死化粧よりも華


呪術師とは、常に命を危険にさらす仕事だ。それでもナマエがここに留まり続けるのは使命感や正義感なんてものではなく、単純に他の選択肢がないからだった。

「はぁ、呪術師ってほんとろくでもない…」

ため息をついて高専の中を歩く。呪術高専に所属する呪術師は高専によって割り振られた任務をこなす。それぞれの等級に適した任務を割り振られるのが建前だけれど、人材不足のこの業界でいつもそうとは限らない。例によって今日もそんな任務で、しかも二件連続だったせいで文字通りの満身創痍だ。

「お風呂……クレンジングあったっけ…いや、最悪メイク落としシートで…」

昨今のウォータープルーフの技術というものは凄い。随分激しい戦闘のために泥や血飛沫の汚れこそ付いたが、メイクそのもののヨレはかなり少なかった。下地を変えたのが良かったのか、それともプレストパウダーを変えたのが良かったのか。いや、その両方だろう。

「あれ、ナマエ先輩?」

暗がりから声をかけられて顔を上げると、そこにはナマエと同じく土埃に汚れた後輩が立っていた。夏油だ。

「お疲れさま。夏油くんも任務帰り?」
「はい。丁度さっきついたところで」

自然と並んで歩くような流れになり、土埃に汚れた顔を二つ並べて寮までの道のりを歩いていく。この後輩は恐ろしく優秀なひとりだ。というか、二つ下の学年の連中はみんな人間離れした才覚を発揮している。六眼の無下限呪術、反転術式使い、そして彼の呪霊操術。先輩として肩身が狭いことこの上ない。

「夏油くん、今日の任務どんなところ行ったの?」
「横浜に行ってました。面倒な呪霊がいるとかなんとかで。ナマエ先輩はどこに?」
「私は栃木の山の中。もう結局泥だらけになって最悪よ」
「はは、確かにお互い凄い汚れようですよね」

普段から任務に行くときは着替えは持ち歩くようにしているが、一件目で予想外に水をかぶることになってしまってあえなくそれを使い、二件目で泥を被るもどうしようもなくなってしまった。これから任務の件数だけ着替えを持ち歩けということか。そんなの非現実的すぎる。

「あ、ナマエ先輩」

夏油がぴたりと立ち止まってナマエを呼び、それにつられて足を止める。何事だろう、と振り返れば、夏油の手がそっとナマエに伸びてきた。びくりと反応はしたものの避けることが出来ずに夏油の親指がナマエに触れる。そのまま頬のあたりをぐっと拭っていく。

「顔にも泥、ついてましたよ」
「あ、り、がとう……」
「どういたしまして」

にっこりと夏油が笑った。顔に泥が付いていたなんて顔を合わせた時に分かっていたんじゃないだろうか。それをさもいま気が付きましたなんて白々しい。まったく先輩をからかうなんて、と思う反面、どくどくと脈打つ心臓を鎮めることはどうにも出来そうにない。


夏油傑という後輩は、随分と異性にモテるようである。窓の女性に告白されているのを何度か見かけたし、街中でナンパされていたなんてエピソードを家入から聞くこともあった。
万人が認める美形、というわけではないけれど、背も高いし、スタイルもいいし、呪術師だからその辺では中々見ない程度には身体も鍛えられている。それからあの涼し気な目元と、鋭利な印象に反した柔らかい物腰というものは若い女性を魅了するにあまりあるだろう。

「一番最近ナンパされてたのは先週の原宿ですね」
「三人で遊びに行ったの?」
「はい。五条がどうしてもクレープ食べたいって言い出して」

ナマエの部屋に家入を招くお茶会は不定期的ではあるがそれなりの頻度で開催されていた。呪術界の男女比は圧倒的に男性が多い。そのため多少年齢が離れていても女性同士の交流は盛んだった。
ナマエは街中でナンパをされている夏油の様子を想像する。まぁ確かにあんなに目立つ男がいたら肉食系の女の子なら間違いなく声をかけると思う。

「まぁ、夏油くん色男だもんね」

ナマエがぽつんとこぼすと、家入が手を止めて盛大に顔を歪めた。何か自分はおかしなことを言っただろうか。

「ナマエさん、正気ですか?」
「え?」
「だって夏油ですよ?クズですよ?」
「あはは、すんごい言われよう」

家入があんまりにも鬼気迫る様子でいうものだから思わず笑ってしまった。まぁ、彼のことを良く知らない女の子たちには見せないような子供っぽい一面があることも、同じ寮に暮らしているのだから多少は知っている。

「かっこいいじゃない。夏油くん」
「センパイ、ああいうのが好みなんですか?」
「そういうわけじゃないけど」

多少言い訳をしてみたが、好みか好みじゃないかで言えば結構、かなり、どストレートに好みだ。街中で声をかける女の子たちにはまったく敬服する。自分じゃ怖くてできそうにない。もっとも、彼は年上なんて好みはないかもしれないが。

「……私、これ絶対言いたくなかったんですけど、夏油の好みって年上ですよ」

家入が苦虫でも噛み潰すような顔でそう言って、頭の中を読まれでもしたのかと心臓が跳ねた。いや、年上が好みだって言っても要素の一つでしかないし、具体的な年上のイメージがあるのかもしれないし、自分がそのイメージに当てはまっている可能性なんてないに決まっている。

「え、と…あ、硝子ちゃん、新しいシャドウいらない?可愛いと思って買ったんだけど色合わなくてさ…」
「え、いいんですか?」
「うん。勿体ないからもらってよ」

なんとか不自然にそうやって話題を逸らした。家入も追及するつもりは元々なかったのか、新しい話題にそのまま乗ってくれる。ナマエはドレッサーからアイシャドウのパレットを取り出して家入に手渡す。ナマエよりも色白の家入のほうが使いこなせる色味だろうと思う。

「センパイまじでいつも美意識高すぎですよね」
「だって、呪術師なんだし、いつ死ぬかわからないじゃない」

ナマエはそう言って少し笑った。これは彼女の持論である。危険な状況に身を置く呪術師にとって、死とは日常のごく近くに存在する。毎日毎日まるでルーティンのように繰り返される任務の中である日突然命を落とす、なんてことは充分すぎるほど考えられることである。

「死んだ時くらい、綺麗な顔でいたいもの」

思い出すのは自分の二つ年上の先輩のことだった。在学中に任務で命を落としたその先輩は、不幸中の幸いと言うべきか、遺体が五体満足の姿で見つかった。綺麗な先輩だったけれど、その日は早朝の任務だったせいでメイクをほとんどしていなかったのだ。あんなに綺麗な先輩だったのに、最後の最後でそうでもなかったみたいなふうに思われるのはなんだか悔しいな、と、現実逃避めいた思考が頭の中を過っていったのをよく覚えている。

「嫌ですよ。センパイが死んだら私も検死に同席させられるんですから」
「あはは、硝子ちゃんには迷惑かけたくないからなぁ」

医師免許の取得を目指す家入は現在も検死や解剖に同席する機会が多い。確かに先輩だろうがなんだろうが、経験のひとつとして同席させられることは目に見えている。彼女が自分の遺体を見て泣くかどうかまでは分からないが、可愛い後輩に迷惑をかけるわけにはいかない。


等級の高い呪霊の任務を言い渡される、ということは比較的日常茶飯事で、二級と目されていた呪霊が実は一級でした、なんてこともまた同じである。
隣県の廃村に任務で派遣されたナマエは、今まさに命の危険を肌で感じていた。あれは蛇だ。しかも随分と神に近い。古来から蛇というものは神聖視されがちな生き物である。二級と目されて送り込まれたけれど、これはどう考えても二級じゃ足りない。少なくとも一級、ともすれば特級とラベリングしたほうがいいかもしれない。

「ああ、最悪」

二級術師のナマエにはどう考えても荷が重い。次元が違う。補助監督が応援を要請してくれると言っていたけれど、多くの場合そういう応援は先行している呪術師の救助の目的ではなく、強力な呪いを野放しにしないように確実に祓除するために呼ばれるものだ。つまり先行している術師のやるべきことは、命がけで時間稼ぎをすることのみである。
ナマエはポケットから鏡とリップを取り出すと、キャップを開けてくるくると捻り出し、自身の唇に乗せていった。

「よし」

これで気合は充分だ。自分はここであの蛇に殺されるのだろう。そうだとしても自分以外の死傷者をここで出すわけにはいかない。獲物の打刀の柄を握りしめると、ナマエは勢いよく踏み出した。
蛇はナマエの気配に鋭く気が付き、ぬるりと身体を動かして地面を這う。全長30メートルはあろうかという大きさで、色は黒く、光の加減で金色に見える部分もあった。鋭い牙を備えていて、目は赤くギラギラと光って見える。

「ほら、こっち!」

ナマエは視界に入るようにして蛇を挑発し、そのまま廃屋の中に逃げ込む。蛇の大きさでは中まで入ってくることが出来ずに、出入口のところで長い舌をちらつかせながら廃屋の中を探ってきた。しばらくそうしていたがついに蛇が身体全体を使って廃屋に巻き付き、外側からみしみしと建物ごと壊そうと力を込めてきた。ナマエは押しつぶされる寸でのところで廃屋から脱出し、また次の廃屋へと移る。廃屋をまとめて潰さずにひとつひとつ追ってくるあたり、知能はそれほど高くないのかもしれない。繰り返して六軒目から脱出した時だった。予想外に伸びてきた蛇の尾がつま先にぶつかる。バランスを崩したナマエはスピードを失い、そのまま地面にずずずと突っ伏した。

「いっ……!」

電流のようなものが走っていた気がする。単純な打撃で感じるダメージとはレベルが違った。この蛇の呪いが推定一級以上だと判断して補助監督が応援を呼びに行き、二時間は経過しただろうと思う。しかしこれを祓うとなれば一級以上の呪術師を連れてこなければならない。スケジュールが空いているか、最悪非番の呪術師を手配したとして、ここへ到着するのはもう少しかかるのではないだろうか。

「……あと30分だけでも…」

自分が死ねば、ここから呪いがどう動くか分からない。呪いとは基本的に自分のテリトリーを動きたがらないものだけども、こうやって交戦した以上このあとイレギュラーな行動を取る可能性は充分ある。待機している補助監督は間違いなく殺されるだろうし、最悪なのは山を下りた場合だ。そうなれば人的被害はもう免れないだろう。

「せめて、さいごに……」

一撃だけでも。ナマエはありったけの呪力を練ると、それが弾丸のごとく飛んでいくイメージを浮かべながら蛇に向ける。焼け石に水だろうがなんだろうが、やれることはもうこれくらいしか残っていない。その時だった。
目の前の地面がぐわんと歪み、芋虫のようなものが蛇の頭を飲み込む。呪霊が共食いをしている。目の前の現象が理解できないまま呆然としていると、続いて人間の声が聞こえてきた。

「飲み込むなよ、後で取り込む」

人影は背後からすっと姿を現し、ナマエのそばに迷いなく跪いた。この声は。

「間に合ってよかった」
「げとう、くん……」

応援に現れたのは夏油だった。そうか、あれは共食いではなく、芋虫のような呪霊が夏油の使役する呪霊なのだろう。それをやっと理解する頃には蛇が半分ほど芋虫に飲み込まれ、もうぴくりとも動かなくなっていた。

「…ありがとう。応援に来てくれたの、夏油くんだったのね」
「はい。許可が取れたので、送迎ではなくて呪霊で飛んできました」
「そっか、だからこんなに早く…」

そこまで口にしたところでふっと身体の力が抜けてしまい、夏油がすかさずそれを支える。彼の手のひらの温度が熱く両肩から伝わってきた。流石に今回は死ぬと覚悟していて、ここで緊張の糸が途切れてしまったのだろう。
夏油は片手を離してそっとナマエの頬に手を伸ばし、親指で頬をぬぐっていく。この間と同じだ。

「顔に泥、ついてましたよ」
「あ、りがとう」

今日はそこでは終わらずに、夏油はナマエの頬を包んだまま、じっと涼し気な目元で見つめた。射貫かれるようで、けれどその矢は決して冷たいものではなかった。ナマエがなにも言えないままでいれば、先に夏油が口を開く。

「ナマエ先輩が任務でもいつも綺麗に化粧をしてる理由、硝子から聞きました。いつ死んでもいいように、覚悟のための化粧だって」
「…それは…」

べつに秘密にしているわけではないけれど、夏油にどう思われるかは少し怖かった。そんなことにリソースを割いてくだらないと思われてしまうだろうか。現にそんな覚悟を持っていたって、一級の呪霊相手じゃ手も足も出なかった。

「ナマエ先輩。これからは覚悟のためじゃなくて、私のためにしてくださいよ」

夏油がナマエの唇を親指でなぞり、その指で今度は自分の唇をなぞる。親指越しのリップが彼の唇を赤くした。どんなつもりでそんなこと言ってるの。年上をからかうものじゃないわよ。
なんて、普段なら返せる言葉もなにも出てこなくて、赤くなった彼の薄い唇を見つめることしかできなかった。


戻る






- ナノ -