04 風光る


窓から光が差し込む。北海道の空気はやはり東京に比べていくらもすがすがしく美しい。ナマエはベッドから身体を引き起こし、大きな窓に向かった。
寝台に布団を敷くよりもこのベッドというものはつくりが柔らかく、横にならなければならない時間の長いナマエにとっては居心地が良かった。これも祖父がナマエのために異国から取り寄せた舶来品である。

「はぁ…少し寒くなってきたかしら…」

冬になると、あまり体調の思わしくない日が多くなる。窓の外では木々が色づき始めていた。
壁に掛けてある鏡を見る。真っ白い自分の顔がうつり、嫌になって逸らした。不意に、胸のあたりが圧迫されたように痛みだす。ナマエはゆっくりベッドに戻り、胸元に手を当てた。大丈夫だ、このくらいの痛みはよくあることだ。
ナマエは、治らない眼と胸の病を患っていた。

「お嬢様、おはようございます」
「おはようございます、おサヨさん」

すっと痛みを飲み込むように背筋を伸ばし、ドアの向こうから聞える声に応答する。少しで扉が開かれて、おサヨが水差しとコップを持って現れる。盆の上には薬包が乗っている。

「お加減いかがですか」
「今日は調子がいいようです。このところ発作もありません」
「何よりでござますが、充分ご用心召されませ。冬は何事も用心が肝要です」
「ふふ、肝に銘じます」

おサヨに先ほどの胸の痛みが悟られてしまわないよう顔を穏やかに笑わせた。
ナマエは朝と晩、かかりつけの医者の用意した薬を飲む。何とかというたいそう良い薬なのだそうだが、薬のことは難しくて細かな名前は忘れてしまった。白い包みを解き、さらさらと口の中へ粉薬を注ぐ。苦みに耐えながらコップの水を含み、一気に喉の奥に流し込んだ。

「はぁ、本当にいつもこのお薬は苦いです」
「良薬口に苦しですよ。良く効くから苦いのです」
「薬が甘くたっていいじゃないですか」

つんっと唇を尖らせ子供っぽいことを言えば、おサヨがくすくすと笑った。おサヨは空になった白い包みとコップを受け取り、コップの方にまた一杯分の水を注いでナマエに持たせる。それで洗い流すようにしてみても、やはり薬の苦さはなかなか拭えなかった。

「水で溶ける紙のようなものがあればいいんじゃないかしら」
「水で溶ける紙ですか?」
「そうです。それでお薬を包んで、ごくんとそのまま飲み込めればきっと苦くありません」

ナマエがこれは発明だとばかりに言えば、おサヨは少し考えたふうに「うーん」と言ったあと「異国には似たようなものがあると聞いたことがありますよ」と返した。

「本当ですか?」
「ええ、確かおぶらあと、という名前で」
「おぶらあと…」

いわく、おぶらあとなるものは薬を包んでそのまま飲み込めるものらしい。澱粉で出来ていて、日本では生産されておらず異国からの輸入品になるのだそうた。

「大旦那様に取り寄せられるか尋ねてみましょうか?」
「いっいえ!大丈夫です!これ以上おじいさまに無茶をいうわけにはいきません!」

輸入品、と聞いてナマエはおサヨの提案にぶんぶんと頭を振った。きっとミョウジ氏が孫娘のためならすぐに手配をするだろうけれども、自分が我慢すればいい話で我が儘を言うわけにはいかない。

「大旦那様もお嬢様がお可愛らしいのですよ」

おサヨはそう言い、半分ほど水の残ったコップを受け取った。
充分すぎるほど自分は恵まれている。ナマエは窓の外の紅葉を見つめた。本当であれば、自分は10歳までも生きられないだろうと言われていた。


宇佐美時重という男の存在を知ったのは、三年前旭川に越してきてしばらく経ったある日のことだった。
ナマエは体調を悪化させ、当時通っていた女学校を中退した。汽車も走り発展目覚ましい東京市の空気は日ごと悪くなっている。人も多く、騒がしいのも良くなかった。
祖父と父の話し合いにより、ナマエは東京を離れ、当時祖父の住んでいた旭川で暮らすことになった。北海道の空気は澄んでいてすがすがしいという祖父の勧めであった。小さいころからナマエの世話をしているおサヨとふたり旭川の地を訪れたナマエは、毎日屋敷から外を眺めて暮らしていた。

「今日も皆さん精を出していらっしゃいますね」
「ええ。逞しいことですね」

窓からは少しだけ第七師団の兵営が見えた。退役したとはいえ元陸軍将校であるミョウジ氏は何かと司令本部に顔を出し、現役の将校たちとこれからの日本のことについて様々な話し合いをしていた。
ナマエはそんな祖父が誇らしかった。

「私も兄さまのように男であれば、兵隊さんになっていたんでしょうか」
「そうかもしれませんね。若旦那様も新任少尉様になられましたし、お嬢様も立派な将校様になられたに違いありません」

ナマエの兄は、この年新任の陸軍少尉として第一師団に着任した。士官学校の成績は主席だった。ナマエと違って身体も強く大きく、誰から見ても立派な軍人と言えるような素養が備わっていた。

「兵隊さんってどんな暮らしをなさっているのでしょう」
「さぁ、どうでしょう。私も弟がおりますが、徴兵前に別れたきりですので、どんな暮らしをしていたのかは聞いたことがありませんで」

おサヨの言葉に「そうですか」と相槌を打つ。兄さまはどんな風に暮らしているのだろう。自分とは正反対の屈強な兵隊の姿は、見ていて少しも飽きることはなかった。


転機が訪れたのは、ナマエの体調が落ち着いた二カ月後のことだった。北海道の風土がナマエの身体と相性が良かったのか、東京に暮らしていた時とは目に見えて体調が良くなった。

「あ、あの…おじいさま、実はお願いごとがあって…」

居間で新聞を広げる祖父に意を決して言った。あまり自分を主張しない控えめな孫娘が一体何を強請るつもりなのかとミョウジ氏は新聞をいそいそと折り畳み、ナマエの言葉を待った。

「なんだ、言ってみなさい」
「わ、私、一度でいいから兵営の中へ入ってみたいんです…」

予想だにしないナマエの願い事にミョウジ氏はぽかんと呆けたまま顔を止める。ナマエはもっとしっかり理由を説明しなければと言葉を続けた。

「えっと、その、兵隊さんがどんなふうに訓練なさっているか興味があって、私には逆立ちしても出来ないことばかりでしょうから…」
「兵営なんぞ女子供が見ても面白いものはないぞ」
「あ…そ、そうですよね…」

祖父の返答にしゅんと肩を落とした。消して茶化すつもりはないけれど、女が見学なんぞしに行くような場所ではないとはわかっている。駄目で元々で言ったことだ。今まで通り部屋からこっそり眺めるだけでもいいじゃないか。

「…申し訳ありませんでした」

ぺこりと頭を下げて居間を出ようとすると、背後から「まぁ待ちなさい」と祖父がナマエを呼び止める。

「明後日、向こうの将校連中に野暮用がある。午後には出発するから、用意をしておきなさい」
「えっ…い、いいんですか…?」
「私のそばを離れんようにな」
「はい…!」

滅多にない孫娘の我が儘を了承したミョウジ氏に連れ添って、ナマエは第七師団の司令本部に足を踏み入れる機会を得た。
当日、髪はひさし髪にきっちり結い、縦縞の淑やかな小紋を身にまとう。何度も鏡を見てきりりとした表情の練習をしてみたが、正直あまり効果はなかった。

「さてナマエ、行こうか」
「はい、おじいさま!」

祖父の半歩後ろを歩き、街を見回す。外出したことがないわけではないけれども、まだ旭川の街はナマエにとって新鮮なものだった。軍都と呼ばれるだけのことはあり、そこかしこに兵士の姿がある。
司令本部の門まで辿り着くと、門兵がぴしりとミョウジ氏に向かって敬礼をした。いくら退役しているとはいえ、何度もここへは足を運んでいるから顔を知られているようだ。

「ミョウジ閣下、お待ち申し上げておりました」
「閣下はやめんか淀川君」

しばらく歩いたところで、門兵たちとは明らかに違う軍衣を着た男がミョウジ氏の前に現れ、ぴしりと敬礼をする。その将校は淀川というらしい。ナマエは楚々と頭を下げた。

「大変失礼いたしました。…先生、そちらのお嬢さんは…」
「ああ、私の孫娘だ。どうしても兵営を見てみたいと強請られてな」
「左様でありましたか。お部屋までご案内致します」

そこからは淀川の案内で兵営を歩き、中でもとりわけ立派な造りをしている建物へ入る。道中すれ違う兵士すべてに敬礼をされながら、ナマエはこれが窓から見ていた世界なのかとひっそり感動していた。
ソファやテーブルの並べられた来客用の部屋に通され、ナマエはちらりと窓の外を眺めた。丁度兵士が訓練をしているのか、男たちの威勢のいい声が聞えてきている。
しばらくそうして待っていると、扉が開かれてひとりの男が姿を現した。ナマエたちをここまで案内した淀川という将校よりも年上で、軍衣も装飾が多いことからより階級の上の人物なのだとわかる。

「ミョウジ先生、お待たせしました」
「おお花沢、忙しいところすまんな」

その将校の名前は花沢といった。ミョウジ氏が「くん」をつけて読んでいないため、恐らくは現役時代に深く関わりがあったのではないかと思われる。
花沢はたっぷり蓄えた髭を綺麗に整え、黒々とした大きな瞳が特徴的な美丈夫だ。ミョウジ氏は淀川に説明したのと同じにナマエを花沢へと紹介し、ナマエはぺこりと頭を下げた。

「例の件はどうだね」
「いやはや、どうにも。最早開戦待ったなしでしょうな」
「第七師団は北の守りを固めろとお達しか」
「ええ、ここはあまりにロシアに近すぎます」

始まった時事の話は戦争の機運が高まっているロシアのことだった。二百年以上の昔からロシアという国は幾度となく南下政策を行っている。それはかの国が極北に位置し、冬季には多くの港湾が凍結するからだった。
四十数年前に起こったアロー戦争のどさくさに紛れて結ばれた北京条約によって外満州全土を獲得したロシアは不凍港、ウラジオストクを得る。これが南下政策をより加速させた。

「東清鉄道とシベリア鉄道の連結も間近と聞く。国力がこれ以上強まるとさらに厄介だ」
「まさに。あれが繋がれば我々の脅威になることは間違いありませんな」

ロシアとの開戦の機運が高まっていることはナマエも聞いたことがあったけれども、祖父たちの話の中身まではさっぱりだった。繰り広げられる難解な時勢の話を聞きながらそっと窓の外に目を向ける。「やぁっ!」と大きな男の声が聞えた。
外で行われている訓練の種類などナマエにはわからないことであったが、勢いよく投げ飛ばされるさまは柔道に似ていると思った。

「まぁ…すごい…」

思わず小さく声が出た。
兵の中でも随分な色白の青年がひょいっと自分よりも大きな他の兵を投げ飛ばしたのである。びっくりして色白の青年を見れば、まさか人を投げ飛ばせるような屈強な顔だちもしていなかった。どちらかと言えば役者やなんかの方が似合ってしまうような線の細い顔をした美形だった。

「ナマエ嬢、いかがなさいましたか」
「えっと、あ…ごめんなさい…」
「何か気になるものでもあったか?」

花沢に小さな声を聞かれてしまっていたようでそう尋ねられ、口ごもるとミョウジ氏がナマエの視線を辿りながら聞いた。ナマエははくはくと口を開閉させたあと、意を決して花沢に尋ねる。

「…あのお方はどなたですか?」
「どの者ですかな」
「向こうの、色の白い…とてもお強い兵隊さんです」

ナマエは細い指をすっと上げて窓の外を指さす。色白の青年はまたも自分より大きな兵士を軽々と投げ飛ばして見せた。花沢は「あの者ですか」と言いながらじっと目を凝らし、振り返って淀川に向かって言葉を投げる。

「淀川、お前のところのじゃないか」
「はい。ええっと…あれは…確か和田の中隊に所属している…」
「今すぐ確認してこい」
「ハッ!」

花沢に命じられ、淀川がぴしりと姿勢を正して部屋を出ていく。自分のために申し訳ないことをしてしまったとは思ったものの、あの男の名前を知りたいというのが本音だった。花沢とミョウジ氏がそのまま時事や軍策の話に花を咲かせ、しばらくで焦ったような軍靴の音と共に戻ってきた淀川にあの兵士が「宇佐美」という上等兵なのだと教えられた。

「宇佐美さま…」

ナマエは意味もなくその名を口にした。
それからというもの、祖父に強請って何度か第七師団の司令本部にお邪魔をさせてもらった。宇佐美を見かけることが出来た日もあったけれど、もちろん毎度そうとはいかなかった。
そしてこの翌年、日本帝国はロシアと戦争を始めた。開戦当初は北の守りを固めるために動員のかかっていなかった第七師団も、夏になると第三軍として旅順の攻略作戦に動員された。師団通りを行進していく第七師団を見送りに出たけれど、その中に宇佐美は見つけられなかった。ナマエはどうかひとりでも多くの兵士が戻ってこられるようにと祈ることしか出来なかった。


選び抜いた香油で髪を整える。薬を飲んだから胸の痛みはもう収まっていた。

「さ、お嬢様、御髪が結い終わりましたよ」
「ありがとうございます」

鏡台に向かってきりりとした顔を作ってみせる。昔よりは少しだけ上手になったかもしれない。髪はひさし髪にきっちり結い、品のいい縦縞の小紋を身に着ける。今日は祖父とともに鶴見の小隊が駐屯しているという兵営に向かう約束になっていた。

「小樽の兵営に向かわれるのは初めてですね」
「はい。なんでも昔商店だったところをお使いになっているそうです」

話によると、鶴見たちは最近になって小樽へと移動したそうだ。本隊から離れて北海道の各地に駐屯することは平時それなりにある話だというが、ミョウジ氏は細かくは語りたがらなかった。ナマエも女の身分であるし、それを聞くこともなかった。

「行って参ります」

宇佐美には会えるだろうか。会ったらどんな話をしようか。
あの日は窓の向こうで眺めるだけだった男が触れられるほどそばにいるなんて、夢のようなことだと思った。




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