09 涅槃西風


仕立て屋が来るという日にも、ナマエは忙しい合間を縫って宇佐美と会う時間を作った。流石に彼女の家の近くで少しカフェに入る程度に留まったが、少しでも顔を見られただけで気持ちは弾んだ。
順風満帆とはこのことだな、と宇佐美はデスクで意気揚々と仕事にとりかかる。いつもなら締め切りギリギリになる作家の原稿も早く回収できたし、次の文芸誌の花形特集の目途もついた。
何よりナマエと改めて名前のある関係になることが出来た。彼女が終わった関係だなんて思っていると知ったときはどうなるかと思ったが、雨降って地固まるというやつだ。

「最近宇佐美主任、なんか楽しそうですね」
「え?ああ、まあね」
「彼女でも出来ました?」
「ノーコメント」
「うわ、絶対彼女できたやつじゃないですか」

隣のデスクの女性社員にそう声をかけられた。会社の人間にわかってしまうほどと言うのは自重しなくては、と思うも、楽しいのだから仕方がない。
今日はナマエと待ち合わせをしている。今月の残業時間の兼ね合いで少し早く上がらなければいけないので、迎えに行っていいかと尋ねたら二つ返事でオーケーが返ってきた。

「僕今日もう上がりだから、あとよろしく」
「はい、お疲れ様です」

デスクを整理すると立ち上がる。向かう先はもちろんナマエの待つ城咲女学院である。


会社からナマエの通っているキャンパスは別に近くもない。家との導線上にあるわけでもないし、こうして会いに来ていなければうっかりすれ違うというのも難しいだろう。生活圏も行動範囲も重なっていないのだ。
いささか、多少、ほんの少しだけ、犯罪めいた執着で所在を特定したとはいえ、そうでもしなければ未だに出逢うこと出来ていなかった。

「あ、ちょっと早かったかな」

校門前について時計を確認すると、待ち合わせの時間より少しだけ早くついてしまった。しかしどこかで時間を潰しに行くほどではないな、と校門から少し離れたところで業務用のスマホを取り出した。
メールがいくつか入っている。次のサイン会の打ち合わせらしい。内容に目を通したが、急ぎの用ではない。明日出勤して返信すれば問題ないだろうとジャケットの内ポケットにそれをしまった。
横目で校門の方を確認すると、ぽつぽつと学生が固まって出てきた。講義なりなんなりの区切りがついたのかもしれない。

「かどっちバイバーイ」
「ハイハイ気を付けてネ」

きゃっきゃとした女子学生の声に続いて、くたびれた中年の声が聞こえる。その声音に嫌と言うほど聞き覚えがあり、宇佐美は思わずギュルンッと声の方向を向いた。
作業着姿で校門のそばの簡単なゴミ拾いをしていたのは門倉だった。まさかこの男にまで会うことになるとは、と思いながら、宇佐美は興味本位でじりじりにじり寄る。

「あのぉ、すみませーん」
「ハイハイなんです…か…ッてぇ宇佐美ッ!?」
「門倉部長殿ぉ、お久しぶりでーす」

振り向いた門倉があからさまに顔を歪める。そんな反応をされては覚えているのだとすぐにわかってしまうじゃないか。思いもよらない再会に少し興奮した。しかも門倉もしっかり宇佐美のことを覚えているらしい。

「ここは女子校だぞ、用事なんかねぇだろう。不審者は通報するぞ」
「門倉部長こそ女子校で何やってるんです?覗き?」
「俺はここの用務員だっつうの!」

そんなのは見ていればわかるが、わざとそう言ってやれば、面白いくらいムキになって返ってきた。門倉はよっこいしょ、とおじさんくさく腰を上げ、今度は面倒くさそうに「はぁぁぁ」とため息をつく。

「で、何の用だ。まさかマジで不審者だってか。勘弁しろよ」
「やだな、不審者じゃありませんよ。恋人を迎えに来ているだけです」
「恋人ぉ?」

素っ頓狂な声をあげ、宇佐美をじろじろと見る。会社帰りのスーツ姿だ。さしずめなんで社会人の、しかも新卒でもなさそうな風体のお前が女子大生と付き合っているんだとでも言いたいのだろう。言いたいことが顔に出過ぎだ。その時だった。

「時重さん!」
「ナマエ、お疲れさま」

校門から姿を現したナマエが小走りで宇佐美に駆け寄る。今日はミントグリーンの爽やかな色合いのセットアップだった。
ナマエは宇佐美に駆け寄ってからそばに門倉がいることに気が付き、ぺこりと礼儀正しく会釈をした。

「こんにちは、ご苦労様です」
「ああ、いや…え、まさか宇佐美…」
「はい、そうですよ」

省略された言葉なんて考えなくても明白だった。恐らく業務上ある程度の学生の情報を知っている門倉が、ナマエをミョウジ家のご令嬢だと知らないわけがない。あんぐりと開いた口はそのまま地面に落ちるのではないかと思う。思った通りの反応にくすくす笑いがこぼれた。

「あれ、時重さん、用務員さんとお知り合いなんですか?」
「まあちょっとね。じゃあ門倉さん、僕たちこれからデートなんで」

宇佐美はナマエの腰を抱くと、くるりと駅の方へエスコートしていく。ナマエはどうして用務員と宇佐美が知り合いなのかとまだ不思議そうな顔をしていた。

「ナマエ、これから少し時間ある?」
「はい。夕飯は家で摂るようにと言われていますけれど、それまではお稽古も入っていません」
「良かった。じゃあちょっと付き合ってよ」

最寄駅から電車に乗り、揺られること十数分。都内きっての老舗甘味処の名物はあんみつだ。創業明治35年。あの時代にもこうして東京の一角に店を構えていたと思うと、何だか感慨深いものがある。

「あんみつ屋さんですか?」
「そう。和菓子いや?」
「いいえ、大好きです」

中年の女性店員の案内で店内の席に腰かけ、お品書きを眺める。きらきらと目を輝かせる様子は、月並みな表現ではあるが、見ているだけで腹がいっぱいになっていきそうだった。
お品書きを端から端まで真剣に吟味し、ナマエは「やっぱりあんみつをいただきます!」と心を決めたようだった。

「じゃあ僕は抹茶にする」
「甘いものは召し上がらないんですか?」
「ナマエが美味しそうに食べてるとそれだけでいっぱいになっちゃうからさ」

照れるだろうな、とわかっていて、わざと見つめてそう言えば、案の定ナマエは顔を真っ赤にして俯いた。やっぱり甘いものは彼女が食べているところを見ていられればそれで充分だと思う。
注文してほどなく、彼女の目の前にあんみつが運ばれてきた。身分を考えればこのくらいのものは珍しくもないだろう。それをこんなにも喜ぶ純粋さと言うものは、なかなか他の人間では見つけられない長所だと思う。

「いただきます」

しっかり綺麗に手を合わせ、スプーンで小さく掬ったあんみつをちょこんと口に運ぶ。そういえば昔大福を持って行ってしまった時はこの小さい口をなんとか大きく開けて頬張っていたっけ、とあの時代のことを思い出した。

「そういえば、私アルバイトを始めることにしたんですよ」
「バイト?なんでまた…」

ナマエが出し抜けにそんなことを言った。彼女には到底必要と思えないが、なにかあったのか。妙な話でなければいいが、と思いながら返事を待つと、ナマエは声のボリュームを下げてこっそりと続ける。

「おサヨさんに日頃の感謝の贈り物をしたくって。自分で働いたお金で用意したいんです」

内緒にしておいて下さいね。と、宇佐美からサヨへ連絡を取る方法なんてないと分かりきっているのに悪戯っぽくそう言った。新しいことにわくわくと胸が躍っていると手に取るようにわかる。

「まぁ、何事も経験だよね。どこでバイトするの?」
「麻布にあるカフェです」

まさかコンビニバイトではないだろうと思ったが、カフェというのも意外だ。もっとも、ではどんなアルバイトだったらそれらしいのか、というのは何も思い浮かばなかったけれど。
少なくとも、彼女が自分で探してきたものなのだろう。なにか家の伝手となればもっと人前に出ないような事務の手伝いやらなにやらを紹介されるはずである。

「バイトしてるとこ、見に行っていい?」
「だ、だめです…まだ慣れていませんし…緊張して失敗してしまうかもしれません…」
「ふぅん。そのうち見に行くよ」
「えっ、いじわるなことおっしゃらないでくださいっ」

緊張しながら給仕に励むナマエなんて見たいに決まっている。顔を真っ赤にしながらあたふたとしている彼女のことはそのうち説き伏せて、絶対にカフェに様子を見に行ってやろうと思う。


あんみつを平らげて店を出ると、中々にいい時間になってしまっていた。夕方と言える時間の範疇であるが、夕飯に間に合うよう言われているナマエをそうぎりぎりの時間まで引き止めるわけにはいかない。彼女を家まで送っていくと申し出て駅へ向かうと、駅前で見知った顔に出くわした。

「あれ、宇佐美主任?」
「え?ああ、どうしたのって…今日取材だっけ」
「そうです。この時間しかアポ取れなくて」

遭遇したのは隣のデスクの女性社員だった。そう言えば彼女はコラムを任されていて、このあたりで店を探しているなんて話を聞いた気がする。
時間外に職場の人間に出くわしたくはないが、出くわしてしまったものは仕方がない。彼女はそこでようやく宇佐美の後ろを歩いていたナマエに気が付いたようだった。何か先に突っ込まれる前に、と、ナマエに「同じ部署の同僚」とごく短く説明した。

「初めまして、ミョウジナマエと申します」
「いやいや、ご丁寧に…いつも宇佐美主任にはお世話になってますー」

ナマエがご丁寧にフルネームを名乗って頭を下げ、調子の良い同僚は宇佐美の面白いネタを掴んだとでも思っているに違いない。
彼女は宇佐美をちょいちょいと手招いて呼びつけ、面倒くさいと思うも大きな声で話されても余計面倒だと仕方なく応じる。

「彼女ですよね!?めちゃ美人さんじゃないすか!」
「でしょ。だからほっといて」
「いやいやいや、あの宇佐美主任に彼女が出来たとか咽び泣く女子社員が何人出ることやらですよ!」
「知らないよ。勝手に咽び泣いといて」

自慢じゃないが、会社を含む仕事関係で好意を寄せられるということはなくもない。もちろんナマエという存在がある以上誰ともどうともなったことはないが、それが返って宇佐美を特別な存在のように思わせている節があった。
宇佐美はもう良いだろうとナマエを振り返り、すると困ったように眉を下げるナマエと目が合った。そりゃあこんな状況で放っておかれたらそうもなるだろう。同僚には「僕もう行くから」と断り、ナマエのもとへ急ぐ。

「ナマエ、お待たせ」
「いえ、お話はもうよろしいんですか?」
「いいの。大したこと話してるわけじゃないんだから」

宇佐美はナマエの腰を抱き、ナマエは律儀に同僚にぺこりと会釈をしていた。同僚はにやにやと生温かい笑みを浮かべながら手を振っている。

「ごめんね、変な邪魔入って」
「平気です。こんなところでお会いするなんて偶然でしたね」
「あー、まぁね。なんかそういえばこの辺りの店に取材に来るとは聞いてたんだよ。出くわすのは誤算だったけど」

面倒だが時間まで聞いておけば良かった。お陰で大切なナマエとの時間に水を差された。全くもって遺憾である。これ以上ナマエとの時間を邪魔されてたまるか、とナマエの名前を呼んだが、ナマエは黙ったまま何も返してこない。聞こえてなかったかと覗き込むと、ナマエの口がもの言いたげにきゅっと動くのが見えた。

「あ、えっと…その…」
「どうかした?」
「あの…う、羨ましくって…」

気まずそうに視線を逸らす。羨ましいとは何がだろうか。さっぱり思い当たらず逡巡していると、ナマエが続けて口を開く。

「大人の女性になれたら…時重さんに近づけるのかなって…すみません。羨むなんてはしたないことでした」

しゅんと眉を下げる。家柄も容姿も性格も育ちも、どちらかといえばこの世の女性の欲しがるもののほとんどを持っているように見えるが、それでも彼女には同僚が羨ましく見えたらしい。

「ナマエは可愛いね」
「えっ…!」
「僕に近づきたいと思ってそんなこと考えてたんでしょ」

ずばりそう言ってぐっと顔を近づければ、面白いくらいわかりやすくナマエが狼狽えた。今の彼女に不足を感じたことは一度もないが、自分のためにこうして悩んでいると思うとたまらない。
今すぐ抱きしめてキスをしてしまいたい気持ちをどうにか堪え、宇佐美はナマエの手を握って揚々と歩き出したのだった。




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