03 初雷


宇佐美はナマエを連れ、大学近くの少し路地に入ったカフェに連れてきた。表通りと違って少しひっそりとしていて、ここならゆっくり話せるだろう。もっと静かなところへ連れて行きたいところだが、まだ再会して間もないのにそれは流石に憚られる。
ナマエが紅茶を注文し、宇佐美はコーヒーにした。ケーキセットを勧めると、昼食をとったばかりで入りそうにないと眉尻を下げる。男だったらそれくらいいくらでも入りそうなものだが、女の子はそうもいかないらしい。食後にケーキが入らない女性を可愛いとも可愛くないとも思ったことはなかったが、ナマエのことだと思うと途端に可愛らしく思えてくるのだから現金なものだ。

「あの…時重さんは今お勤めを?」
「うん。今は出版社で働いてる」
「ずっとこちらに?」
「いや、地元は新潟だよ。大学で東京に出てきたんだ」

見合いと言われて会ったあの初めの日よりも見合いじみた会話をしているのがおかしかった。ナマエは見るからに緊張していて、突いたらそれだけでふにゃふにゃになってしまいそうだ。

「ナマエは身体、平気なの?」
「はい。あのころと違って健康です。ちょっと貧血になりやすくはあるんですけれど、それくらいで」
「そっか。良かった」

それを聞き、宇佐美はホッと胸を撫で下ろした。あの頃のように不治の病に侵されているなんてことがあったらと不安に思っていた。自分が兵士であのような場面に身を置いていたから先立ってしまうことになったが、現代で彼女がもし病気であれば確実に先立たれてしまうことだろう。

「…ずっと、探してくださっていたって…」
「うん。不思議なくらい前の世で知った顔ぶればかりでさ、絶対ナマエもいるって思ってた」

本当は、14年間で不安に思った瞬間もあったけれどそれは言わなかった。いつか会えると信じていたし、絶対に見つける執念があった。ナマエは宇佐美の言葉を聞き、ぐっと瞳を潤ませる。

「時重さんが…時重さんだけは覚えていてくださって…本当に良かったです」

その言い回しに妙な引っ掛かりを感じ、宇佐美は首を捻った。宇佐美だけ、なんて、もしかすると彼女の周りには誰も縁者はいないのか。兄がいると言っても、SNSで見かけたあの男が昔の兄と同じかどうかは確かにわからない。何せ宇佐美はあの頃ナマエの兄を見たことがなかった。

「ナマエの周りに昔の繋がりの深い人はいないの?」
「いえ、私の周りも家族や使用人のおサヨさんまでいらっしゃるんですけど、誰も昔のことは覚えていなくって…時重さんに出会えてもきっと忘れてしまっているんだろうと思っていました」

なるほど、そういうパターンもあるのか。幸か不幸か、宇佐美が今まで出会った話をしてきた当時の繋がりの人間は、みんな記憶の内容に濃淡はあれど、全くないという人間はいなかった。
ナマエのようにたった一人で記憶を守ることはとても心細かったことだろう。

「怖かったでしょ、たった一人、誰にも理解されない前世の記憶を持ってるなんて」
「…最初は。でも、だんだん時重さんと過ごした時間のことをはっきり思い出せるようになって、それからはずっと、こんな幸せな記憶が残っていて良かったと思うようになりました」

ふんわりと笑って随分なことを言ってくれる。ナマエに出会ったらいくつもどんな言葉をかけてやろうか考えていたのに、そんなものがどうでも良くなってくる。
自分がずっと彼女を探していたように、彼女もずっと自分を求めていた。いじらしいナマエをすぐにでも抱きしめたい。そしてーー。

「今は何でもなくなってしまいましたけれど…私本当に、あの頃は時重さんの恋人でいられて幸せでした。ありがとうございました」
「は?」
「え?」

ナマエがきょとんと首をかしげる。ぱちぱちとまばたきをして、大きな目の中に宇佐美の顔が映っていた。なんだそんな言い方。それじゃあまるで、関係が解消されたかのように聞こえる。いや、そう言っているとしか思えない。

「ふふ、時重さんが言って下さったんじゃないですか」

何の話だ。自分がいつ関係を解消するなんて話をしたんだ。トンカチで頭を殴られた如く頭の中がぐるぐると回転する。ナマエは責める様子や拗ねる様子もなく、本当にただ単純に事実を述べているといった風情だ。そこに感情が見えなくて余計に焦る。

「…僕が?」
「はい」
「いつ?」
「えっと、小樽のお屋敷で…あの、ワルツを踊ってくださった後に…」

まさか自分の記憶に抜けがあるのかと思ったが、そんなことはない。あのワルツを踊った日のことはよく覚えている。煙草を勧められて、煙がナマエにかかった拍子に発作を起こしたのだ。
宇佐美はあの日初めてナマエに病があることを知り、青ざめる彼女の寝顔をずっとベッドのそばで眺めていた。でもあの日にそんなことを言った覚えはない。むしろあの日から損得勘定も裏工作も何もかも抜きで正真正銘の恋人同士になったのではなかったのか。

「私が死ぬ日まで、恋人でいてくださるって。だから私、あの頃幸せでしたよ」

……言った。ナマエがあの場で関係を終わらせようとするものだから、終わらせられてたまるかと口走った言葉だ。いや、あれはそういう意味じゃない。だから君のそばにいると伝えたかったのだ。

「いやあれは───」
「あっ、ごめんなさい。家から電話みたいです」

宇佐美の言葉を遮るように古典的な着信音が鳴る。出鼻をくじかれたが、彼女の家からなら譲るほかない。「出なよ」と言えば、ナマエが「失礼します」と言って一度店を出て通話を始めた。
窓の外でスマホを耳にくっつけるナマエを見つめる。早く誤解を解かなければ。いやまて、そもそも彼女は今も自分に気があるのだろうか。自分と違って周りに誰一人前世を覚えている人間がいない環境で育ってきたのだ。新しく19年分の人生を送っていれば、新しい相手が出来てもおかしくない。しかもナマエは今生でも生粋のお嬢様である。考えたくないが、既に家に決められた相手がいる可能性さえある。

「いやいや、そんな考えすぎでしょ…」

自分に向けられている表情のすべてが未だ自分を想ってくれているようなもののように勝手に解釈していたが、果たして本当にそうだろうか。すべて当時の懐かしさから来るものだった、と説明されれば辻褄が合うような気がしてしまう。

「すみません、お話し中に」
「家の方は大丈夫だった?」
「それが…父から早く帰るよう急かされてしまって…」

戻ってきたナマエはそう言って困惑しているようである。呼び出しの内容は分からないが、この意気消沈という様子の彼女に真相を追及するよりは、近々出直したほうが得策のように思えた。もう今までと違ってどこにいるかも分からない仲じゃない。

「今日はもう帰りなよ、駅まで送る」
「せっかく待っていてくださったのに…すみません」
「いいんだよ。今更何時間かなんて一瞬なんだから」

宇佐美は恐縮するナマエにそう言い、カフェの会計を済ませるとナマエを駅まで送ることにした。
そこからは大した会話もなく、桜並木を抜けてあっという間に駅についてしまう。改札の前でナマエを見送り、宇佐美はそこでようやく大きく息をついた。


カラン、とグラスの中で氷が揺れる。宇佐美はバーカウンターに突っ伏し、駅でついたため息よりも数倍大きなそれを肺の底から吐き出した。隣でくつくつと笑っているのが空気を震えさせて伝わってくる。

「そりゃお前、幸先がいいな?」
「うるさいなぁ」

宇佐美はナマエを見送ってすぐ、電光石火のごとく尾形をバーに呼び出した。相談しようなんて考えは毛頭なかったが、とにかく話の分かる人間に話をしたかった。この話が分かる、というのは状況を理解しているという意味であり、共感してくれる人間という意味ではない。断じて。

「ははぁ。せっかく深窓の御令嬢に辿り着いたって言うのにご苦労だな」
「全くだよ…なんでこんなことになってんだか…」
「珍しい。お前が頭抱えるなんて」

尾形の話は正直聞いているようで右から左である。宇佐美はグラスの中のウイスキーを呷ったあと、バーカウンターにだらりと項垂れた。

「最悪だ。普通こうなる?」
「普段の行いが悪いんじゃないのか」
「普通わかるだろ、僕が本気で好きになった女の子なんて昔も今もナマエだけだ」
「良かったな、お前の恋人なんていう哀れな被害者が最小限に抑えられて何よりだ」
「……おい百之助、全部聞いてるからな」
「ははぁ、これは大変失礼致しました。宇佐美上等兵殿」

人の気がそぞろになっていることに漬け込んでいつも以上に言いたい放題を続ける尾形にそう言えば、にやぁっと嫌な笑いが返ってきた。誠に遺憾であり腹立たしいことこの上ないが、尾形も察している通り今ここで取り合ってやれるだけの精神力が残っていない。

「ところで宇佐美よ、お前あの御令嬢があの時代にどうなったか知ってんのか?」
「知るわけないだろ。こっちは札幌でお前に撃たれたっきりなんだ」

突然何を言い出すのか。自分を仕留めたはずの男が随分な言いようである。当時、宇佐美は札幌麦酒工場での衝突で尾形と対峙し、鶴見のもとへ報告に向かっているところを騎乗で撃ち抜かれた。
あの瞬間に絶対に尾形の仕業だと予感していたし、実際今生で再会して確認したら誤魔化すでもなくあっさり認めた。あの日宇佐美が死んでいるのはこの男も承知のことだ。

「それがなに?」
「お前が死んだあと、もしかしてその御令嬢は別の男とデキたんじゃねぇかと思っただけだ」
「はぁ?あり得ないね。ナマエは身体が弱かったって言ったろ。あの時もう病状は末期だった。少なくとも、長くはなかったはずだよ」
「わからねぇぞ。何せ証人がいない。あの御令嬢と関りのあった人間は軍じゃお前や鶴見中尉くらいだったし、周りの連中の記憶もねぇんだろう」

宇佐美の目尻がピクリと痙攣する。尾形は見ていないから分からないかもしれないが、1908年春当時のナマエは明日をも知れないような有り様だった。そもそも10歳まで生きられないと診断されていたくらいで、あれほどの状態からその後の人生を謳歌出来るほど回復したとは考えづらい。それに───。

「ナマエはあんなに僕のことが好きだったんだ。そのあとどこぞの男となんてあり得ないね」
「お前に男と女の機微がわかるとは思えんが」
「特大ブーメランだぞ、バカ之助」

どの口が言うんだ、と思ってそう言い返した。前の世において、この男ほど愛という概念と縁遠いものはいなかった。欲しがるくせに与えることを知らないのだと宇佐美は解釈しているが、真偽のほどは定かではないし、さほど興味もない。

「お見通しだぞ、お前はそう言って僕が狼狽えるところを見たいんだろう。お前の喧嘩なんか買ってやるもんか」
「心外だな、心配してるんだぜ。大事な友人の100年越しの失恋の危機なんだ」
「おっ前ぇ……」

今日尾形を呼びつけたのは完全な人選ミスだ。もっと従順な奴の方が面倒が少なかった。こんなことなら二階堂を呼べばよかった、と思うが、浩平を呼ぶと洋平がついてくるから飲食費が二倍になる。それもそれで馬鹿馬鹿しい。

「いやぁ、そう自信満々なお前が結局実際のところ焦っているんだ。ナマエ嬢ってのは大したお嬢様だな」
「気安く名前呼ぶなよ」
「器が小さいと女に嫌われますよ、宇佐美上等兵殿」

至極愉快そうにグラスを傾ける尾形にウイスキーを引っかけてやろうかと思ったけれど、このバーはお気に入りだ。騒ぎを起こして出禁にされたらたまったものじゃない。じろっと睨むにとどめ、そのうちどこかで張っ倒してやろうと心に決める。
元々生産性なんてないとわかっていた会話はそのまま堂々巡りを繰り返し、時計がてっぺんを回るころにやっと解散になった。


あくる朝、宇佐美は通勤の電車内で窓に映る自分の顔を見ながら昨日のこととこれからのことを考えていた。
あのまま酔えもせずに自宅に戻り一晩考えると、もう無性に腹が立ってきた。宇佐美はずっと恋人同士でいるつもりだったのに、ナマエはもう100年以上前に解消された関係だと認識している。なんてことだ。あんまりじゃないか。…まぁ、理不尽だという自覚は、多少あるが。
上等だ。いくらでも「ナマエが宇佐美にとって唯一の女性であった」と、態度で示してやろう。変な闘争心に火が付き、宇佐美はこれからの計画をあれこれと算段する。一度手に入れたものを手放すほど、宇佐美時重と言う男は易くはないのであった。




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