07 花曇り


どうやってナマエを次のデートに誘うか。それが目下の課題である。デートに誘う頻度だとかはさほど問題ではない。一番の問題はいずれ対峙しなければならなくなるミョウジ家という存在である。
あの頃と違い、鶴見という後ろ盾は効かないし、彼女は病弱でもなんでもないのだから我が儘と称して宇佐美と見合いじみたことをすることも出来ないだろう。
もっとも、あれだって彼女の先が短いことを憐れんだミョウジ氏の采配であって、実際に宇佐美と籍を入れるなんて話に発展していたらもちろん許しなんて得られなかっただろう。
今はあの時代よりも男女の別も身分の差もマシになってはいるが、それは所詮「マシになっている」というレベルの話だった。宇佐美は自分のデスクに向かいながら頬杖をつく。

「…あんまり急に連れまわすと外聞悪いからな…」

ナマエとまた正式に恋人同士になれることを前提で話が進んでいるが、今回はそこで済ませるわけにはいかない。ナマエを一生そばに置くためにはそれなりに認められた関係になる必要がある。親から認められずに駆け落ちなんて御免だ。

「宇佐美さん、あの、この資料確認していただいてもいいですか?」
「ああ、谷垣か」

資料を差し出してきたのは同僚の谷垣だった。半年前から文芸編集部に異動になって、そのとき初めて顔をあわせた。もちろんこの男も前世の記憶を有している。
差し出された資料は谷垣の担当作家から依頼された次回作の資料であり、その担当作家の前任を宇佐美がしていたために何かと接点が多い。

「悪くはないけど…この程度だったら先生本人で準備できるんじゃない?もう少し意外性がないと先生の役に立たないと思うけど」
「……ありがとうございます、見直します」

谷垣は入社以来ずっと少女誌の編集部にいた。向こうも向こうで激務だが、文芸編集部はまた激務の質が違う。慣れない作業に躓くのも当然のことだった。
存外兄気質な宇佐美はなんだかんだと後輩社員の面倒を見ている。明治とは時代も違うし、何もすべてがすべてそのままというわけでもない。それに、社内での評判はいずれ出世に響く。ミョウジ家の会社にはどうあがいても及ばないけれど、可能な限り自分の社会的地位を高めておくのは大いに必要なことである。

「そうだ、この前ネットで見たんだけどさ、よく当たる占い師。新宿とか六本木とか麻布とか、転々としながら流しみたいに占ってるんだって。麻布のハポってひと。今回の話ホロスコープがどうのってやつでしょ。取材に行ってみてもいいんじゃない?」

以前別の取材の途中で聞いた話を思い出し、宇佐美は提案した。谷垣は慌ててポケットから小さいノートを取り出し、ちまちまとメモを取る。縦にも横にも大柄な谷垣がちまちまとノートを持っているとノートだかレシートだかよくわからない。
ありがとうございます、と礼を言って自分のデスクに戻っていく谷垣を見送り、自分のノートパソコンに向き合った。さて、馴染みの書店員にゲラを配る準備もそろそろしないといけない。


ナマエを誘うタイミングを考えあぐねたまま、宇佐美はいつものように尾形をバーに呼びつけ、その流れで尾形の住む都内の高層マンションに来ていた。この男は現在下北沢の中古レコードショップの店員である。にもかかわらず高層マンションに住んでいるのは、勝手に勇作があれこれと世話を焼いているせいだ。

「百之助んち来たの久しぶりだなぁ。相変わらず腹立つくらい良い部屋だなコンニャロ」

適当に座っとけ、と言われ、クッションの良い革張りのソファに深く腰かける。大きな窓からは都内の夜景がギラギラと存在を主張する。ミョウジ邸の現在の有り様は知らないが、赴きは違えどこれ以上のハイクラスな生活をしていることは間違いない。そんな家に自分の存在を受け入れさせるにはどこから攻めるか。

「ん」
「ありがと」

尾形の持ってきたウイスキーグラスを受け取り、ゆっくり傾ける。腹が立つくらいに美味い。無論これも「兄様がお好きかと思って」と勇作が持ってきた品であることは想像に難くない。

「お前勇作さんに扶養されすぎじゃない?」
「あっちが勝手にやりたがってんだ。まぁ好きにさせてやれよ」
「それお前がいうセリフかよ」

こうしてご相伴に預かっているのでそう偉そうに文句は言えないが。
自分の生まれも人生も不満に思ったことはほとんどないが、勇作とナマエに繋がりがあると知って、正直かなり焦った。

「百之助、結局勇作さんってナマエとどれくらいの関係なの?」
「花沢家とミョウジ家はかなり古い繋がりらしいな。あの二人も幼馴染のようなものだそうだ」
「幼馴染ねぇ……」

じっと目を細めた。個人的には幼馴染というものにいいイメージは微塵もないが、世間的には本人間の問題だけでなく家同士、親同士の複数の繋がりを持つものである。特に、彼女のような良家における家や親の繋がりと言うものは一般家庭のそれよりよっぽど強固なものだろう。

「それで、勇作さんから聞いたんだがな…」

尾形がわざと言い淀むようにして言葉を濁す。経験上、こうした語り口で始まる話でいい話だったことは一度もない。何を面倒なことを言われるのか、と構えていると、吐き出された言葉は想像以上の破壊力だった。

「今度勇作さんとあの娘、見合いするらしいぞ」
「ハァ!?」

思わずウイスキーグラスを持つ手に力が入り、尾形から「割るなよ」と釘を刺された。まさか…まさかそんなことがあるかと奥歯を噛む。いや、可能性としてなかったわけではない。ナマエに特定の相手がいることも考慮していたし、それが彼女に相応しい家柄の人間であることも予想の範疇だ。しかし相手が花沢勇作とはたちが悪い。宇佐美はあれほど高貴で高潔な男を他に知らない。

「…その件勇作さんはどう言ってたの」
「それとなく聞いてみたが、あの人は満更でもないみたいだった。親父の勧めでもあるし、あの娘も器量が良いしと言っていたな」
「クッソ、最悪だ」

これは双方に合意されると非常に厄介だろう。内定のレベルでも話が進めばあとから覆すのはかなり面倒だ。初手で妨害する必要がある。ウイスキーグラスをテーブルに置くと、膝の上に肘を乗せ、組んだ手の甲の上に額を預ける。これほど真剣になったことが未だかつてあっただろうか。

「日時と場所は?」
「来週の日曜、午前11時。場所は…このホテルのレストランだ」

尾形はそう言い、都内の老舗ホテルを表示した画面を提示する。いやに準備が良いところが気にならなくもないが、いまはそんなことに構ってやる余裕もない。場所と時間が分かればあとは作戦だけだ。

「どうする?割り込んでいって妨害するか?」
「馬鹿。そんなことしたらナマエのお父上への心象が悪くなるだろ。穏便に済ませる」
「なんだよ、面白くねぇな」

友人の一大事を面白がるな、と心の中で突っ込みをいれつつ、宇佐美はどうやって穏便に済ませるかを何パターンも思案していく。なるべく静かで迅速に、かつ絶対にミョウジ家に面倒をかけない方法でなければならない。
ナマエに事前に連絡を入れて説き伏せる、という手も考えたが、生憎時間が足りない。しかも宇佐美は今週遠方の作家の元へ打ち合わせに行かなければならなくて、ナマエに会いに行く時間を取ることが出来なかった。
スマホのメッセージや通話だけではこの手の話で部外者の自分が説き伏せるのには無理がある。こうなると、選択肢は自然と絞られてきた。

「当日、ホテルに乗り込む」
「ははぁ、やっぱり乗り込むんじゃねぇかよ」
「百之助が期待してるような乱闘はしないよ。ただ見合い前のナマエを引き止めて今日のところはとりあえず話を断るようにって説得する」

宇佐美が宣言通り穏便な案を口にすると、尾形はやっぱり面白くないとくちをへの字に曲げる。問題は予想外に勇作が強気で見合いを望んできた場合と、彼女が場の空気に押されて黙る場合だ。そうなれば非常に厄介ではあるが、後日どうにか画策するしかあるまい。


正直な話、この一週間ロクに仕事が手につかなかった。苛々してカフェインの摂取量も増えたし、いつもならしない些細なミスを二件もしてしまった。でもようやくそれも今日でひと段落つく。宇佐美は正装に身を包み、老舗ホテルのロビーラウンジでナマエを待ち伏せしていた。ここは二人が見合いをするというレストランの入口も見渡すことができる。

「で、なんで百之助までいるんだよ」
「面白そうだからに決まってるだろ」
「穏便に済ませるのはつまらないんじゃなかったの?あとから報告してやるから帰れよ」
「馬鹿を言うな、エンタメは現場で体感するのが一番だろうが」

人の一大事を体験型アトラクション扱いしてくれるなとは思いつつ、宇佐美は出入り口に神経を集中させた。
恐らく順当に考えて父親と一緒に来るだろう。そこに突撃するわけにはいかないから、どうにかどこかのタイミングでナマエが一人になったところを狙う。

「お、来たな」
「どうして百之助の方が楽しげなんだよ」
「そりゃあお前、もし結婚でもしたら俺は義理の兄になるんだからな。興味だって湧くってもんだろ?」
「させるか」

姿を現したナマエはラベンダーカラーのミモレ丈のワンピースを着ていた。サイズ感からして仕立てたものかもしれない。いや、彼女にとってそんな服は当たり前のように普段着にしているはずだ。この日のために特別に作ったとは限らない。よく似合っている。けれどあれを勇作の、自分以外の男のために選んだというのが心底腹立たしい。

「おい宇佐美、全部顔に出てるぞ」
「うるさい」

これが例えば何処の馬の骨とも知れぬ男にナンパされてるなんて話なら簡単だった。その男の鼻っ柱でもへし折ってやれば済む。ナマエ個人の範疇を超える話だから厄介なのだ。
ナマエはそのまま父親と一緒にレストランへと入っていった。花沢親子も10分ほど前にレストランへと入っていったため、しばらくすれば見合いが始まってしまう。ナマエが一人になるところを狙うというのもそう簡単ではないらしい。
さてではどうするか、と考えていると、ものの5分程度でミョウジ氏と花沢幸次郎がレストランを出てくる。あとはお若い二人でということだろうか。

「あれ、ナマエまで出てきた」

レストランの出入口から姿を現したのは二人だけではない。ナマエもトコトコと出入り口から出てくると、壁に向かって隅に寄り、なにやらスマホを操作して通話を始めた。なにか急ぎの要件でもあったのだろうか。
いずれにせよこれ以上にないチャンスだ。宇佐美は立ち上がると、素早くナマエに近づき通話を終えるのを見計らってその肩をぽんと叩く。

「はい……って、あれ、時重さん?」

どうしてここにと言わんばかりの顔である。それはそうだろう。ナマエはただでさえ丸い目をまん丸にしてスマホを右手で持って首を傾げた。

「ごめん。ナマエが見合いするって聞いたから、止めようと思ってここまで来た」
「えっ、どうしてそれを……」

どこから説明しようか。言葉が頭の中を駆け巡るよりも先に手が動いた。宇佐美はナマエの華奢な左手首を掴む。どうして言ってくれなかったんだろう。いや、言う義理などないとよくわかっている。今の宇佐美はナマエにそんなことを問いただせるような立場ではない。普段とは明らかに違う宇佐美の様子にナマエが「あ、あの…」とおずおず口を開く。

「見合いなんてしないで。断って」
「えっと、それなんですけれど…」
「僕の我が儘だってわかってる。君にこんなことを言える立場じゃない。でも婚約なんかしないでよ」

思わず握る手に力が入った。ナマエの言葉を聞いてやる余裕もなく、自分の言葉ばかりを吐き出す。だってもしも、もしも彼女の口から見合いに肯定的な言葉が出てきたらと思うと恐ろしい。

「おい、盛り上がるなら他所でやれ。ホテルマン呼ばれるぞ」
「お、尾形さんまで…あの、中に勇作さんが…」
「勇作さんのことは俺に任せておけ」

割って入った尾形がさっさと散れとばかりにふたりを手の動きでシッシと追いやる。確かにここでこれ以上騒げば間違いなくホテルマンを呼ばれるかホテルマンが警備員を呼びに行くだろう。勇作のことを放っておくのは先々のことを考えれば気がかりだったが、ここは尾形に任せるのが一番面倒が少ない。勇作はたいてい兄のいうことなら聞いてしまう側面がある。
「貸しイチだ」とちゃっかり言ってくる尾形にあとを任せ、宇佐美はそのままナマエの手を引いてホテルのロビーを足早に歩いた。

「あっあの、時重さん!」
「悪いけど、僕も流石に待ってられない」
「え…?」

宇佐美は訝しむホテルの利用客の目をすり抜け、自動ドアを潜って外に出る。ようやくこれで外野に邪魔をされる心配がなくなった。宇佐美は立ち止まると、体を反転させてナマエに向かい合う。じっと彼女を見つめた。

「ナマエが好きだ。君は昔一度終わったつもりでいるかも知れないけど、僕はずっと君が好きだった」

探していた。前世というものをはっきりと自覚したあの日からずっと。どこかにいる、いつか出会えるとずっと信じていた。14年の間に諦めそうになったことがないわけではない。だけどやっぱりいつも諦めきれなかったし、ナマエ以外に誰もいないとわかっていた。

「今更誰かに渡すもんか」

宇佐美はナマエの手を引き、その体を腕の中に閉じ込める。百年と少しぶりに感じるぬくもりは、あの頃より心なしか温かい気がする。このぬくもりが他の誰かの手に渡るのだとしたら、本当に耐えがたい。

「僕のことを、好きって言って」
「時重さん…」

ナマエの手がそっと宇佐美の背に回される。やわらかい頬が胸板の上に乗せられ、隙間を埋めるようにナマエが一歩前に出た。二人の間にあった隙間はよりいっそう狭くなり、ぴったりと体が重なる。

「私も、時重さんのことが好きです。旭川でお見かけした時からずっと変わりません。小樽で過ごした時間も、ひと時も忘れたことはございません」

宇佐美だってそうだ。ナマエの白く雪のような頬も、自分の前で赤く椿のように染まるそれも、漂う花の香りも奏でられる春の声も、なにひとつとして忘れたことがない。

「勇作さんとのお見合いも、お断りするつもりでした。だって私、時重さんがこんなに好きなんです。ほかの方なんて…誰も考えられません」

実は事前に勇作さんにはお話してお互いお断りするようにしようと決めていたんですよ。と続けられた。なんだ、そうだったのか、と少し思ったけれど、きっと知っていたとしても自分はここまで来ていただろうと思う。

「また、私を恋人にしてくださるんですか?」
「何言ってんの。もう君は僕の恋人でしょ、いままでも…この先もずっと」

今度は死んでも終わりになんかしない。ナマエが思っているよりずっと、自分の気持ちというものは苛烈で濃厚なものだろうと思う。だからもしもまた生まれ変わりがあるなら、きっと宇佐美は今日のようにナマエを抱きしめると確信していた。


────レストランの一番奥、VIPが利用すると暗黙の了解で決められているテーブルで勇作はたいそう美しい顔をヒンっと喜びに歪ませ、今にも泣き出しそうな表情のままナイフとフォークを手にした。白いテーブルクロスの向こうには後を任された尾形が我が物顔で座って食事に舌鼓を打っている。

「まさか兄様と膝を突き合わせて食事ができるとは思いませんでした!この勇作、望外の喜びでございます!」
「何言ってんですか。メシくらい良く食うでしょう。あ、そっちの肉下さい」

丁重な扱いとはほど遠いが、本人は恐悦至極とばかりに喜んでいるのだから、貸しイチ、の役割は充分に果たせたと思われた。尾形はホテルの前で行われているだろう予定調和の答え合わせに胸やけのする思いだった。




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