04 水温む


宇佐美に見送られたナマエが父の呼び出しは何事か、と急いで帰宅すると、屋敷の中に見知った人物がいることに気が付いた。久しぶりに顔を合わせるなぁと思いながらナマエはその人影にトトトと歩み寄る。

「勇作さん、いらっしゃいませ」
「ナマエさん、お邪魔しています」

ゆったりとした速度で振り返った男の背は高く、笑顔は光り輝いているのかと思うほど眩しい。彼は花沢勇作。祖父や父のそのもっと前から家族ぐるみの交友がある一家のひとり息子だ。
といっても諸般の事情によりひとり息子でありながら事実上は次男である。その腹違いの兄は花沢家に引き取られることはなかったものの、今も付き合いはあるのだという。

「今日はおひとりですか?」
「いえ、父と一緒に」
「まぁ、幸次郎おじさまもおみえなんですね」

勇作の父、花沢幸次郎氏のことは少しだけ覚えていた。旭川の兵営を何度か訪れたとき、貴賓室で迎え入れてくれたのが彼だった。当時も勇作には幼いころに東京で会ったことがあると思うけれども、その後は交流がほとんどなかったからあまり覚えていなかった。幸次郎に記憶があるか否かというのももちろん聞けるはずもない。

「ナマエ、おかえり」
「お父様。ただいま戻りました。その、ご用事というのは…」
「勇作君に会わせたかったんだ。最近会っていなかっただろう?」

なるほど、そういうことか。確かに、内部進学とはいえ高校から大学に進学するにあたり、最近はなにかと忙しくしていた。といっても勇作だって忙しい身であるし、父親が気を回すほどだろうか。もしかすると、ナマエと勇作を会わせたいというよりも自分が幸次郎と会いたかったのではないか。
父は踵を返し、幸次郎を通しているだろう応接室に向かう。

「ふふ、あんなふうに理由をつけて。きっと父は幸次郎おじさまに会いたかったんだわ」
「そうかもしれませんね。ああ、そうだ、そういえばナマエさん、春から大学生ですよね?おめでとうございます」
「ありがとうございます。といっても、まだオリエンテーリングばかりなのですけど…」
「初めはそんなものですよ」

そこまで話して、勇作にうっかり立ち話をさせていることに気が付いた。まったく気の利かないことをしてしまったと反省しながら、ナマエは勇作に庭のガーデンチェアを勧める。途中ですれ違った使用人に紅茶を淹れてくれるよう頼み、彼を庭まで案内した。

「相変わらずミョウジのお屋敷は見事ですね」
「今が一番綺麗な季節ですよ。桜も盛りで、つられて小鳥も寄ってきます。ほら、あそこ」

ナマエが指さした木の枝には小鳥が小さく鳴きながら飛来した。色とりどりの花は広大な庭を埋め尽くすような鮮やかさで咲いていく。庭の広さもあるけれど、同じ大きさの庭を有していてもミョウジ邸ほど多くの庭師を雇っているところもそうないだろう。それほど造園に力を注いでいた。
しばらくあの花は、この花は、と説明しているうちに、先ほどの使用人が紅茶をもって現れた。ナマエは勇作と向かい合ってガーデンチェアに腰かけ、ティーカップにそっと口をつける。アールグレイの華やかな香りが抜けていく。

「そういえば、先日兄とクレー射撃をしてきたんです」
「あら、噂のあにさまさんですね」
「はい。兄様は…兄は昔から射撃がお上手なのです。もう惚れ惚れするほどで…」

勇作はその腹違いの兄を大層慕っていた。ナマエに話す内容の三分の一は常にその兄の話であったし、名前も知らないのにナマエまで知り合いのような気分だった。
勇作はティーカップを片手にほわほわと今日も兄の話をする。パーティーなどで見かけるときはもっと凛とした佇まいが印象的であるが、飾らない勇作も愛嬌があって親しみやすいと思う。

「いつか勇作さんのお兄様にもご挨拶してみたいです」
「ええ、ぜひ!兄様はシャイなので初対面だと少し慣れるまでに時間がかかるかもしれませんが、気を悪くしないでくださいね」
「ふふ、そんな言い方まるで猫さんみたいですね」
「そうなのです。兄様は猫のようなお方なんです」

勇作がそう言う姿はまるで子供のようで、しかしこうしている姿はきっとそう多くの人間が見られるものではないと思うと、友人でいられることが誇らしくも思える。

「勇作さんは本当にお兄様がお好きなんですね」
「ええ、たった一人の兄弟ですから」

彼のまっすぐさには時々たじろいでしまう。清廉潔白とか、高潔とか、そういう言葉が彼以上に似合う人をナマエは知らなかった。きっと勇作が慕っているくらいなのだから、たいそう素晴らしい人に違いない。
ナマエはまだ見ぬ勇作の兄という存在に、勝手気ままに思いを馳せていた。


夕刻になり、勇作と幸次郎を見送ったナマエは自室に戻って一息をつく。スマホを確認すれば、宇佐美から『今日は突然ごめんね、ありがとう』と短くメッセージが入っていた。それを何度も読み直し、昼間のように本当に彼に再会できたのだということを噛みしめる。

「なんてお返事しようかしら…」

昔は、あの頃は、とっておきの便箋と封筒を用意して、選び抜いた言葉を丁寧に丁寧に書き綴った。宇佐美の筆致は男らしくて、すがすがしい見た目とのギャップが印象的だった。あの頃の手紙はもちろんもうどこにもなくなってしまっているけれど、いまでもつぶさに思い出すことが出来る。

「うぅん…あんまり積極的にお誘いするのはよくないのかな…でもこのままお誘いを待ってるだけなんて…」
「お誘いあそばせればよろしいじゃないですか」
「えっ!」

じたばたと言っていた独り言に相槌が打たれ、ナマエは思わず飛び上がりそうになった。サヨが白湯を持って訪れていたらしい。ナマエが「の、ノックは…」と聞けば「何度も差し上げましたが、お返事もないし、それに唸ってるようなお声がしたので失礼しましたよ」と返ってきた。全く気が付かなかった。

「お嬢様がそうもスマホと睨めっこしているなんて、珍しいですね」
「……笑わないでください」
「笑ってなどおりませんよ。可愛らしいなぁと思っているんです」

ふふふ、とサヨが笑う。乳母同然の付き合いである彼女にはいくらでも恰好の悪い姿を見せてきたものだが、だからと言って慣れるというわけではない。ナマエは白湯を受け取り、ちびりとそれを口にする。

「……おサヨさん、あのね…その…」

今日やっと、ずっと探していた彼に会ったのだと報告しようと思った。もっと溌溂と報告できると思ったのに、口に出すだけで何だかどきどきしてしまって始末が悪い。サヨは急かすことなくナマエの言葉を待つ。
すうはあと息を整え、ナマエはついに口を開いた。

「と、時重さんに、お会いしたんです」
「まぁ!本当ですか?」
「はい。時重さんが私のことを探してくださっていたんです。それで今日、大学に向かう途中で声をかけてくださって……」

そう言えば、どうやって見つけたのだろう。あの時代から日本の人口は三倍弱は増えている。探すと言っても手がかりも確証もない状態で、どうやって彼は辿り着いたのか。運命や奇跡でなければ、驚異的な集中力と執着だろう。
ナマエが少し思考を飛ばしていると、サヨがぎゅっと彼女の手を取った。表情を見るだけで彼女が自分の事のように喜んでくれているのがわかる。

「お嬢様…本当に、本当にお会いできて何よりです…!」
「ふふ…ありがとう、サヨさん」

ナマエは今日のことをもう一度思い浮かべた。あの頃よりも少し宇佐美の身長は高い気がする。けれど白い肌も逞しい躯体もあの頃のままだった。また彼の隣に立てるようになれたらどれだけ嬉しいだろう。ナマエがぐっと意気込んで言った。

「私また、時重さんに好きになって貰えるよう、頑張ります」

それを聞いてサヨがぽかんとした顔になる。その反応の意図がわからず今度はナマエが首をかしげて、二人の間に妙な間が生まれてしまった。

「えっと、その例のお方はお嬢様の恋人でいらしたんですよね?」
「ええ、そうです。もとは私の我が儘だったんですけれど、受け入れてくださって…」
「私にはその、お嬢様が、また、と仰っている意味が…わからないんですけれど…」

ナマエはきょとんとしてサヨを見た。白湯の入った湯呑を一度テーブルに置き、ナマエはサヨに宇佐美とは「君が死ぬ日まで、僕は君の恋人だ」と言われたことを話し、だからこそもう一度スタートラインに立ってあの頃のように好きになってもらえるように努力をするつもりなのだと説明をする。
サヨはその説明のあまりの真っ直ぐさに思わず呆れまじりのため息をついた。

「いやお嬢様、それってその…宇佐美様はお嬢様を今も好いていらっしゃるからお探しになっていたのでは?」
「えっ、そんな!」
「警察でもないのに手がかりもなくって誰かを探すなんて、そうそう簡単なことじゃありません。それだけの力を尽くしてくださるってことは、宇佐美様だってなにかお嬢様を特別に思って下さってるのではないかと、私は思いますよ」

サヨの言うことはいつだって、経験則からして概ね正しい。彼女は優秀で、忠実で、いつもナマエ思いの母であり、姉であるようなひとだ。他の事なら素直にきっとそうだと思えただろうが、こればっかりは少し怖気づいてしまって素直に聞けない。

「そんな私にばかり都合のいいこと…」

ナマエはあまりにも自分に都合のいい仮説に狼狽えた。前の世で宇佐美の恋人になれたというだけでも勿体ないことなのに、それ以上のことがあってもいいものか。

「お嬢様を困らせるつもりではなかったんです。すみません、お嬢様にはお嬢様のペースがあるというのに…」
「あっ、いえ、平気です!そんな考え思いもよらなくて…」

もう100年以上の恋だ。思考にバイアスをかけて間違えて、そうして関係がマイナスになってしまうかもしれないと思うとなかなかどうして上手くいかない。
けれどもしも、もしも宇佐美がそう思って自分を探してくれていたんだとしたら、こんなに嬉しいことはないだろう。

「…もしそうだったら…嬉しいな…」

ぽつんとこぼす。顔が熱くなっていくのを感じて、両手で包み込むようにして覆った。


あくる朝、スマホの画面を見ると宇佐美から『今度空いてる日教えて。一緒に出掛けよう』とメッセージが届いていた。ナマエはそれを見ながらスケジュール帳を開き、予定のない日を確認する。一番近い休みは来週の土曜日だ。
その旨を連絡すると、宇佐美から10時に駅前に集合しようと返信があった。ナマエは起きる時間を逆算しながら、どの服を着て行こうかとあれこれさっそく悩み始める。

「ナマエ、ちょっといいか」
「はい、お父様」
「書斎へ来なさい」

朝食を済ましたところで父に呼ばれ、ナマエはとことこと言われたとおりに書斎へついていった。少し普段と様子が違う気がする。何か叱られる覚えもないが、呼び出されるなんてかなり緊張した。

「そろそろお前にも話しておこうと思ってな…」

父は物々しい様子を崩さず、書斎に据えた皮張りの椅子に座ると、デスクに肘をついて一度息をつく。ナマエは反対にこれからどんな話をされるのだろうかと息をのんだ。

「お前に見合いをさせようと思ってな」
「えっ…!」
「焦っているわけではないよ、けれどもうナマエも高校を卒業して、立派に成人の仲間入りをしただろう。だから一度はそういう席も経験しておくべきだと思ってね」

切り出された話にナマエはどう答えれば良いものだろうかとはくはくとくちを動かした。父は決して話の分からない人ではない。恋人がいると言えればまだいいが、あいにく宇佐美への気持ちも関係もまだどうにも説明ができない。
前世の記憶のない父にとっては宇佐美は今日知り合っただけの男であり、そんな間柄で好きだからと押せばおそらく別の心配をされてしまう。

「えっと、あの、お父様…その、お相手の方というのは…?」

どこからどう話を進めればいいものかと考えながら、ナマエはヨロヨロと相手を確認する。なにか見合い写真でも出てくるのかと思いきや、アルバムのようなものは出てこない。代わりに飛び出たのはナマエもよく知る名前だった。

「勇作君だ」

晴天の霹靂、寝耳に水、藪から棒。その他にも物凄い勢いで頭の中を類義語が駆け巡っていく。そうか、花沢親子が今日屋敷に来たのはそのためだったのだ。




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