02 佐保姫


前世の記憶を持って生まれてきたことは、とても稀有なことだ。
きっと誰しもがそうとは限らないし、そもそも持っていたからといって幸せと呼べるものかは甚だ疑問である。
そんな中、生まれ持ったそれを幸いだと、彼女は幼い頃から確信をしていた。彼女の記憶の中心にいたのは、とある一人の愛おしい男であった。

「高校と違って私服で登校となると…毎日色々考えなければいけないのが不安です」
「まぁ。煩わしいのであればサヨが選んで差し上げますよ」
「そうも言っていられません。大学生にもなって人のお世話になるばかりだなんて先が思いやられます」

ナマエは製薬会社大手を経営する資産家ミョウジ家の子供として生まれた。因果とは面白いもので、家族の顔ぶれも使用人さえも巡り合わせてあの頃と同じだった。しかし昔の記憶を有している人間は誰もいなかった。サヨにだけは自分に前世の記憶があることを打ち明け、彼女は笑うことも疑うこともなく真剣にその話を聞いてくれたが、彼女にも前世の記憶があるわけではない。

「やっぱり、北海道に行ってみないと駄目かしら」
「例のお方ですか?」
「ええ。出会ったのが小樽でしたから。ですけど旅行でちょこっと足を運ぶくらいでは見つけられませんでしたし…」

ナマエは宇佐美時重を探していた。
これだけ自分に縁の深い人物に巡り会うことができているのだから、きっと宇佐美にも会えると信じていた。しかし探そうにも先月まで高校生の身分であり、誰かを頼ろうにも「前世で恋人だった男を探している」なんて言えるはずもない。捜索は難航していた。

「そのお方、お生まれは新潟でしたよね」
「はい。新発田だとおっしゃっていました。それ以外に時重さんと繋がりの深い場所も分かりませんし…」

ナマエは小さく息をつく。思い返してみれば、自分はあまりにも宇佐美のことを知らなかった。新発田から鶴見を追いかけて第七師団に入隊するために北海道までついてきた。兵士として非常に有能で、様々な特殊任務を任されていた。
知っているのはそれくらいで、一緒に過ごした時間も瞬きのように一瞬のことである。

「そうお気を落とさずに。大学でいろんな見聞を広めてからでも遅くはございませんよ」
「そう…ですね…」

サヨはそう言ったが、正直なところナマエは少し焦っていた。宇佐美と出会ったのが19歳の時だったのだ。何かタイミングを逃してしまえば、もう二度と会えないのではないかと思うようになってしまっていた。
しかも、この前世の記憶を有しているのは自分だけだ。サヨは理解してくれているが、彼女に前世の記憶があるわけではなし、見つかったとして宇佐美が昔のことを覚えているかどうかも甚だ怪しい。

「金子様の花枝子お嬢様とはご一緒ではいらっしゃらないのですよね?」
「ええ。花枝子さんとは学部が違いますから。でもキャンパスもよく使う校舎も同じなんです」
「あらそうでしたか。では休み時間などにお会いできるかもしれませんね」

サヨが気落ちするナマエを気遣って話題を変える。金子花枝子というのはナマエと同じく大企業の社長令嬢であり、ナマエとは中学からの同級生だ。
少々性格がきつい面もあるが、面倒見がよく美しい娘である。

「ナマエお嬢様、大学にもご自身で登下校なさるんですか?」
「もちろんです。せっかく自分の足で行けるんですもの」

前の世では佳人薄命の如く若くして命を落としたナマエであったが、幸いにも今はそのような重大な疾患は持っていない。幼い頃に少しだけあった持病に関しても10歳になる頃にはほとんど完治していた。現代医学に命を救われたというわけだ。

「明日はオリエンテーリングでございましたね。お戻りはお昼頃に?」
「いえ。昼食は学校でとろうと思います。夕飯には戻ります」
「承知しました。ご用意してお待ちしております」

本格的な授業が始まるまではしばらく時間がある。ゼミやサークルなど、他にも決めなければいけないこともたくさんだ。
ナマエはさっそくクローゼットの中を見回し、レモンイエローのワンピースを選ぶと明日の登校に向けた準備に取り掛かった。


大学のキャンパスと最寄り駅は、ほとんど一本道で繋がっている。そこには桜の木が植えられ、春になるとピンク色のトンネルを作り出していた。中高の校舎にも桜は植えられていたが、本数も迫力もこの並木道の方が桁違いである。
戦後に植樹されたこの桜はソメイヨシノであり、もう随分と老木に分類される木々だ。並木道の昔を知る人間によると、これでもかなり花の勢いは控えめになってきているらしい。
木々の本数を数えていると、後ろから追いかけるようにして姿を現した同級生が「ナマエさん」と呼びかける。中学からの付き合いの花枝子であった。

「ごきげんよう。今年からは別の授業ばかりになってしまうわね」
「学部が違うから仕方のない事ですね。でも、確か校舎は同じじゃないかしら?」
「そうよ。今日のお昼は一緒に食べましょう」

良家の御令嬢などが集まる学校だということもあり、中学高校と交友関係にはそれなりに苦労をした。花枝子はそんな中でもずっとそばにいて親しくしてくれていたのだ。彼女と離れ離れになってまたいちから人間関係を築いていくのはなかなかに骨だ。

「では、わたくしは先に参りますわね」
「はい。それではまた」

ひらっと手を振って先を行く花枝子に手を振りかえし、桜並木の真ん中を歩いた。
ふと枝を見れば小さくそこが揺れ、小鳥が羽ばたいたのだとわかる。右へ左へ小鳥は忙しなく飛び回り、ナマエも合わせてキョロキョロその姿を視線で追った。あれはメジロだろうか。小樽の屋敷で見たのも確かメジロだった。
その瞬間、ふっと柔らかく風が吹き、髪がふわっとさらった。

「ナマエ」

男の声がナマエを呼んだ。ひゅっと息をのむ。そこにはあれほど焦がれた宇佐美が立っていた。春だ。春が来たのだ。
ナマエは頬を緩め、桜並木の真ん中に立つ宇佐美に駆け寄った。

「時重さん…!」

宇佐美がナマエに手を伸ばす。ナマエはすぐそばに辿り着くと、その白く端正な顔をじっと見上げた。宇佐美もナマエを見下ろし、視線は中間地点で丁度交わる。

「やっと逢えたね」
「はい。ずっとずっと、お探ししておりました」
「僕も、ずっとナマエを探してた」

声を聞くだけで心臓がドキドキと高鳴る。ああ、本当に彼に会えたんだ。ゆるく弧を描く唇も、逞しい手も、大きな瞳も、少しも変わらずあの頃のままだった。
どうしよう、何から話せばいいだろう。彼が自分を覚えていてくれたことでもう胸がいっぱいで、今まで何度も考えた言葉はすべてどこかへ吹き飛んでいってしまった。

「えっと、その、どうしてここが…?」
「あー、まぁそれは色々と…色々とね」

宇佐美は珍しく少しだけ言い淀み、そう言葉を濁した。こてん、と首を傾げると、宇佐美がポケットから取り出したスマホの画面を確認し、ヒラっとそれをナマエに見せて時計のところをトントンと指で叩く。

「引き留めといてなんだけど、時間大丈夫?」
「えっ、あっ、もうあまり時間が…すみません、行かないと…」
「うん。じゃあ連絡先だけ教えて」

宇佐美にそう言われ、ナマエはトートバッグの中からスマートフォンを取り出すと急いでメッセージアプリを起動する。「そこまで急がなくていいでしょ」と宇佐美がくすくす笑った。

「えっと、どこをどうすれば…?ごめんなさい…あまり慣れてなくて…」
「ナマエらしいね。ほら、そこのマークタップして」

今もナマエより年上だろう宇佐美の方がメッセージアプリの扱いに慣れているようで、ナマエにあれこれと指示をして連絡先の登録をしていく。
あっという間に作業が終わり、新しい友達の欄に宇佐美の名前が表示される。それを見るだけで言い知れない感動のようなものが湧き上がり、胸が躍った。

「今日、授業の後時間もらえる?」
「も、もちろんです!」
「じゃあ待ってるから、終わったら連絡頂戴」

宇佐美はその後に「大学、頑張って」と付け足し、ナマエを送り出した。ナマエは早足で校門を潜り、一度宇佐美を振り返るとひらひらと手を振っていて、それにナマエも小さく手を振り返した。
都合のいい幻か、そうでなければ夢だったのではないか。宇佐美と再会できたことが現実であると、メッセージアプリに表示される彼の名前を見て何度も何度も確認をした。


何とかオリエンテーリングに滑り込み、ふわふわと飛んで行ってしまいそうな思考を繋ぎ止めて集中する。休憩時間にスマホを覗けば、宇佐美から「昼過ぎまで時間潰してくるね」とメッセージが入っていた。
今日は花枝子と一緒にとろうと先約が入っている。オリエンテーリングのあと校内のカフェテラスに向かえば、花枝子が一足先に席を取って待っていてくれた。

「ナマエさん、こっちよ」
「花枝子さんありがとう」

花枝子はもう注文を済ませたようで、ナマエも花枝子に断るとカウンターに向かい注文をする。花枝子はエビフライをメインにしたランチを注文していた。自分はどれにしようかと迷い、オムライスに決めてテーブルに戻る。

「オムライスになさったの?」
「ええ。花枝子さんはエビフライなんですね」
「なんだか今日は朝から食べたくなってしまって」

二人で手を合わせ、食事を始める。マナー違反にならないようなささやかな声音で別々に受けていたオリエンテーリングがどんなふうだったかを報告し合った。
その時、バイブにしていたスマホが短く震える。普段なら食事中にスマホを触ることはないが、今日は思わず「すみません」と断って画面を確認する。残念ながら期待した宇佐美からの連絡ではなく明日の予定のリマインド機能の通知であった。思わず小さく息をつく。

「ナマエさん、何かそわそわなさっているのね」
「あっ、ごめんなさい…」
「どなたかから連絡を待っているの?」
「はい。その…ええ」

ナマエはもごもごと口ごもる。ナマエが誰かからの連絡を待っているなんてことは非常に珍しく、花枝子も興味津々だった。じっとナマエを見つめる。

「ナマエさんが待っているなんてどんな方かしら?もしかして、男性から?」
「えっと、えっとその…」

顔が真っ赤になっていく。肯定の言葉を口にせずとも最早これは肯定で、ナマエは最後に消え入りそうな声で「はい…」と言って頷いた。花枝子は「まぁ!」と口元を押さえて目を輝かせる。

「どんな方なの?」
「あの、なんて説明したらいいか…」

宇佐美とナマエの関係は複雑だ。今に限っては今日初めて会った仲だが、そもそもは前世では恋人関係にあった。しかし口が裂けても花枝子に「前世で恋人だった」と言えるはずもない。
今の関係に名前がついていればそれはそれでいいけれど、今の宇佐美とナマエは特別名前のついている関係ではないし、花枝子に説明するのは難しい。

「ふふ…ナマエさんのそんな様子初めて見ました。とっても大切な方なのね」
「…はい」

ナマエが上手に説明できないと察すると、花枝子の方からそうして助け船を出すような言い回しをすれば、ナマエは顔を真っ赤にして俯き、返事をした。
誤魔化すようにオムライスを頬張る。口の中にケチャップの味が広がって、屋敷で食べるものよりもケチャップが少し酸っぱく感じた。


ひと通りのオリエンテーリングが終わり、資料を手早く纏めてトートバッグに詰め込むと、ナマエはパタパタと校門の方へと向かう。早く宇佐美に会いたい。
彼には先ほど「今終わったのですぐに出て行きます」と連絡を入れた。ナマエは一度立ち止まり、宇佐美から返事が来たかどうかを確認する。

「えっと、お返事…」

宇佐美から返事が来ている。どこで時間を潰していたかは知らないが、これから校門に向かうと書いてあった。ナマエは頬が緩んでしまうのを感じながら、またパタパタと足を動かして急いだ。
階段を降り、校舎を出てすぐのところで用務員から声をかけられる。

「おーい!お嬢ちゃーん!」

ナマエはきょろきょろ見回し、呼ばれているのが自分だと気が付いて振り返った。用務員は中年男性で、なんだかヨレヨレと枯れた雰囲気を醸し出している、動物に例えるならばタヌキといったような男であった。

「はぁ、さっき、これぇ…落としたよ…!」
「えっ、あっ…すみませんっ!」

用務員の中年男性は少しの距離を走って落とし物を届けてくれたらしい。中年よろしくこの少しの距離ではぁはぁと息を乱している。何を落としたかと思えば定期券を落としてしまっていたらしい。

「ありがとうございます。助かりました」
「いやいや、じゃあ、気を付けてネ」

タヌキの用務員はトボトボと持ち場に戻って行き、ナマエは踵を返すと校門へ向かう。
宇佐美に一体何から話せばいいだろう。小樽で倒れた日のことを思い出す。宇佐美はあの日「君が死ぬ日まで、僕の恋人だ」と言ってくれた。その言葉の通り、宇佐美はナマエが死ぬ日までずっと恋人と言う立場を許してくれていた。
その期限はもうとっくに過ぎていて、もう二人の関係に名前はついてないのかもしれない。それでもいい。またここから始める。

「時重さん、お待たせしました」

校門のすぐそばの桜の木に宇佐美がもたれかかっていた。線の細い眉目秀麗な顔に似合わず無骨な手をぱっと挙げる。ナマエがトトトと駆け寄った。
何から話せばいいだろう。ここから始めてまたいつか、あの時のように宇佐美の恋人にしてもらえるようになるだろうか。




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