注いでいたことだろう。

「では、お目覚めのようなので私はそろそろ失礼しますね」
「ああ。本当にありがとう。」
「明日は夕方からの予定ですが、体調がお悪いようでしたらまたご連絡ください」

彼女が帰ったあとにちらりとキッチンを見ると、使いっぱなしのコップ類はきっちり洗われ、散乱する調味料の小瓶が一列に並び、シンクはぴかぴかに磨かれていた。元来夏油もどりからといえば几帳面な方だが、最近は忙殺されて一切手つかずで、久しぶりにこんなに整理整頓されているキッチンを見た。


翌日の夕方、すっかり回復した夏油の送迎は偶然にも二連続でナマエが務めるようだった。五条、伊地知、の流れで伊地知の同期である彼女とも話したことはあるし、仕事で一緒になるしと親しいほうではあると思うが、まさかの失態を見られるには恥ずかしい程度の距離がある。

「お疲れ様です。お加減いかがですか?」
「ああ、問題ないよ。キッチンの掃除まで悪かったね」
「いえ、ご迷惑でないのなら良かったです」

自宅マンションの車寄せに国産高級車を停め、ナマエが昨日と同じ穏やかな様子で夏油を待っていた。昨日の出来事があるせいか、普段よりも少し距離感の近い世間話をした。やれ家事のこういうところが面倒だ、雨の日の洗濯はどうしているだと主婦のようにも見えるような会話をするような異性の存在は多分初めてで、新鮮な気持ちだった。

「夏油さん、ここ最近特にお疲れみたいですね」
「ああ。上層部の馬鹿は何でもかんでも特級特級って…私と悟を人間だと思ってないんじゃないか?それに反転使える悟と違って私は働いたら働いた分だけ疲労が蓄積するんだよ。ハァ…そんなこともわかってないんだろうな」

思わず苦々しく愚痴が漏れて、ナマエがくすくす笑った。そこでしまった、と口を閉じる。いくら日々思っていることとは言え、同僚の年下女性に垂れ流すにしては言葉が汚いし格好悪すぎる。

「…ごめんね、昨日の今日でかっこ悪いところばかり見せて」
「いえ、とんでもないです。夏油さんって高専生のときからすごくかっこよくて完璧な人だと思っていたので…フフ、なんか人間っぽいエピソード聞けて嬉しいですよ」
「人間っぽいって…私もともと人間なんだけど?」
「フフフ、すみません」

会話のリズムというか、温度というか、そういうものが似ていた。こんなに話しやすい子だとは知らなかったな、と思いながら、車窓を流れる風景を見つめる。そういえばそろそろクリーニングに出さなければいけないスーツがあった。

「あ、そうだ。今度五条さんと夏油さんって会合出席されますよね」
「うん。どうしてそれを?」
「伊地知くんに聞きました。なにかクリーニングに出す礼服とかあればついでに出しておきますよ」

渡りに船、とばかりのタイミングにパチパチと目を瞬かせた。それは有り難い申し出だ。ミョウジさんの負担にならなければ、と枕詞をつけると「伊地知くんのスーツのついでなので」とこちらに気負わせないように相槌が返ってきた。
その日の帰りにスーツを任せ、それをきっかけにクリーニングに出すものがあれば何かにつけて「ついで」と言って彼女が引き受けてくれた。ナマエの送迎と仕事ぶりは気持ちがいい。有能な秘書がそばで何もかも先回りをしてくれているかのような感覚だ。

「ミョウジさんと仕事してるとやりやすいから助かるよ」
「ホントですか?良かったです」

伊地知に聞いたところによると、やはり有能な彼女は男女問わず呪術師からの人気が高いらしい。だから毎度彼女というわけでもなかったが、彼女が担当の日はいつもより調子がいいようにさえ感じた。彼女がずっと自分の担当だったらいいのにな、と、贅沢で狡い考えが浮かぶ。いや、自分の一存でそんなことを進言できるわけがない、と、今日も後部座席で小さくため息をついたのだった。


できるわけがない、と思っていたのにも関わらず、その半年後には学長である夜蛾に対してナマエの専任化を打診していた。彼女が担当の日とそうでない日の任務の円滑さの大きな違いを如実に感じてきていたし、子供っぽい独占欲と、外堀を固めてやろうという大人の汚い考えもあった。ようは、彼女をただの同僚以上の目で見るようになっていた。

「まぁ…実際問題特級のオマエの負担が大きいことは明らかだ。業務量的にも専任をつけておかしくはない…」
「でしょう?より効率的に任務をこなすためにも必要なことだと思うんですよね」
「だがこちららで勝手に決めてしまうのもいかがなものかと思うが。ミョウジの優秀さは色んなところで買われているからな…」
「特級術師流出の損失は大きいと思いますよ」
「傑…オマエな…」

フリーランスになることをほのめかせば、夜蛾はあからさまに苦々しく顔を歪める。それにニッコリとした笑みを崩さないままでいれば、大きなため息のあとに「…本人の希望が最優先だからな」と釘を刺した状態で話は保留と言う名の仮決定になった。
その二日後、話を聞いただろうナマエが夏油のもとを尋ねてきた。呪術師が待機室のように使っている部屋に、慌てた様子で顔を出す。

「あ、あのっ夏油さん!専任のお話聞いて…!」
「悪いね。ミョウジさんさえ良ければなんだけど、どうかな?」
「も、もちろんです!お役に立てるように頑張りますね!」

ナマエが小さく胸の前でファイティングポーズを取る。これでどうやら交渉成立のようだ。かくしてナマエは高専内でも異例の専任補助監督の身分となり、夏油は虎視眈々と外堀を埋め始めたのだった。


マンションの車寄せに到着して、ナマエがサイドブレーキを引いて「お疲れさまでした」と夏油に声をかける。夏油はドアを開けずにじっと運転席のヘッドレストを後から見つめた。

「夏油さん?」

ナマエがどうしたのかと言わんばかりに名前を呼び、首だけで振り返る。くるりと丸い瞳が夏油を見ていて、その中に悪い顔をした自分が映ってしまいそうで慌てて顔を取り繕う。

「あの、どうかしました?」
「いや、昔のことを思い出してね」
「昔のこと、ですか?」
「そうそう。ナマエが私を介抱してくれた日のこと」

あれから時間が経って、結局今となっては時々部屋の掃除までしてもらうほど彼女におんぶに抱っこの生活を送っている。彼女のリズムで整えられていく生活はすごく居心地がよくて、もう今更手放せそうにない。
さて、外堀も随分埋め尽くした。実は数ヶ月前から勝ちを確信している。じれったい時期を楽しむのも楽しみつくしたところだし、そろそろ手を握ってしまってもいいだろう。

「ねぇ、あの日玄関先で倒れてたのが私じゃなくても、あんなに親切にしてた?」

夏油は後部座席から腰を上げると、後ろから身を乗り出してハンドルを握る彼女の手に自分の手を重ねる。一度びくりと肩が揺れ、視線は斜め下に逸らされた。真っ赤になる耳に「ねぇ、教えて?」とわざとらしく囁けば、ナマエはわかりやすく狼狽える。

「…ほ、他の方だったら、救急車の必要がないならソファまで運んで、栄養ドリンクと栄養補助食品置いて帰りますよ…」

あ、それでもそこまでの世話をするんだな、と彼女の人の良さを改めて実感しながら、そうだとしても上がりこんだうえに目を覚ますまで待って、その上に手料理を振る舞おうなんていうのが、自分にだけ向けられた下心を含む厚意なのだと思って口元がにやける。

「ね、ナマエ。今日、部屋に上がっていかない?」

ナマエの唇がはくはくと動く。さて、彼女が頷いてくれるだろうことはもうわかっているけれど、どこまで気付いてないふりをしようか。君がいない生活なんて、もう考えられそうもない。


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