お触りご注意
夏油傑は怒らせると怖い。それはもう充分身をもって理解していることである。まぁ、私はまだ甘やかされている方だと思うけど。こないだ五条が傑のことをマジギレさせた時は地球が割れるかと思った。そんなわけで、目の前でにっこりと笑う傑をこのあとどう切り抜けようかと頭を回してみても、最適解というのは一向に浮かんでこなかった。
「ナマエ、これ、なにかな?」
「げっ……」
傑がぴらりとショップのカードを見せる。A6程度のそこには原色で書かれた店名、ご来店ありがとうございましたの文字、そして中央にはテッカテカに光る小麦色の…マッチョ。紛うことなきマッチョ。
「いやぁ、なんというかそれはぁ…」
「もしかしてこの前冥さんとご飯行くって言ってたの、ここ?」
蛇に睨まれた蛙という表現がぴったりというこの状況で、私は視線を左右に泳がせる。平泳ぎというよりはクロールの速さで、ピュンピュン反復横跳びもいいところだ。
「ここなんだね?」
「い、いやぁ…」
「ね?」
ぐぐぐっと詰めるように傑が尋ねる。顔はにっこり笑っているが、笑顔に通常伴われるだろう感情はひとつも含まれていないような気がする。気がするっていうか間違いなく含まれていない。私は最終的に観念して蚊の鳴くような音量で「…は、はいぃぃ…」とそれを肯定した。傑が「まったく…」とため息をつく。
「ちょ、そこまで呆れることなくない!?飲食店だよ!?」
「飲食店だけど、これはないだろ」
「ちょーっとマッチョなお兄さんが接客してくれるだけの健全なお店だよ!?」
傑の言い草に流石にちょっと腹が立って、私はつんっと言い返した。ホストクラブや、まして風俗に行ったわけではないのにその言い方はあまりに横暴じゃないか。マッスルカフェというのはいかがわしいお店では決してない。鍛え抜かれたマッチョな男の店員さんが給仕をしてくれるという、メイドカフェのマッチョ版だ。いや知らんけど。
「男のひともメイドカフェ行ったりするじゃん!傑はそれもこんな扱いすんの?てかメイドカフェって女の子も行くし、カップルで行ったりもするし、マッスルカフェだって同じだから!」
なかばわけわからん理論を展開しながら傑に噛みつく。もう後半はマジで自分でも何を言っているのかわからない。傑はまるで私のことを話の通じない子ども扱いで、あからさまにため息をつくと呆れ交じりにじとりと視線を向けてきた。
「だからって見知らぬ男の筋肉わざわざ見るための店に行くことはないだろ」
「なにそれ!じゃあ傑が筋肉見せてくれんの?触らせてくれんの!?」
がるるるる、そう言ってさらに噛みつくと、傑が着ていたTシャツをがばっと脱いで上腕二頭筋を差し出す。
「別に触ればいいだろッ!」
「えッ!!」
ぴっかーん。隆起する肉体という名の鋼。美しく鍛えられた上腕二頭筋は神々しいまである。
私はマッチョが好きだ。鍛え上げられた筋肉のラインはこの世の何物にも代えがたく、またそのしなやかさと雄々しさは神仏にも匹敵する尊さだといえる。
ところで、私と傑は一か月前からいわゆるお付き合いをしている間柄である。付き合い始めたばっかりだけど、甘々な空気みたいなものは全然ない。「私と付き合ってよ」と言われた時には「どこに?」と少女漫画も顔負けな食い違いを起こしたほどさらっとした告白で、呆気に取られているのを丸めこまれるようにして付き合い始めた。
「さ、触っていいの…?」
あれ以上談話室で言い合いをするのも憚られて私たちは傑の部屋に引っ込んで、改めて上腕二頭筋を前に恐る恐る尋ねる。「見せびらかす趣味はないけど、あんな店行かれるよりはマシだからね」と、傑はしぶしぶと言った様子でそうこたえた。
私は傑の上腕二頭筋に手を伸ばし、指先が触れる直前で動きを止めてから、意を決してちょんっと指先を引っ付ける。
「うおっ…」
「うおって…そんな雄々しい反応ある?」
「だ、だって…すご。私も呪術師だし鍛えてるけどさぁ…え、やば」
触れたところから柔らかく沈む。見た目はすごく硬そうだけど、全然そんなことはない。質のいい筋肉は柔らかいというが、本当に傑の筋肉はそんな感じがする。ぺたぺたぺたと、一度触ったから緊張が解けたのか、私は許しを得ていることをいいことに遠慮なしで彼の二の腕を触っていく。ハリのある皮膚に包まれた筋肉は本当に柔らかくて、だけど彼が少し身じろぎをして力が入るたびにびっくりするほど硬くなる。十代男子らしからぬこの筋肉は呪術師なんていう職業に従事している故だろう。
「私、今初めて呪術師でよかったなって思ってる…」
「なんて?」
「だって、呪術師じゃなかったらこんな上質な筋肉に出会えなかったもん」
「嘘だろ、こんなしょうもないシーンで聞きたい台詞じゃなかったんだけど」
引き続き筋肉を堪能する私にちょっと引いてますって感じを隠すことなく傑がそう言った。どうでもいい。いくらでも引いてくれ。後のことは後から考えるから、今はこの筋肉を思う存分堪能したい。
上腕二頭筋、上腕三頭筋を堪能し、そのまま三角筋に触れる。僧帽筋もまた綺麗なラインを描いていて、まるで一級品の彫刻かのようだ。私はうっとりして大胸筋をなぞった。
「ちょっ…ナマエっ…」
「はぁ、やば。なにこのサイッコーな筋肉。えぐ…」
「触り方ヤバいって、もうちょっと普通に…」
「ほんっとなにこれ。マジで何食べたらこんな綺麗な筋肉になるの?外腹斜筋綺麗すぎん?」
外腹斜筋、いわゆる脇腹の部分を指で撫でる。鍛えるのがけっこう難しい場所だって聞いたことあるんだけど、傑は実戦で必要になるからなのか、マッスル系の雑誌で見たようなマッチョたちとは一線を画した洗練されたラインがある。
「やば、うわ、えぐ。ずっと触ってられる…」
「っ…こら、ナマエっ…」
語彙力ゼロを通り越してもはやマイナスで、日本語かどうかも怪しい言葉ばかりをだらだらと垂れ流す。もう最終的に「やば」と「えぐ」しか言ってない。
「ストーーーップ!!」
べりっと音が鳴るような勢いで引きはがされ、ぜぇぜぇと何故か息を切らしながら傑が顔を真っ赤にしていた。あ、ちょっと可愛い。
「傑が良いって言ったんだよ?」
「言ったけど、もっと普通に触れないの?」
「普通って?」
嗜虐心のようなものがくすぐられる。言いたいことは理解したけど、触って良いって言ったのは傑だ。こんな上質な筋肉他ではお目にかかれないだろうし、ここぞとばかりに触るっきゃない。
さっきまでは無自覚だったけど、今度は明確な意思を持って傑の大胸筋から外腹斜筋にかけてすすすっと指先を這わせる。
「ッ…ちょっとナマエ…」
「ん?」
「いい加減に…」
多少凄まれたって、こんなに真っ赤な顔をされたら怖くもなんともない。調子に乗った私は更につんつんと腹直筋をつついた。ほんとすごい。しっかりシックスパックに割れてて、だけど硬いだけじゃない。しっかり指が沈むように柔らかくってしなやかさがあって、見せるための筋肉じゃなくって使うための筋肉だってことがありありと伝わってくる。
「ン…こら、くすぐったいってば…!」
「えー、じゃあ私の筋肉欲他で満たすの許可してよ」
ちょっとふざけてそんなことを言って、いや、そもそもマッスルカフェだってこんなふうにべたべた触るためのお店じゃないんだけど、なんかとにかく傑を揶揄いたいような気持ちになっちゃって、私は調子に乗っていた。つんつん、ついー。彼の身体の芸術的なまでに美しい隆起をなぞる。
さて逆向きに、と指を反転させたところでがっちりと手首を掴まれた。私は反射的に傑を見上げた。
「ナマエ」
あ、やばい。
「もっと普通に触ってって、言ったよね?」
傑はにっこりと笑ったまま確実に怒っていて、手首は振りほどこうにもちょっと痛いくらいにがっちり掴まれている。逃げられない、ということは明白で、手首が解放されたと思いきや瞬く間にベッドへ放り投げられた。放り投げるといっても、痛いようなアレじゃないんだけど。
「す、傑、あの…ごめ」
「ごめんって言っても許さないからね?」
「うっ…」
調子に乗っていた自覚があるので、そう言われても仕方がない。傑はすっかり赤い顔をいつもの顔色に戻し、にっこり笑ったままベッドの上の私に跨った。傑ほどのウエイトがある人間に腰のあたりをがっちりホールドされてしまえば動くことなど出来ないわけで、私は無抵抗のまま諸手を挙げる。
「あーもう、君ってやつは…」
傑はそう言って、上半身を折り曲げると、おでこをくっつけるほど近づき、そのまま鼻先にキスをした。喉ぼとけのおうとつが目の前に惜しげもなく晒される。
「ナマエさ、私とどんな関係か、理解してる?」
「え、っと…彼氏彼女的な…」
「的な、じゃなくて彼氏と彼女ね。で、自分が思わせぶりな触り方して、なんにも起きないって本気で思ってた?」
何にも起きないと思っていたというよりは、具体的なことなんてなにも想像していなかったというほうが正しいと思う。私は「考えてなかった」と正直に言って、すると傑が頭上でこれでもかというほどため息をついた。
「ご、ごめん?」
「だから、ごめんって言っても許さないって言っただろ?」
台詞のわりにそこまで本気で怒っているようには見えないけれど、それがわからないのがこの夏油傑という男の怖いところである。はくはくと口を開閉させていると、傑が口角を上げてそのまま私の唇に噛みついた。
「ん、ぅ……」
何度も何度も繰り返しキスをされて、呼吸が苦しくなって口を開いたらその隙に傑の舌が割り込んでくる。分厚い舌がめろりと口の中を撫でて、ぞわぞわ背中が粟立つ。舌先で顎の上を撫でられると、たまらなくなって変な声が出てしまった。やばい、恥ずかしい。
どれだけ続いたか分からないほどの長い間そういうキスをして、頭の中がとろけるような感覚に陥る。
「はぁ……三か月は手出さないって決めてたのにな」
傑がため息をついて、ぼうっとしたまま見上げれば、ちょっと困ったみたいな顔をしている傑と目が合う。何が起きるかなんて考えてなかったけど、この状況でこの先がどうなるかを想像できないほど鈍感じゃない。
「…えっと、その…する?」
「何言ってるか分かってる?」
「流石に分かってるってば」
私が考えなしでぺたぺた触っていたせいで傑からの信用は地に落ち、彼氏の部屋でベッドに押し倒されてこれから何が起きるかもわかっていないような鈍感女認定をされてしまった。いや、そもそもよくよく考えれば彼氏の部屋でぺたぺた身体触ってる時点で想像しろって話なんだろうけど。
傑はくすりと笑い、私の手を握ると自分の大胸筋にそっと乗せる。最高で激ヤバな上質筋肉のはずなのに、追い込まれてるみたいな状況になっているからかさっきまでの興奮は違うドキドキに塗り替えられてしまった。
「ナマエ、私の筋肉、思う存分堪能できるね?」
もう完全に意趣返しだ。私は意を決して傑の背中に手を回す。背筋の発達えぐ、と思っていたら「背筋やばいとか思ってるだろ」と頭の中を見透かされた。
「お、お手柔らかにお願いします…」
「試合するんじゃないんだから」
傑が笑った。それからもう一度唇が降ってくる。夏油傑は怒らせると怖い。それはもう充分身をもって理解していることである。なのにも関わらず私は調子に乗って、またもこうして実績を積み重ねてしまうのだ。
一週間後、気付かれないうちに削除しようとしていたマッスルカフェでマッチョ店員と撮ったツーショットの写メをうっかり見つけられてしまって、愚かにも私はもう一個実績を積み重ねることになった。
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