12 しゃぼん玉


カフェで得た給金でサヨに髪留めをプレゼントした。シンプルで普段使いにも仕事中にも使えるものだ。プレゼントを渡した日、サヨは感無量といったふうに目尻に涙を滲ませた。
同時に、インカラマッは探しびとと再会することが出来たらしい。宇佐美の心当たりというのがまさにその男であり、何ならそれは元第七師団で、現在宇佐美と同じ出版社に勤める後輩社員なのだそうだ。
やはりあの頃のなにか不思議な縁があり、それで自分たちは繋がっている。ひょっとすると、あの頃繋がりがなかった人々もそれぞれ、何か不可思議な縁を持っているのかもしれない。本当のところは分からないけれども、そうだと思うほうが素敵だ。

「ナマエさん、こないだ街で殿方とお二人で歩いていらっしゃっるところを見かけたのだけど、お隣にいらっしゃったのはどなた?」

キャンパスの隅のベンチに腰かけておしゃべりに興じていると、不意に花枝子がそう尋ねた。男性と二人で歩いていたのなんて兄か宇佐美しかいない。しかも花枝子は兄の顔を知っているから、残る可能性はひとつである。

「えっと、その……」
「随分楽しそうにしていらっしゃったから、もう話しかけるのも悪いと思って声もかけられなかったの」
「まぁ。気を遣わせてしまって申し訳ありません」

話しかけづらいと思わせるほど夢中になってしまっていたかと思うと気恥ずかしい。ナマエは赤くなっていく頬を両手で包んだ。

「その、あの方は私の恋人なんです」
「やっぱりそうでしたのね!きっとそうに違いないと思っていましたわ!」

花枝子は初めて飛び出したナマエの恋の話に嬉々と目を輝かせる。箱入り娘であるし女子校であったし、そもそも宇佐美をずっと探していたナマエに浮いた話の類はひとつもなかった。中等部からの付き合いの花枝子が興奮するのも当然である。

「どんな方ですの?もしかしてミョウジ家でお決めになった方?普段どんなデートをされますの?」

花枝子が矢継ぎ早に尋ねる。興味津々な様子は少しも隠せていなくて、むしろ隠すつもりもないようだ。花枝子の勢いに押されるようにたじたじになりながらも、何をどこから説明すればいいものだろうかと思考を巡らせる。

「えっと、家で決めた方ではなくって、その…デートはカフェに行ったり、遊園地に連れて行ってもらったり…」
「遊園地!素敵ですわね!」

花枝子も遊園地という言葉には更に目をキラキラと輝かせた。そう言えば中等部の修学旅行の際、よその学校は有名なテーマパークに行くのだとクラスの女子生徒が情報を入手してきて、クラス揃って羨ましがった覚えがある。

「ナマエさんが楽しそうにしてらして、私も嬉しいです」

花枝子が満足げな様子で言った。確かに、逆の立場だったとしてもナマエだってこのくらい喜んだことだろう。花枝子はナマエにとって数少ない信頼のおける友人である。


無事インカラマッも探しびとと再会し、ナマエもサヨにプレゼントを買うことが出来たが、カフェカンナでのアルバイトは続いていた。とはいえインカラマッが夕方に入れる日も多くなったので、以前よりはシフトが少なくなった。
宇佐美は予定さえ合えばナマエを迎えに来るようにしていて、今日も退勤時間であった20時少し前にカフェカンナを訪れた。

「お疲れさま」
「時重さんもお疲れさまです」

裏口を出たところで待っている宇佐美のもとに、ナマエはトトトと駆け寄る。すっかり季節は夏になり、温められたアスファルトはこの時間になってもまだ熱気を持っている。
二人はどちらともなく麻布十番の駅に向かって歩き出す。ミョウジ邸から宇佐美の暮らすマンションまでは導線上にあるわけでもなんでもない。そのため彼に遠回りをさせてしまうというのはわかっていたが、少しでも一緒にいたいという気持ちが勝って、屋敷まで送るという宇佐美の申し出を断る気にはなれなかった。

「今日のバイトはどうだった?」
「今日は杉元さんのご友人だっていうご夫婦がいらしてましたよ」

剣持さんという夫婦がコーヒーを飲みに来ていたということ、それからラテアートが前よりは上手くできるようになったということ、そしてそれをインカラマッに褒められたということ。些細なことを話しながら歩き、麻布十番駅からメトロに乗って一度乗り換える。都心近くにミョウジ邸があるため、移動時間はさほど長くない。
最寄り駅で降車すると、改札を出て宇佐美がぎゅっとナマエの手を握った。ナマエもゆっくり握りかえす。

「今日キャンパスで、お友達と時重さんのお話になったんです」
「へぇ。どんな話してたの?」
「一緒に歩いているところを見かけたって言っていて…どういう関係の方かって聞かれたので恋人だってお話をしていて…」

昼間花枝子と話していたことを思い出す。彼女が自分のことのように喜んでくれると、こちらまでもっと嬉しくなった。宇佐美が「ナマエの友達もやっぱりお嬢様?」と何とはなしに尋ねる。

「はい。お嬢様って自分たちで言ってしまうのもおかしなものですけど…金子花枝子さんといって、私と同じような家の御令嬢です」
「カネコ……」

宇佐美は何かで聞き覚えがあったのか、花枝子の名字だけを復唱した。金子家ともなるとどこかしらで聞いたことくらいあってもおかしくない。

「花枝子さんは中等部からのお付き合いなんです。よく一緒に遊んでくださって…一番のお友達です」
「いいね、そういう友達」
「時重さんだって尾形さんがいらっしゃるでしょう?」
「あいつはそういうんじゃないよ」

ナマエの言葉に宇佐美が苦い顔をした。そう言いながらもきっといい友人に決まっている。そうでなければ、この前だって見合い会場のホテルまで一緒に来ていないだろうし、確認したわけではないけれど、見合いのことを教えたのも尾形だっただろうと思う。

「時重さんは、どんなお子さんでしたか?」
「僕?僕はべつに普通だよ」
「ですけど、昔も聞いたことがございませんでしたもの。ぜひ教えてください」

みちなりの児童公園に通りがかり、宇佐美がナマエの手を引いて誰もいない公園のなかに足を踏み入れた。夜の公園には子供たちのはしゃぐ声も遊具の音ももちろんひとつもなく、どこまでもひっそりとしている。
こんな小さな児童公園に足を踏み入れるのは初めてだ、と思いながらついていくと、宇佐美がブランコの前で足を止めた。

「ブランコ乗ろうよ」
「え?」
「ほら、ここに座って」

座板を申し訳程度にはたくと、宇佐美がナマエにそこへ腰かけるよう促す。ナマエがそれに従い腰を下ろし、宇佐美は隣のブランコに乗るのかと思いきや、そのままナマエの座る座板の両端に足をかけた。

「ちゃんと掴まっててよ」

そう言うや否や、宇佐美はぐんっと地面を踏み切り、その力でブランコが大きく揺れ始める。流石にブランコには乗ったことがあるが、二人乗りなんて初めてだ。夏のぬるい風が頬のそばを通り抜ける。ジェットコースターのように、とはいかないが、風を切る感覚はとても心地いい。

「ナマエ、怖くない?」
「はいっ!気持ちいいです!」

頭上から宇佐美の声が降ってきた。漕ぐたびに彼の両ひざがささやかにナマエの背にあたる。ブランコはぐんぐんと振り子運動を続け、自分では漕いだことのないくらいの高さにあっという間に上がっていく。

「もっと漕いだら一回転できるよ、試してみる?」
「えっ!あ、危ないですよ!」
「はは、冗談だよ」

ひとしきりブランコを満喫したあと、漕ぐのを止めれば振り子運動は少しずつ弱まり、そのうちに最後は宇佐美が片足を地面につけて完全に停止させた。ナマエが立ち上がると、宇佐美はまた彼女の手を引いて歩きだした。

「ブランコってあんなに速く漕げるものなんですね、びっくりしました」
「ナマエみたいなお嬢様はこんなめちゃくちゃな漕ぎ方したら大目玉でしょ?」
「そうですね、きっとブランコ禁止令が出てしまいます」

冗談めかして笑いながら夜の公園をあとにする。うっかり子どものようにはしゃいでしまった。それにしても、通りがかったとはいえ、どうして急にブランコに乗ろうだなんて思い立ったのか。ナマエの考えを見透かすようなタイミングで宇佐美が口を開く。

「…昔、地元の幼馴染と競ってブランコしてさ、僕の方がちょっと負けてて悔しくて、勢いよくひと漕ぎしてブランコから落ちたんだ」
「大丈夫だったんですか?」
「頭切って血が出たから大騒ぎだった」
「えっ!」

思いのほかひどいことになっている。見る限り残るような傷はないようだけども、それにしたってその程度で済んでよかった。ブランコを乗ろうと思い立ったのは、ナマエが宇佐美の幼少期について尋ねたからだったらしい。

「怪我してんのは僕だって言うのに、あいつの方が大泣きだからどっちが怪我してるのかわかったもんじゃなかったよ」

宇佐美がどこか懐かしむように言う。きっと新潟の地元を思い浮かべているのだろう。
それから宇佐美は今世でも幼い頃から柔道をしていたことや、実家が農家で今でも田植えや収穫の時期になれば手伝いに行くこと、それから高校時代は柔道で県大会で優勝したことなどを話した。
宇佐美の声は心地がいい。いつまでも聞いていたくなる。知らなかった昔のことを教えてくれる声だから尚更。

「お写真残ってないんですか?」
「実家にはあるけど…ヤだよ、小さい頃なんかダサいし格好悪いんだから」

せっかく現代には写真があるのだからとそう尋ねてみると、にべもなく断られてしまった。ナマエは人知れずツンっと唇を尖らせてみせて、するとしっかり見られていたようで「そんな顔してもダメだよ」と飛んでくる。

「小さい頃の時重さんなんて、きっと可愛らしいに決まってますのに…」
「好きな女の子には可愛いよりかっこいいって言われたいんだけど?」
「今はもちろんとってもかっこいいと思っていますよ?」

少し食い下がったが、残念ながら効果はないらしい。いつか見せてもらえるといいけど、と思っていると、宇佐美から「ナマエこそ小さい頃の写真見せてよ」と反撃があった。

「だ、だめです!恥ずかしくてそんなのとても…!」
「見せてくれないの?」

宇佐美がまるで捨てられた子犬のごとくきゅるるとした目で小首をかしげる。要求を突っぱねるなんて到底思わせないような雰囲気を醸し出す。

「ま、まだ…だめです!」
「まだってことは、そのうち見せてくれるんだ?」
「えっと、その……はい…」

揚げ足をとられ、まんまと丸め込まれた。こういうことは一枚も二枚も宇佐美の方が上手である。恥ずかしがっているだけで本気で嫌がっているわけではないとお見通しだから、余計にこうして強気に出るのだ。
今はまだ恥ずかしさが勝つけれど、そのうち宇佐美に見せようと思う。もちろんその時は、交換条件として彼の幼少期の写真を要求せねばなるまい。


宇佐美に見送られ、ナマエは屋敷の門を潜る。そう長くはない時間だけれど、一緒に並んで帰る時間は楽しい。にやけてしまう頬の緩みを感じながら屋敷の階段を登ると、踊り場に父の姿があることに気が付いた。

「お父様、ただいま戻りました」
「お帰り。アルバイトは順調か?」
「はい。毎日貴重な経験をさせていただいています」

ナマエは溌溂と答える。アルバイトをしなければ気が付かなかったことや知らなかったことはたくさんあった。それほど過酷な労働環境にあるわけではないが、ここまでずっと箱入りをしていたナマエには充分大冒険だった。
父は「それは良かった」と少し微笑む。存外父はアルバイトに関して寛容だった。今日のように様子を聞いてくれることもあり、社会経験を積ませることに積極的だ。その父が、少し躊躇うようにしてから口を開いた。

「…最近、このあたりを男性と歩いているのを見かけたんだが、彼は誰かな」

無意識のうちにぐっと息をのむ。間違いなく宇佐美のことだ。花枝子に聞かれた時とは比べ物にならない緊張が走った。ことは答えを間違えることが出来ない。勇作との見合いを勧められた日は宇佐美にも再会したばかりで、父に説明も言い訳も出来なかった。今は違う。今は違うけれど、正直に打ち明けてしまって良いものなのだろうか。

「その……お、お付き合いをしている男性で……宇佐美時重さんという方です」

ナマエは迷った末、本当のことを口にすることを選んだ。隠したところでその気になれば簡単に特定出来てしまう。隠し立てすれば、後ろめたい事があると思われてもおかしくない。
そんな疑いをかけられてしまうくらいなら、真正面から打ち明けて、万が一反対をされたら時間をかけて説き伏せるほうがいい。父の反応を待った。

「……そうか、今度家に連れてくるといい。私も会ってみたい」

父は少しの間のあとそう言って、子供の頃にしたようにナマエの頭をそっと撫でた。自分で勝手に選んだ相手だなんて反対をされるかもしれないと思ったくらいだったのに、真逆の反応に少し戸惑う。
彼を連れてくるなんて、その日がこんなにも早く実現するかもしれないとは思いもよらなかった。宇佐美に言うべきだろうか。それを聞いて彼はどんな反応をするだろう。それが少しだけ心配になった。




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