15 春のあなた


1908年5月。小樽のミョウジ邸では粛々と令嬢の私室の整理が行われていた。屋敷中が依然悲しみに包まれている。
彼女は実によく慕われた令嬢であった。一族の権威をかさに着ることもなく、分け隔てなく接する姿はどの使用人も好感を持たれたし、みな自らの意思で彼女を支えようと思わせるに余りあった。
ナマエの部屋の整理を任されたのは乳母のような役割も果たしていたおサヨであった。おサヨにとってナマエは娘のような存在であったし、ナマエにとってもまた、おサヨは母のような存在であった。

「これは……」

机の引き出しの中、それらは行儀よく主を待っていた。宇佐美からナマエに宛てた手紙であった。
宇佐美がナマエと会えない間に送ってきたものがすべて丁寧に保管されている。縦長の封筒にはこの屋敷の住所とナマエの名が書かれ、ナマエが何度も何度も読み返したせいで少しくたびれていた。

「…ナマエお嬢様……」

おサヨはそれを胸に抱きしめ、ナマエの痕跡を辿るように机に触れる。もうこの部屋の主は何処にもいないのである。


今日はナマエの父がわざわざスケジュールを空けて宇佐美を待ち構えている。宇佐美は一番仕立てのいいスーツを着てミョウジ邸に向かった。
ナマエと結婚するためのまず一番初めの勝負である。もちろん簡単に決着がつくとは思っていない。緊張するには違いがないが、宇佐美は日露戦争帰りの屈強な兵士としての経験を有している。あの戦場より恐ろしいものなどありはしないと自分を奮い立たせた。

「……マジで入口が見えない…」

改めてミョウジ邸を前にすると、恐ろしい大きさである。門の前まで送ったことは何度もあるけれど、こうしてインターホンの前に立つのは初めてだ。誰かの家というよりも何かしらの公共施設と言われた方がしっくりくる。
気を取り直してインターホンを押すと、男の使用人の声で「どうぞ」と応答があり、門が自動でぐぐぐぐぐと開く。
もはやアプローチだか道路だかわからない道を歩いていけば、木々の向こうにようやく屋敷が見えてきた。

「時重さん!」

玄関のところに使用人とナマエが立っていて、ナマエは宇佐美を見とめるとタタタと軽やかに駆けだした。そんなことをしなくたって今そちらに歩いているところなのに、と口元を緩める。
あと2メートル、というところでナマエが小石に躓き、がくんと体勢を崩した。宇佐美はすかさずそばに寄り、彼女を正面から抱きとめる。懐かしい。昔もこんなことがあった。

「……お怪我は?」
「えっと、へ、平気です…どこも…」

宇佐美はわざと昔と同じ言葉をかける。図らずもナマエも同じ言葉で返した。彼女の大きな瞳と視線がかち合う。その中に映る自分は、自分でもこんな顔が出来るのかと思うほど穏やかな顔をしていた。

「お気をつけて。お怪我を召されたら一大事です」
「ありがとうございます……ふふ、昔もこんなことがありましたね」
「覚えてた?」

覚えていたのか思い出したのか、ナマエも宇佐美が口調を変えた意図を理解したようだった。二度目に彼女に会った日、あの頃は正直彼女をこんなにも愛おしく思う日が来るだなんて想像もしていなかった。

「どうぞこちらに。父がお待ち申し上げております」

ナマエに案内され、ミョウジ邸の敷居を跨いだ。彼女の祖父とは昔会ったことがあるけれど、父に会うのは初めてだ。しかも、彼らからすればどこの馬の骨ともわからない自分と「会ってみたい」だなんて、一体どんな意図があるのだろう。
博物館かなにかかと見紛うような広い廊下を進み、重厚な扉の奥の応接室に通される。家具はアンティーク調のもので統一されていて、心なしか小樽の邸宅を彷彿とさせる。

「父を呼んで参ります」

ナマエは宇佐美にソファを勧め、ミョウジ氏を呼びに一度応接室を出た。宇佐美はソファのそばに立ったままミョウジ氏とナマエを待つ。数分もしないうちに足音が近づき、小さな桐の箱を持ったミョウジ氏が姿を現した。後ろにはナマエもいる。

「初めまして、宇佐美時重と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
「今日はわざわざすまないね、座ってくれ」
「はい、失礼します」

宇佐美ははきはきとそう言ってみせ、ミョウジ氏に勧められて今度こそソファに腰かける。ナマエも隣に座り、二人でミョウジ氏と向かい合った。ミョウジは厳しい顔をしてじっと宇佐美を値踏みするように見つめる。

「君は、ナマエと交際していると聞いたよ」
「はい。ナマエさんと真剣にお付き合いをさせていただいています」
「今は出版社に勤めているんだそうだね。部署は文芸編集部だとか」

これは調べられている。ナマエが宇佐美と交際していると言った時点で、あるいは宇佐美がナマエと一緒に歩いているところを見られた時点で、娘の周りに置いておいて危険な人物ではないかどうかの身辺調査をしているだろう。一般家庭ではまずありえないが、ミョウジ家ともなれば充分考えられることだ。

「はい。現在は主に文芸作品の編集を担当しています」

宇佐美は努めて笑顔を浮かべてみせたが、果たして効力があるかは定かではない。ミョウジ氏の表情は未だ険しいままだった。

「聞けば、君はナマエと春に出逢ったばかりだそうじゃないか。真剣にとは言うがそんな短い期間で、一体娘の何が分かるというのかな」

年齢、社会人と学生、庶民と令嬢。それらの壁と同じく立ちはだかる問題だった。二人の昔を知っている人間ならいざ知らず、そうでない人間にとって、ナマエは初めて恋をした年上の男に舞い上がっている少女であり、宇佐美は女子大生と交際をする不届きな大人でしかない。こんな状況で昔のことを知らない人間に対し、真剣な気持ちというものを伝えるのは非常に難しい。宇佐美はすっと息を吸った。

「今すぐ認めていただけるとは思っていません。ですが、僕がナマエさんを思う気持ちには一点の曇りもありません」

けれど一体それが何だというのだろう。何度でも分かってもらえるまで頭を下げる。説明を求められるなら何時間でも話してやる。恋をして、100年以上離れ離れになって、14年かけてようやく見つけ出した。
ナマエが死んでしまったあの頃の、自分が命を賭したあの頃の、運命がもたらした途方もなく高い壁に比べれば、こんなものは何でもないと思える。
宇佐美が意思の固い強い瞳で見つめると、厳しい顔をしていたミョウジ氏がふっと口元を緩めた。

「すまない、意地の悪いことを聞いたね」
「え…?」

表情が柔らかくなると、途端にナマエに似て見えた。試されていたのだろうが、一体何を試されていたのかも分からず、宇佐美は短く短音だけを漏らした。

「君のことは父から…この子の祖父からよく聞いていた。とても柔術が強くて熱心で、ナマエを大切にしてくれるいい青年だとね」

ミョウジ氏のその話ぶりにわずかの違和感を覚える。宇佐美は今生でナマエの祖父に会ってさえいない。どこから宇佐美の話が出てくるというのだろう。ぐるぐると思考を巡らせる宇佐美を置き去りに、ミョウジ氏はさらに続ける。

「これを、ナマエと宇佐美君に」

そう言い、ミョウジ氏がテーブルの上に置いた桐の箱を差し出す。箱の上には何か書かれているが、墨がかすれてよく読めない。ナマエもこの箱に覚えがないのか、宇佐美と「一体これは」とでもいったふうに顔を見合わせた。

「えっと…お父様これは…?」
「開けてみなさい。見ればすぐにわかる」

ナマエは言われるがまま、桐の箱に手を伸ばす。そっとふたを上げると、中には漆塗りの文箱が収められていた。金箔と螺鈿で装飾され、一目見ただけで特別なものだと分かる。
こんな中に何が入っているのか、宝石のようなそれを開けば、中から何通もの古い手紙が出てきた。宛先は小樽のミョウジ邸。宛名はナマエだ。忘れるはずがない。あの頃宇佐美から受け取った手紙の数々だった。

「えっ…これは……!」

ナマエが声を上げてミョウジ氏を見る。ミョウジ氏はくすくすと笑った。どうして処分されてしまったと思われたこれらが残っているのか、そして父が何故ここでナマエたちにこれを見せたのか。言葉にする前にミョウジ氏が口を開く。

「ナマエが逝ってしまってから、おサヨ君が見つけたらしい。それからお爺様が大切にしまっていてね…本邸の蔵にずっと保管されていたんだ」
「お、お父様…もしかして昔のことを…」
「ああ。覚えているよ。任せきりにしたまま、会いに行けなくてすまなかったね」

ナマエは堪らないとばかりに立ち上がり、ミョウジ氏の傍に膝をついて抱きついた。まさか父が覚えているとは思わなかった。名状しがたい感情が渦になり、言葉にできないまま涙があふれる。ミョウジは娘の肩を優しく撫でた。

「宇佐美君。ここはこんな家だ。恥ずかしながら、君の出自や経歴に口を出してくる連中もいるだろう。けれど私はナマエと君の味方だ。君に娘を任せていいかい」
「はい。必ずナマエさんを守ってみせます」

心の底から湧き出る言葉だった。今度こそ自分の手で彼女を守りたい。誰の手にも渡したくない。誰にも、たとえ病にも彼女のことを傷つけさせたくない。あの時出来なかったことをナマエにしてやりたい。

「ナマエ、いい男を連れてきたな」

ミョウジ氏がナマエの髪をくしゃりと撫で、そう冗談めかして笑った。


二人でバルコニーに立つ。小樽の屋敷でないのだから見える景色は違うはずなのに、どうしてだか同じように懐かしく感じた。
よく整備された庭は隅々まで美しく、吹き抜ける風に軽やかな色を付ける。瑞々しい木々が光を透かし、半透明の影をつくる。

「まさかお父様が覚えていらしたなんて…少しも気が付きませんでした」
「ナマエに余計な負担をかけたくなかったんじゃない?君が記憶を持って生まれているとも限らないし…」
「そういうものでしょうか」

ナマエの死後、部屋を整理していたサヨが当時の手紙を見つけ、祖父に大切に保管してくれるよう進言したらしい。もちろん祖父はそれに頷き、自身の死後はずっと本邸の蔵で守られ続けていた。
ナマエの父も祖父も、どうやら記憶を有しており、祖父が今生で死の床につく直前「宇佐美時重」と出会ったときには、ナマエにこの文箱を渡すようにと言いつけたのだそうだ。

「あんなふうに泣くなんて、お恥ずかしいところを見せてしまいました…」
「何言ってるの、あれくらいなんともないよ」

両手で顔を隠してしまったけれど、耳が真っ赤になっているからどんな顔をしているのかは見なくたって分かる。宇佐美はナマエの髪を梳かすように撫でた。

「これからもっと、いろんな顔を見せて」

耳元に口を寄せてそう言えば、おずおずと両手を取り去って宇佐美を見上げる。黒くてまるい目が先ほどの涙のせいか、いつもよりも潤んで見えた。長い睫毛がまばたいて、桜色の唇がゆっくり笑う。

「……はい。時重さんもきっと私にいろんなお顔見せて下さいね」
「あんまり格好悪いところは見せたくないんだけど…」
「ふふ、時重さんはいつでもかっこいいですよ」

先ほどまで優勢に立っていたのに、簡単に形勢を逆転されてしまって、あまりの真っすぐさにこちらのほうが恥ずかしくなってきた。顔が赤くなってしまうのが自分でもわかって、きまり悪くて目を逸らす。こんなにも自分を乱せるのは、ナマエだけなのではないかとさえ思う。

「私、春が待ち遠しいです」
「…どうして?」

彼女のささやかな声がじんわり鼓膜を揺らす。さて待ち遠しいとはどういう意味だろう。脈絡のないように思えるそれに宇佐美が相槌を打つと、彼女は一度唇を擦り合わせるようにしてからそれを開いた。

「…だって、春は時重さんの季節だから」

そんなもの、宇佐美にだって同じことだった。宇佐美はナマエの肩を引き寄せ、ごく自然な動作で彼女の頬を掬いあげる。ナマエの瞼が当然のように降り、引き合うように唇が触れあった。唇は淡雪のようであり、まるで飴玉のように甘い。何度かそれを繰り返して、額と額を合わせる。ナマエの睫毛が震えた。

「初めて恋をしたのが、あなたでよかった」

吐息さえ伝わってしまいそうな距離でナマエの唇がそう動いた。たまらなくなってそれをもう一度覆い、もうどこにも行けやしないように抱きしめた。華奢な腕が背に回される。
宇佐美はナマエの腰に手をあてると、両腕に力を込めて華奢な体を抱き上げた。ナマエが小さく「きゃっ…」と声を上げるが、すぐに宇佐美の両肩に手を添えてバランスをとった。
当然ナマエからは見下ろされるような姿勢になっていて、その瞳の中に柔らかく笑う自分が映っている。自分の瞳の中にも同じように彼女のこの笑顔が映りこんでいることだろう。柔らかく甘い感覚に痺れていく。
君はいつも僕に春を連れてくる。花が笑い、小鳥が囀る。春は、君によく似ている。

「僕もだよ、ナマエ」

僕の春は、君なのだと思う。




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