10 清明


意外だったのは、父がひとつも反対しないことだった。娘の成長を思えばこそ、こうして社会勉強のために働いてんみたい、というわがままも許してくれているのだろう。
ナマエは大学終わりの数日、カフェカンナで接客業に従事した。先輩の杉元は強面の見た目のわりに丁寧で優しく、右も左も分からないナマエにあれこれと指導をした。
幸いなことはいくつかあるが、ここは居酒屋やなんかのように大きな声を上げて接客しなくてもよいということもその一つだった。

「ナマエさんどう?少しは慣れた?」
「はい。インカラマッさんも杉元さんも良くしてくださいますから、とっても勉強になります」

麻布とはいえ路地に入った場所にあるせいか、客足はそれほど多くない。店内音楽もゆったりとしたジャズが流れていて、働いているスタッフとしてもあくせくと急かされる雰囲気はなかった。

「インカラマッさん、お会い出来ると良いですね」
「そうだね。まぁ…谷垣なら意地でもインカラマッのこと探しに来そうな気もするけど…」

不思議な言い回しにナマエは首を捻った。まるで杉元はインカラマッの探している男のことを知っているような言い方だ。カフェカンナ。大切な人にここでもう一度会えるようにと付けた名前だと言っていた。インカラマッがミステリアスな占い師だということも手伝って、その由来にも神秘性が付加されているような気がする。

「杉元さんも、どなたかお探しになっているんですか?」
「え?」
「あの、ごめんなさい。店名の由来をインカラマッさんからお伺いして……」

うっかり踏み込んだことを聞いてしまった。誰だってこんなパーソナルなことは不用意に聞かれたくないはずだ。ナマエが撤回しようとすると、それより先に杉元が口を開いた。

「……相棒を探してるんだ。一緒に美味いもん食って旅して、助け合ってた…そういう子」

言葉はじんわりと熱を持っていた。普段から柔らかい声音の特徴的な杉元であるが、これはまた違う種類の声だと思った。
温かくて懐かしくて、少し寂しくて恋しい。名状しがたいそれに息を詰まらせていると、今度尋ねられる立場に変わったのはナマエ自身だった。

「ナマエさんは?」
「えっ」
「君のこともインカラマッが連れてきたんだから、ここで誰かを待つのかと思ったんだけど…」

もちろん頭に浮かんだのは宇佐美の事だった。もしも数か月前にここを知っていたら、藁をもすがる思いで通っていたかもしれない。

「私はもうお会いしたんです。ずうっと探していた殿方に」
「そっか。そりゃ良かった」

杉元もインカラマッも、きっとその探し人に会えるといい。どういう間柄かは知らないけれど、きっと運命なんていうものがあるなら、縁のある人間を再び引き合わせてくれるだろうと思う。


ナマエの退勤時間の間際、カランカランと控えめにドアベルの音が鳴った。ナマエは食器を洗っている最中で、隣にいた杉元が「俺が接客出るよ」と言って店頭に出ていく。

「よぉ杉元。来ちゃったっ」
「白石おまえ、今日は奢んねぇからな」
「そんなこと言うなよぉ」

途端に店先が賑やかになった。白石という名前は聞いたことがないが、常連の誰かだろうか。漏れ聞こえる会話はそのあとも続いた。
丁度会話の境目のあたりで洗い物を終えたナマエが店頭に戻る。するとカウンターに体重をかけて立ち、杉元と話をしている坊主頭の客が目に入った。あれが白石だろう。ナマエは小さく会話の邪魔にならない程度に「いらっしゃいませ」と声をかける。

「あれ、新しいバイトの子?」
「ああ、ナマエさん。インカラマッが連れてきたんだ」
「なになに、インカラマッちゃんが連れて来たってことは訳あり?」
「いや、そうでもねぇと思うけど……」

こそこそと杉元と白石が話をした。ナマエはどうしていたらいいかもわからずにはてなマークを頭の上に飛ばす。白石が気を取り直したように「今日はビッグゲスト付きだぜ」と言って、今度は杉元も一緒に頭の上にはてなマークを飛ばした。

「はぁ?一体誰連れて来て……」
「おい、白石。いつまで待たせるつもりだ」

からんからんとドアベルが鳴り、浅黒い肌の美丈夫が姿を現した。見覚えのある姿にナマエは目を見開く。彼の方も驚いたように目をぐっと見開いた。鯉登だ。間違いない。これほどの美丈夫もほかになかなかいないだろう。

「こ、鯉登様…?」

思わず声に出してしまってからハッと口を噤んだ。鯉登に記憶がなかったら、もしあってもナマエのことを覚えていなければ大惨事である。やってしまった、と思いながら彼のほうを見れば、あんぐりと口を開けたあと「ナマエ嬢!?」と驚いた声を上げた。

「えっ、なに、鯉登ちゃんとお嬢ちゃん知り合いなの!?」
「えっと、あの、なんて言ったらいいのか……」

前世の知り合いだなんて言えるはずもない。なんと説明したらいいのか、とあたふたしていると、鯉登が先に口を開いた。

「ナマエ嬢とは前世からの知り合いだ。小樽で数回お会いしている」

鯉登は馬鹿正直にそう言って、ナマエは余計に焦った。前世だなんて荒唐無稽な話をされても二人だって困るだろう。どう取りなそうかと思っていると白石があっけらかんとした様子で「あれっ、そうなのぉ?」と返した。

「ナマエ嬢、ご安心ください。我々だけでなく、こいつらも明治の前世の記憶があるんです」
「えっ、えっ…!?」

ナマエは珍しく大きな声を上げ、鯉登、白石、杉元の順番でキョロキョロと顔を見た。そこで頭の中に浮かんできたのがこのカフェの名前「カンナ」だった。アイヌ語で「再び」を意味し、ここで大切な方々にもう一度会えるようにと名付けたと言っていた。まさか彼らもそのひとりということなのだろうか。

「えっと、あの、鯉登様…杉元さんと白石さんもその…鯉登様のあの頃のお知り合いで…?」
「ええ、誠に遺憾ですが。あの頃我々はちょっとした騒動の渦中にありまして、杉元と白石も同じなのです」

あの頃のことを思い出す。なにやら鶴見も祖父も忙しそうにしていたのはよく覚えている。女のナマエがその仔細を知ることはなかったが、ずいぶんと大変な事態であることは察するに余りあった。あれに目の前の三人が関わっているのか。運命というものはまったくもって予想外のところで繋がるものである。

「ナマエさんもあの時小樽にいたのかい?」
「杉元、態度が大きいぞ。ナマエ嬢はミョウジ伯爵家のご令嬢だ」
「お前に聞いてねぇ」

がるるるる、とでも聞こえてきそうな形相で睨み合う。美形な鯉登のそういう顔も迫力があるが、美形な上に大きな傷のおまけ付きの杉元はもっと恐ろしく見えた。

「お気になさらないで下さい。家の格は私の功績ではございませんし、なにより今はそういった爵位もございませんもの」

ナマエがそう仲裁したところでようやく二人はいがみ合うのを辞めた。白石もほっと胸を撫でおろしてヤレヤレと首を振る。

「しかし…ナマエ嬢がこんなところにいらっしゃるとは。しかもその恰好、給仕をしていらっしゃるんですか」
「ええ。社会勉強で雇っていただいているんです。あ、ごめんなさい。お客様がいらしているのに私ってばご注文も伺わずに…何をお飲みになりますか?」

ナマエがふんわりとした調子で言うと、どことなく空気が和らいでいくようだった。鯉登はカフェラテを、白石はアイスココアをオーダーした。ナマエはカウンターの中で教えられた手順の通りに動き、ふたりのドリンクを用意していく。その間にも杉元、白石、鯉登の三人はあれこれと情報交換をしていた。
ナマエの私生活でも確かに家族や身の回りの人間は前世の縁が深い人間ばかりだった。けれどこうして外でも再会することが出来るのは、きっと彼らがこのカフェに引き寄せられるからではないのか。

「お待たせしました。カフェラテとココアでございます」

ナマエは大きな音が立ってしまわないように二人の前にそっと食器類を配膳する。誰かのためにこうして料理や飲み物を運ぶというのはここでアルバイトを始めてから初めて経験したことだった。それでも培われた品の良さのためか、ただそれだけの仕草でもまるで一流ホテルか何かのように思われた。

「ありがとうございます」
「いやぁ、若い女のコがいるの華があるねぇ」
「おい白石ッ!ナマエ嬢をよこしまな目で見るな!」

普段目にすることのない騒がしい様子に呆気にとられ、どう対応すればいいものかおろおろと手のひらを彷徨わせる。白石が逃げるように「あははは」とわざとらしく笑った。

「で、杉元。アシリパちゃんの手掛かりは?」
「まだ。もう一回小樽に行ってみようと思うけど」
「まァ小樽にいるとも限んないけど、やっぱ有力だよねぇ」

白石が鯉登の追求から逃れるために話題を変え、杉元が答えた。「アシリパ」という人物が二人の探している前世の縁者なのだろうか。ナマエは邪魔をしてしまわないように少し奥に引っ込み、調味料の並ぶ棚を整理する。

「月島軍曹は?」
「いや、まだだ」

今度は杉元が鯉登に尋ね、鯉登がそれに首を振る。鯉登は月島を探しているのか。ナマエは漏れ聞こえてしまう会話をなるべく聞かないように努めた。あの時代に生きていたとはいえ、自分はそもそも部外者である。
食器をあれこれ整理していると、不意に鯉登の澄んだ声がぽつんと静かな店内に反響した。

「会うのは…少し躊躇う」
「鯉登おまえ……」
「私はあの男にとって、いろんな意味で面倒な男だったからな。会ったところで困らせるのが関の山かもしれない」

どこか寂し気で、ナマエはその声音に覚えがあった。少し前までの自分自身だ。
宇佐美を探しているあいだ、会いたい気持ちと会ったとして宇佐美が覚えていなかったらという不安で押し潰されそうだったとき、同じような声音でサヨに弱音を吐いていた。痛いほどわかる。会いたいけれど、会うのを躊躇う気持ち。しかしそれを自分の中だけで決めつけてしまうのは少し勿体ないことのように思う。

「あの…お会いになって面倒かどうかをお決めになるのは……月島様ご自身じゃございませんか?」

気が付くと、思わずナマエは三人の会話に割り入ってしまっていた。三人の視線がナマエに集まり、ナマエはぎゅっと両手を握る。

「きっとお会いにならない後悔の方が強く残るように思います」
「ナマエさん……」
「すみません…差し出がましく…」

事情はさまざまなはずだ。なにもこうして誰かを探している人間がみな自分と宇佐美と同じわけではない。会わなかったほうが良かったと思う者だっているだろう。こんなこと言わなかった方が良かっただろうか、と俯くと、すかさず鯉登が声をかけた。

「本腰を入れて探してみます。ありがとうございます、ナマエ嬢」

鯉登がゆっくりと笑う。この美丈夫の笑顔はこうだっただろうか。記憶の中よりもほんの少し、精悍さが増しているような気がした。


月島の所在に関しては、実は手がかりがあることを屋敷に戻ってから思い出した。宇佐美と再会したあの日、彼は再会した知人のなかに月島の名前をあげていた。宇佐美に聞けば何かわかるかもしれないが、果たして勝手にそんなことをしてもいいものだろうか。

「……どうしよう…」

鯉登と月島の関係はよく知らないが、同じ時代に巡り合えているのならきっと一度は会ったほうがいいのではないかと思った。関係をどうこうするなんているのはそれからでも遅くない話である。
頬杖をつきながらスマホを眺めていると、ぴろんとメッセージアプリに通知が付いた。宇佐美からだ。いそいそアプリを開けば『お疲れさま。今日はバイトどうだった?』と普段と変わらないメッセージが入っている。

「お疲れさま、です…今日も、問題なく…勤務できました…と」

たぷたぷと鈍い手つきでメッセージを入力していく。同級生はもっと速く文字を打てるけれど、ナマエはあまり得意でなかった。しかも内容も堅くなってしまって、どうにも仕事か何かのやり取りのように見えてしまうのもコンプレックスだ。

『いまもう家?』
『はい。自分の部屋にいます』
『通話したい。出来そう?』

返信にどきっと心臓が跳ねた。上手く話せるだろうか。いや、でもここで断るなんて出来るわけがない。ナマエは一度大きく深呼吸をしてから、宇佐美のメッセージに『はい、大丈夫です』と返した。
すると、すぐに宇佐美からの着信がありディスプレイに彼の名前が表示される。ナマエはスマホを取り落としそうになりながら通話開始の緑色のアイコンをそっとタップした。

『もしもしナマエ?』
「も、もしもし…あの、お仕事お疲れ様です」
『ふふ、それはナマエもでしょ。お疲れさま』

スピーカー越しに聞こえる宇佐美の声はなんだかいつもと違って聞こえた。なにか用事でもあっただろうかと思ったがそう言うことでもなく、宇佐美はただ「ちょっと声が聴きたくて」と言った。その言い回しがくすぐったくてナマエはもごもごと唇を擦り合わせる。
それから宇佐美はナマエに他愛もない話を続けた。聞くほどに宇佐美の声は心地が良く、品の良さを感じる声音は昔から変わっていない。

『ナマエは?どうだった、今日のバイト』
「えっと、今日はアルバイトの先輩にラテアートを教わったんです。でも難しくってなかなか上手くできなくて」
『へぇ、ラテアートとかもやってるんだ。ああいうのって練習あるのみだし、焦らなくてもやっていくうちに出来るようになるよ』
「そうだと良いんですけれど…」

杉元に教わったラテアートは無残な結果に終わった。ハートをひとつ作るにしてもなかなかバランスよく作るのは難しい。杉元はああ見えてかなり可愛いものが好きで、凝ったラテアートもお手の物だった。

『バイト、順調そうで良かった』
「はい。良くしていただいてますし、お客様もみなさん良い方ばかりですし…」

そこまで言って少し言葉尻が萎んでいった。もちろん頭に浮かんだのは鯉登と月島のことだ。縁があったのならどうにか引き合わせてやりたい。けれどそこに自分が土足で踏み入るのは憚られた。

『……バイト先で何かあった?』
「あっ、いえ…そういうわけでは……」

いけない。無駄に気を遣わせてしまった。宇佐美は『なら良いけど…』と少し怪訝な様子だ。ナマエはこれ以上変に宇佐美に気を遣わせてしまわないように今日の大学での出来事や、今度行こうと約束している植物園の話を広げた。宇佐美もそれ以上は追求することなく、通話時間はナマエを気遣って三十分程度で切り上げられたのだった。




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