05 朧月


27聯隊の鶴見が率いる小隊が小樽で兵営としているのは、元は商店だった二階建ての建物だ。旭川の本隊とは比べようもないほど小さく不便もあったが、鶴見さえいれば宇佐美にとってはすべて瑣末なことであった。

「宇佐美、こんなところで油売ってていいのかよ」
「なに、百之助」

兵舎の裏の、二人が勝手に休憩所扱いしている木陰でぼんやりとしていると、同僚の尾形に声をかけられた。わざわざ向こうから、しかもにやにやとした笑みを浮かべられたら、内容はいずれにせよ腹立たしいものだと相場は決まっていた。

「深窓の令嬢には会いに行かなくていいのか?」
「はぁ?なんでそんなことお前に言われなくちゃ…」

そこまで口にして墓穴を掘ったことに気が付き、舌打ちをして口を閉じる。尾形は「ははぁ、やっぱりか」と笑みを深めた。
ナマエからの手紙はすべて鶴見のところへと届くようになっている。ある程度状況が変われば大っぴらに兵たちにも話をする計画ではあったが、しばらくの間は一連のお見合いについて隠匿されているのである。

「どこで?」
「ちらりとミョウジの令嬢からの手紙を見た。最近お前が鶴見中尉絡みで浮かれていたからな、お前も噛んでるんだと踏んだんだが、大当たりだったってわけだ」

正直なところ、勝算の日々高まるナマエとの付き合いについては、そろそろ公表の頃合いではないかと考えていた。だから根本的に重大な問題点はないのだが、尾形に悟られたというのが気に入らない。

「お前が女に興味があるとは驚きだ」
「僕は百之助が僕に興味持ってることの方が驚きだけどね」

嫌味ったらしい言い方が鼻につく。尾形は思いの外ナマエに興味を持ったのか、どんな女だ、何を話した、といくつも質問を投げかける。
どんな女だろうか、ナマエという女は。頭の中にいくつもナマエの表情を思い浮かべる。にこにこと穏やかに笑っていて、いつもしっかり人の話を聞こうという姿勢は好ましい。うっかり大福なんて食べづらいものを持っていってしまったとき、大きな口を開けてかぶりつく姿は可愛らしいと思った。

「可愛らしい御令嬢さ。世間知らずの、やわい絹のような」
「ほう、本当にその令嬢に興味があるんだな」

尾形から意外そうな声音で返ってきて、宇佐美は自分自身でも驚いた。ナマエとの関係は、鶴見のためであるはずなのに、これではまるでそれだけではないみたいだ。

「別に」

宇佐美はそう言ってふいっと顔を逸らす。そうだ。これは殆ど任務の一環で、鶴見中尉殿のためで、自分の意思とは関係のないことで。
ぐるぐる思考を煮詰めていると、今日はやたらと絡んでくる尾形が話を続けた。

「それにしても、お前ってのは妙な話だよな」
「まぁ…それは…確かにね…」
「相手は伯爵家の御令嬢だろ。だったらせめてそれなりの立場の人間を当てがいそうなもんだが…」

尾形の話はもっともだった。そもそも、見合いじみたことをせよと聞かされたその日に宇佐美も考えていたことだ。そのうち理由が見えてくるかと思ったが、結局いまだに宇佐美が相手である理由はわからないままだった。

「存外、その御令嬢がお前のことを好いていたりしてな」
「はぁ?ないでしょ、それは」

大体、ナマエに会ったのは見合いのようなものをしたあの日が初めてのはずだ。小樽に来る前は旭川に駐屯しており、その前はそれこそ日露戦争に出征していた。鶴見やそれ以上の将校ならまだしも、一兵卒の自分があのような身分の少女に会う機会などなかった。
これ以上百之助に構ってられるか、と宇佐美は無理矢理立ち上がり、まだ何か言いたげに宇佐美を見ている尾形を無視して歩き出したのだった。


鶴見の命令で情報収集のために根室に一週間ほど滞在した。兵士としての総合力の高い宇佐美は少数での任務の時によく重用された。総合力に加えて、人好きのする笑みが得意なところも鶴見が宇佐美に対し間諜に近い仕事を与える理由の一つだった。

「はぁ、つっかれたぁ…」

刺青の囚人がいるという情報の精査で根室での単独任務を言い渡されていたが、残念ながらハズレだった。旅行者を装って色々と話を聞いてみたけれども、結局のところ変な刺青というのはよく見るくりからもんもんの類ではないというだけで、あの直線と曲線と漢字で形成されたものではなかった。
ハズレだったということを確かめられただけで、それ以上の情報を根室で得ることはできなかった。兵営に戻ったら鶴見中尉に叱られてしまうかもしれない、と少し胸を高鳴らせながら兵営に戻ると、なんだか門兵も含めて兵たちが浮き足立っている気がした。

「谷垣、なんかあったの?」
「宇、宇佐美上等兵殿!客人がありまして…」
「客人?」

丁度通りかかった谷垣を引き止めて尋ねると、そう答えが返ってきた。この小樽の兵営は、鶴見が画策して得たものであり、決して立派といえるものではない。建物だって商店を再利用した出来合いのもので、客なんぞが来ることなんて非常に珍しい。

「客人って一体誰が…」
「ミョウジ閣下であります」

宇佐美はその名前を聞いて大きな目をさらに大きく見開いた。ミョウジ氏がこの小樽の兵営まで足を運んだことは今まで一度もない。旭川の本隊ならまだしも、ここは客人を呼ぶような場所ではないからだ。
そして妙に兵たちが浮足立つ理由に、宇佐美の頭の中でひとつの可能性が浮上した。

「ミョウジ閣下おひとりか?」
「いえっ、若い女性と…」

決定だ。若い女性なんて、一緒に来たのはナマエに決まっている。
こうして彼女に兵営まで入ることを許したということは、鶴見は宇佐美とナマエの見合いの件を兵卒に公表しても良い頃合いだと判断したということだろう。鶴見に戻りの報告をし、偶然を装って顔を出しておくべきか。
宇佐美は谷垣を適当にあしらうと兵舎の奥へ向かう。場所は聞いていないが、恐らくミョウジ氏を通しているならこの建物の中でもまだマシな応接室のような部屋だろう。
一度建物の外を通り過ぎてから玄関があるため、応接室の前を通りがてら部屋の中をちらりと確認する。やはりそこにミョウジ氏とナマエの姿があった。

「な、んで…」

部屋の中には二人のほかに、鶴見と鯉登、月島の姿があった。鯉登がなにか話をし、ナマエが口元を押さえて笑っている。
不意に、少し前に尾形と話した言葉が頭の中によぎる。だったらせめてそれなりの立場の人間を当てがいそうなもんだが。そう、例えば将来の約束されているような将校の、由緒正しい家柄の。
部屋の中には鶴見だってミョウジ氏だって月島だっているのに、まるでナマエと鯉登だけが切り取られているように感じる。

「…アホらし」

来客中なのだから、戻りの報告は後からでいいだろう。どうせ緊急の報告はない。そう自分の中で結論づけ、宇佐美は応接室に向かうのをやめた。今日は当番兵の割り当てもないはずだし、煙草でも吸って一服をしよう。煙草を手にいつもの兵舎裏に向かうと、先客が煙をくゆらせている。

「…百之助、お前今日当番兵だったろ」
「ははぁ。あいにくと報告先の月島軍曹殿が来客中でなぁ」

木の幹に背を預けて一服をしていたのは尾形だった。宇佐美は一度舌打ちをして、マッチを擦ると咥えた煙草に火を近づける。「苛々してるな」と指摘された。苛々している自覚はあった。

「宇佐美、お前まさかとは思うが、ひょっとしてあの御令嬢に惚れてるのか」
「…は?」

もくもくと煙草から煙があがる。今なんていった、この男は。自分が、ナマエを、好いている?いやまさか。
言葉をなるべく単語まで砕いて頭の中で並べる。

「お誂え向きの鯉登のボンボンが隣にいるのを見て妬いたんじゃないのか」
「適当なこと言うなよ」
「そうだろ。実際お誂え向きってのは間違いねぇんだ、一兵卒のお前より海軍少将を父に持ってる将校様の方が似合うに決まってる」

この件に関してはやけに絡んでくる。確かに今まで宇佐美が女性関係でどうのこうのと言われるようなことは一度もなかった。普段あまりこれといった弱みを見せない宇佐美で久しぶりに遊べると面白がっているのだろう。

「百之助、いいかげんにしろよ」
「ははぁ、宇佐美上等兵殿は気短でいらっしゃる」
「お前」

ぐいっと胸倉を掴んだ。これしきで怯む男ではない。何を考えているかもロクに分からない黒々した瞳を睨みつけると、その中には思いのほか必死になっている自分の顔が映った。そうだ、なんでそもそも必死にならなければいけないんだ。

「尾形、宇佐美、そこで何をーー」

背後から鯉登の声がした。宇佐美は尾形の胸倉をぱっと放し、声の方を見る。すると、渡り廊下のあたりに立っている鯉登とその後ろにナマエの姿を見とめた。恐らく鶴見の言いつけで見学して差し障りのない場所を案内でもしているのだろう。今の尾形との会話は聞かれてしまっていただろうか。

「宇佐美様…!」

ぱあっと明るい声がして、ナマエが駆け寄ってきた。いつもは可愛らしくまがれいとに結えている髪が今日はひさし髪にされていて、会うたび上流階級の少女らしい華やかな着物だったのに今は縦縞の控えめなものだった。

「ナマエさん、そう急がれては転んでしまわれますよ」
「あっ、すみません…私ってばお会いできたのが嬉しくって…」

駆け寄るナマエに歩み寄り、いつも通りの声音で呼びかける。斜め後ろで尾形が「ははっ」と宇佐美にだけわかる程度に笑った。腹立たしいが、今はこれに付き合っている暇はない。

「おや、ナマエ、宇佐美くんに会えたのかね」

丁度渡り廊下からミョウジ氏が姿を現し、その場にいるナマエ以外のすべてが姿勢をびしりと正した。ナマエだけは「おじいさま、お話は終わったのですか?」とのんびり尋ねているが、軍属でもない娘が自分の祖父に対する態度としては特別おかしなふうでもない。

「このあと鶴見君と少し出てくるよ。迎えを寄越そうか」
「いえ、このくらいの距離ひとりで帰れます」

御令嬢とはいえ、そう小さな子供でもない。しかし恐らくひとりであまり街を歩かせないのだろうミョウジ氏は「しかしなぁ」と少し難色を示す。すると、更に後ろから姿を現した鶴見が「では」とひとつ提案をした。

「宇佐美上等兵に送らせてはいかがでしょう」
「おお、それなら安心だ」

勝手に纏まって生きそうな話に、ナマエが「宇佐美様にご迷惑になってしまいます」と辞退しようとするが、鶴見が「なに、これくらいお安い御用です」と返し、宇佐美へ視線をやった。

「はい。もちろんです。ナマエさんがお嫌でなければぜひ」
「嫌だなんて、そんなことあるはずがありません!」

ナマエは頬を染めてそう返し、控えめに宇佐美を見る。渡り廊下のそばに立っているナマエを案内してきたであろう鯉登が唖然としているのを見るのは気分が良かった。
今日は移動日で他の任務もないし、何より鶴見の命令なのだからこれより優先されるものなどない。物言いたげな鯉登と尾形を置き去りに、宇佐美はミョウジ氏と鶴見に見送られてナマエを先導しながら歩き出した。

「今日いらしてたなんて知りませんでした」
「宇佐美様は聞いていらっしゃらなかったんですね。鶴見様が是非私もと言って下さってお邪魔していました」

やはりだ。鶴見はもう今日で彼女と宇佐美の関係性を明るみに出す算段だったのだ。自分の戻りの日程だってわかっていたはずだし、彼なら時間さえもある程度は読んでいただろう。つまるところ、兵営で鉢合わせるのは鶴見の計算のうちであった。

「むさ苦しいところでしょう、兵舎というものは」
「いえ、旭川に比べると小ぢんまりはしていましたけれど、皆さんの生活を垣間見ることが出来てとても貴重な機会でした」

お世辞とは思えない声音でそう言うものだから、全く物好きな御令嬢である。民草は華族の雅やかな生活に憧れるものだと思うが、こうした高貴な家柄の人間は下々の生活を珍しく思うのか。いやちょっと待て、いま彼女は「旭川と比べると」と言った。旭川の本隊を知っているのか。

「ナマエさん、旭川の本隊にも行ったことがおありになるのですか」
「え、っと…ええ、その、一度だけ…」

急に慌てた風に言い、何か責めるような言い方をしてしまっただろうかと宇佐美は自分の台詞を振り返る。一応そんなつもりのない単純な興味だが、彼女にそう取られては同じことだ。

「責めるつもりはないのです。ただ、女性がお珍しいと思っただけでして。勘違いをさせる言い方をしました」
「すみません、物見遊山のように来られてもご迷惑でしたよね」

ナマエが眉を下げて少し頼りなさげに笑った。せっかく今日まで滞りなくことを運んできたというのに、ここで御破算にするわけにはいかない。それに、どちらかと言えば興味本位で自分たちの兵営の見学に来られることよりも、彼女が来ることによって兵卒が浮足立っているのが気に入らなかった。

「そんなお顔をさせるつもりではなかったのです。何かお詫びをさせてください」
「構いませんのに」
「いえ、私が構います」

雅やかな上流階級のナマエに対して宇佐美が出来る詫びなど何もないだろうことはわかっていたけれども、こういう問題は金や物以前に気持ちの問題である。失ってしまったかもしれない彼女の気持ちを少しでも取り戻しておきたい。
食い下がる宇佐美にナマエは少し考え、「でしたら…」と小さく切り出した。

「あの…その…ひとつお願いを聞いてくださいませんか」
「なんでしょう」

ちろりとナマエが視線を地面に逃がす。対する宇佐美はじっと見つめた。御令嬢のお願いごとなんて想像もつかないけれど、少なくとも彼女は無茶を言ってくるような人柄ではない。
言いづらそうに何度か唇を合わせ、ようやくナマエが続きを口にする。

「えっと、できれば私にも、他の方にするみたいな話し方をしていただきたくって…」
「他のひとに…というと?」
「その、先ほど兵営で別の上等兵さんにしていたようなふうにです」

会話を聞かれていたのか、と思って目を見開くと、ナマエはそれには気づいていない様子で「お話の内容までは聞えていませんでしたけれど」と付け足した。要約するところによると尾形なんかにするような敬語を抜いた話し方をしてほしいということだろう。そんな言葉遣いはああいう手合いだから出来るのであって、ナマエ相手に出来るはずがない。

「まさか。ナマエさんに他の連中と同じような話し方なんて出来ません」
「そう…ですよね…すみません、わがままを言いました」

宇佐美がきっぱり言うと、ナマエは分かりやすく肩を落とした。それを見ていると、なんだか随分悪いことをしたように思えてきてしまう。
宇佐美の本来の口調はこんな畏まったものではなく、尾形たちに話すそれである。不可能なわけがないし、そんな口調ひとつ変えることを自分に対して「お願い」だとか「わがまま」だとか言われてしまうと、いじらしく思えてきてしまった。

「…ミョウジ先生や鶴見中尉殿がいないところだけでだからね」

結局宇佐美が折れてそう言えば、ナマエは表情を明るくして「ありがとうございます」と言った。話し方ひとつで、しかも彼女からすればかなり砕けたこんな口調を喜ぶだなんて、変わった娘だ。
尾形の言葉が頭の中で反復して蘇る。まさか、この僕が。そうは思うものの、無邪気なこの笑顔は宇佐美の脳裏に焼きついて離れなくなったのだった。




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