06 鐘霞む


祖父に伴われて訪れた兵営は、旭川よりも随分小ぢんまりとしていた。第七師団の中枢機関を置く本隊と違って、ここはあくまで鶴見の小隊が駐屯している場所であるから当たり前のことだった。
しかも、小隊の人間すべてがここに駐屯しているわけでもないらしい。一部旭川に残り、他にも任務で兵営を出ている者も多いという。

「ミョウジ先生、ナマエ嬢、お待ちしておりました」
「おお、鶴見君、しばらくぶりだね」
「お邪魔致します」

鶴見の出迎えにナマエはひょこりと頭を下げる。門を潜れば幾人もの兵士がそれぞれの当番に従事しており、そのすべてが手を止めてミョウジ氏とナマエを見た。来客の少ないこの兵営においては当然の反応だった。
ひとつ間をおいてぴしりと姿勢を正し、そのほとんどが脱帽しているためにお辞儀の敬礼をした。

「まあ、楽に。私は君たちの上官ではないんだ」

ミョウジ氏がそう言えば、鶴見が周囲の兵士たちに敬礼を解かせる。退役した身分であるからか、ミョウジ氏はあまり兵士から畏まった態度を取られるのを好いてはいなかった。

「ミョウジ先生にご紹介しておきたい者がおりまして。鯉登少尉、前に出なさい」
「ハッ!帝国陸軍第七師団歩兵第27聯隊、鯉登音之進少尉であります!」

鶴見に言われて一歩前に出て、そこでぱんっと布地を張ったような大きく溌溂とした声で名乗ったのは浅黒い肌を持つ美青年だった。ミョウジ氏はその青年の名を聞いて「鯉登?」と繰り返す。

「まさか、鯉登平二君の倅かね」
「はい。父の友人である花沢中将閣下とはよく知った仲でいらしたと聞いております。その縁で父もお世話になったと」
「いやぁ、世話というほどのことは何もしとらんさ。そうか、もう平二君の倅が士官になっておるとは…」

陸軍と海軍の仲はあまり良くない。原因はいくつかあるが、そもそも明治維新で大日本帝国軍が作られた際に海軍はそれまでの江戸幕府における海軍伝習所から発生し、陸軍は薩摩、長州などにより生まれている。
しかも、海軍は英国を参考に築かれ、陸軍はドイツやフランスを参考に築かれた。根本的な部分からこれほど違いがあると、戦略方針に違いが生まれて対立構造を生むのは必定である。
その中でも、鯉登と花沢は同郷の縁があり、花沢とミョウジ氏には部隊内での上官と部下という関係があった。

「彼も同席させようと思うのですが、いかがでしょう」
「是非同席してくれ。平二君にもしばらく会っとらんからな、近況も聞きたいところだ」

鶴見の提案で鯉登と、その後ろに控えている軍曹の月島も同席することになった。通されたのは兵舎の渡り廊下を渡った先にある応接室だった。旭川の迎賓館に比べもちろん簡素なものではあるが、棚には地図や見たこともない兵法の書物が並べられていてナマエは思わずそれをじっと目で追う。

「ナマエ嬢、どうぞこちらに」
「あ…はい、ありがとうございます」

鯉登がいかにも上流階級の子息らしく椅子を引き、ナマエはそっと腰を下ろした。先程の話ぶりからするに、彼もナマエと同じ高級軍人の血筋なのだろう。
ミョウジ氏と鶴見の話は昨今の外国製の武器の話から始まり、国内産の新型武器の話に移っていく。鉄砲開発の大家である有坂とはミョウジ氏も面識があった。

「発展目覚ましいね。じき先の春に制式制定された新型の部隊配備も始まるだろう」
「三八式ですな。小さな変化ですが、防塵対策が加えられるのは戦場でも役に立ちましょう」

三八式歩兵銃は、現行の採用品である三十年式歩兵銃の改良を目的として開発された小銃である。三十年式歩兵銃は優秀な銃ではあったが、戦場である遼東半島の砂塵は想定の範囲を超え、日露戦争で砂塵を原因とする故障が多発した。
それを改善するため開発されたそれは昨年仮採用され、今年五月には陸軍で正式採用に至っている。

「旅順でも随分故障したと聞いたよ」
「ええ、我々の小隊でも戦闘中に何度か…あれは参りますな」

話の中心にいるのは当然のようにミョウジ氏と鶴見であった。ナマエもそれに耳を傾けながら、視線だけで外の様子を眺めたり、少しも姿勢を崩さない鯉登と月島を盗み見たりをする。
旭川と違ってこの敷地では大掛かりな訓練はできないようだが、外からは威勢のいい声が聞こえた。限られた場所でもどうにか訓練を行っているらしい。その声の中に宇佐美はいるのだろうかと思いを馳せる。

「何か、興味のあるものでもありましたか」

ミョウジ氏との会話が途切れたとき、鶴見がこちらを気遣ってそう言った。いけない。何か不躾な視線を送っているようにでも見えてしまっていただろうか。
鶴見の声で注目が集まってしまい、ナマエは慌てて口を開いた。

「えっと、その…普段は拝見する機会もないものですから…」

ナマエがうろうろとそう言えば、隣のミョウジ氏が「ははは」と笑う。

「いやぁ鶴見くん、お恥ずかしい話だがナマエは陸軍に憧れがあるのだよ」
「お、おじいさま…!」
「旭川でも兵営の中へ行ってみたいと強請られてね、女には面白いものなんてないだろうに。変わった娘なんだ」

兵士になれるわけでもないのに小娘がそんなことをしているなんてはしたないと思われてしまうかもしれない。鶴見が「好奇心が旺盛でよろしいですな」と返し、体裁だけでも妙な具合になってしまわなくて良かったと胸を撫で下ろす。
鶴見はそのナマエを見て、ひとつ提案をした。

「どうでしょう、ご興味があるのならこんなところですが、ご案内致しましょうか」
「宜しいんですか?」

ナマエは鶴見の提案にぱあっと顔を明るくさせる。旭川と随分様子の違うここに正直言って興味があった。何より宇佐美の駐屯している場所であるし、彼が普段どんなふうにして過ごしているかを知りたいとも思っていた。

「鯉登少尉、ナマエ嬢をご案内して差し上げろ」
「はっ!」

鶴見が鯉登にそう指示を出し、手を煩わせるわけには、と少し思うものの部外者の自分が一人で兵営を歩くわけにもいかないと思い直して言葉は飲み込んだ。
鯉登の補佐を務めている月島はそのまま残るようで、ナマエは鯉登と二人で応接室を出て兵営の中を歩いた。

「こちらの建物には応接室と将校と下士官の部屋があります。兵卒の生活している建物は向こう側です」
「まぁ。こちらにはどれくらいの兵士さんが出入りなさっているんです?」
「任務の状況にもよりますが、概ね30名程度です」

鯉登の丁寧な説明を受けながら差し障りのない部屋を見て回る。元々商店だった場所を利用しているということもあり、旭川の西洋風の建築とは違ってあまり陸軍らしさを感じない。
しかし所々で兵士を見かけると、この陸軍らしからぬ建物の中で彼らが生活をしているのだと実感して妙な気持ちになった。

「兵卒はここで食事をとります。本隊と違って大所帯ではありませんし炊事兵もいませんから、当番で調理をして一斉に済ませるのです」
「そうなんですか。たいてい兵営では皆さん内務班ごとでおとりになるんですもんね」
「ええ。ナマエ嬢は本当によくご存知だ」

うっかり出過ぎたことを言ってしまった、とナマエは唇を閉じる。鯉登に言葉以上の意図はなさそうだが、知ったかぶりのように見えても本意ではない。

「ざっとこんなところでしょうか。女性にはつまらない場所で申し訳ありません」
「そんなことはございません。皆さまの暮らしを拝見できる貴重な機会です。婦女子はなかなかお邪魔することなんてありませんから」

鯉登のひと通りの案内を終えて渡り廊下まで戻る。
案内の中で何人もの兵士とすれ違ったが、その中に宇佐美の姿はなかった。今日は何か外で仕事をしているのかもしれない。そう思っていると、木陰の方から男の言い争うような声が聞こえる。

「百之助、いいかげんにしろよ」
「ははぁ、宇佐美上等兵殿は気短でいらっしゃる」
「お前」

あれは宇佐美だ。一緒にいるのは袖章を見るに同じ上等兵だろうか。鯉登が「失礼」とナマエに断ってから二人に向かって声をかけるが、ナマエの耳には入っておらず、予想外に宇佐美に会うことのできた喜びからトトトっと駆け寄った。

「宇佐美様…!」
「ナマエさん、そう急がれては転んでしまわれますよ」
「あっ、すみません…私ってばお会いできたのが嬉しくって…」

ナマエに宇佐美が歩み寄り、いつも通りの声音で呼びかける。先程の上等兵との会話はもう少し粗野というか自然体というか、ナマエには見せることのない姿だった。
いけない、鯉登を置いて走ってしまったとそこで気がつきくるりと振り返ると、丁度その後ろからミョウジ氏が姿を現した。

「おや、ナマエ、宇佐美くんに会えたのかね」
「おじいさま、お話は終わったのですか?」
「このあと鶴見君と少し出てくるよ。迎えを寄越そうか」
「いえ、このくらいの距離ひとりで帰れます」

ナマエがそう返してもミョウジ氏は「しかしなぁ」と難色を示した。冬場は発作が起きやすいのだから、一人きりで行動するのはあまり良くない。
とはいえ市内の少しの移動で迎えを寄越させるのもナマエとしては申し訳なく、今日は大丈夫だ、ともう一度伝えようとすると、ミョウジ氏の後ろから鶴見が姿を現した。

「では、宇佐美上等兵に送らせてはいかがでしょう」
「おお、それなら安心だ」
「宇佐美様にご迷惑になってしまいます」
「なに、これくらいお安い御用です」

鶴見は辞退しようとするナマエを説き伏せ、そのまま宇佐美に視線をやった。宇佐美は「はい。もちろんです。ナマエさんがお嫌でなければぜひ」と返し、ナマエは慌てて「嫌だなんて、そんなことあるはずがありません!」と答えた。
宇佐美とまさか今日も一緒に過ごせるなんて思ってもみなかった。兵営で少し見かけられたらいいな、と考えていたくらいで、本当にこれは予想外だ。ナマエはちらりと宇佐美を見上げる。
ちょうど宇佐美がその視線に気づいて微笑み返し、顔はたちまち真っ赤に染まった。


二人で並んで屋敷までの道のりを歩く。話によると、宇佐美は今日まで兵営を出ていたためにナマエの訪問を知らなかったらしい。

「むさ苦しいところでしょう、兵舎というものは」
「いえ、旭川に比べると小ぢんまりはしていましたけれど、皆さんの生活を垣間見ることが出来てとても貴重な機会でした」

本隊とは違い、単純に内務班という括りでは活動せず、鶴見の指揮により変則的に任務にあたっていること、そのため寝食も内務班を軸にせず、こと食事に関しては効率化のために一斉にとること。他にもたくさん本隊との違いがあった。
こういう部隊を「少数精鋭」と呼ぶのだろう。ナマエは今日見聞きしたことを丁寧に思い出す。

「ナマエさん、旭川の本隊にも行ったことがおありになるのですか」

宇佐美の声にぎくりと体を強張らせる。そうだ、普通であれば旭川の本隊がどんなふうかだなんて婦女子が知るはずもない。ナマエは口篭ったあとに「一度だけ…」と嘘をついた。本当は一度や二度ではない。

「責めるつもりはないのです。ただ、女性がお珍しいと思っただけでして。勘違いをさせる言い方をしました」
「すみません、物見遊山のように来られてもご迷惑でしたよね」

ナマエが眉を下げる。きっと、ときに命懸けで任務にあたる彼らの兵営を婦女子が面白がっていると思われてしまった。ナマエは決して面白半分で足を運んでいるわけではないが、そう取られてしまっても仕方がない。

「そんなお顔をさせるつもりではなかったのです。何かお詫びをさせてください」
「構いませんのに」
「いえ、私が構います」

詫びなんて大袈裟だ。そもそも自分の言葉選びが足りなかったのに。
断ってもなお食い下がる宇佐美に、ナマエは少しだけ欲が湧いた。もう少し、もう少しだけ彼に近づきたい。

「でしたら……あの…その…ひとつお願いを聞いてくださいませんか」

ナマエが勇気を出してそう切り出すと、宇佐美はにこやかに「なんでしょう」と尋ねる。
本当にこんなことを言ったら変な娘だと思われてしまいやしないか。でももう少し宇佐美に近づきたい。男女なのだから対等にはなれないけれど、せめて、もう少しだけ宇佐美の自然な姿を見てみたい。
何度かはくはく唇を合わせ、それからようやく続きを口にする。

「えっと、できれば私にも、他の方にするみたいな話し方をしていただきたくって…」
「他のひとに…というと?」
「その、先ほど兵営で別の上等兵さんにしていたようなふうにです…あ、その、もちろんお話の内容までは聞えていませんでしたけれど」

宇佐美は、ナマエの前でありのままとは程遠い態度でいるのだろうということはもちろん承知していた。
初めて会った時よりも愛想笑いは少し薄くなっているようには思うが、根本的に上官を使って見合いを持ち込みわがままを通しているのだ。自然体でいろという方が無理な話である。

「まさか。ナマエさんに他の連中と同じような話し方なんて出来ません」
「そう…ですよね…すみません、わがままを言いました」

ぐっと体を固くする。呆れられてしまっただろうか。それとも図々しい女と思われたか。
ああ、こんなふうになってしまうくらいだったらわがままなんて言わなければよかった。そう後悔して言葉を撤回すれば、頭上の宇佐美が息をつくような気配がした。

「…ミョウジ先生や鶴見中尉殿がいないところだけでだからね」
「ありがとうございます…!」

宇佐美の声にナマエはぱぁっと表情を明るくした。これで少し彼に近づけるかもしれない。
そして何より、二人だけの秘密ができてしまった。自分の祖父にも、彼の上官にも秘密の二人だけの。
もたらされた秘密に、むずむずと胸の奥で草木の芽が息吹くようだった。




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