01 春疾風


初めて自分の記憶に違和感を感じたのは、小学校の時だった。同じ町内に住む高木智春という少年を、宇佐美は初対面であるにも関わらずよく知っていた。記憶の中より方言は薄まっているが、あの無神経なほど底抜けに明るいところも、お坊ちゃんのくせに嫌味なく誰にでも好かれるところも、まるでそのままだった。
ああ、これは前世というやつだな。そう意識したころ、見計らったように柔道教室でひとりの男と出会った。鶴見篤四郎である。
世界各地を渡り歩きながらカメラマンをしているという彼は、思い出したようにふらりと地元に帰っては自分の師がいる柔道教室で門下生に稽古をつけるのであった。

「篤四郎さん」

初めて柔道教室で会った日、宇佐美は思わず鶴見に駆け寄ってそう声をかけた。鶴見は美しい相貌を少し驚いたように開き、それから少しだけ笑う。

「…時重くん、覚えているんだね」

鶴見もまた、過去を知る人間のひとりであった。呼びかけただけでそれを見通すだなんて、流石は鶴見だと思ったし、やはり何か通じているものがあると思った。
柔道教室が終わり、自宅まで送ってくれるという鶴見の車に乗り込んだ。四輪駆動の立派なSUVで、黒塗りのセダンを勝手に想像していたから少し驚いた。あの頃なら兵卒である自分が手綱を引き馬車を走らせることしかなかったから、鶴見の運転というものは新鮮でわくわくした。

「他にも、昔のことを覚えている人間にはお会いになったんですか?」
「ああ、和田大尉に会ったよ。真っ青になって驚いていた。他は記憶の有無までは確かめられていないが、政治家にも何人か陸軍の知った顔がいる」
「そうですか」

相槌を打ちながら、少しつまらない気持ちになった。過去と今はリンクしているのだろうか。自分は結局新潟の農家の生まれだ。政治家連中も同じようにいい生まれでエリートコースだっていうんなら、過去の嫌なセリフを否応なしにも思い出してしまう。

「月島軍曹にはもうお会いに?」
「いや、月島にはまだ会ってないよ」

苛立った気持ちが少し晴れる。良かった。今生でも月島より早く鶴見と出会うことが出来た。車窓を流れる見慣れた地元の風景が急にキラキラして見えた。

「どうして僕に昔の記憶があるって分かったんですか」
「はは、それは簡単だ。今は長谷川幸一という名前なんだよ。だから鶴見篤四郎という名前を知っているのは、昔のことを覚えている人間だけだ。便利だろう」

ははは、と鶴見が笑う。せっかくの運命論は成立しなくなってしまったが、この日宇佐美に明確な目標がひとつ生まれた。
彼女も自分や鶴見やほかの人間のように生まれ変わっているのではないか。そうだ。きっとそうに決まっている。もう一度絶対に彼女を見つけ出して見せる。
記憶の有無はなんとも言えない話ではあるものの、自分がこうして鶴見に再会することが出来たのだ。ナマエにもう一度会えないわけがない。そう確信めいたものを感じていた。


そう感じてから実に14年。宇佐美は未だナマエに会えないでいた。干支が一回分とすこし周り、宇佐美はもうすっかり成人し、都内の出版社に勤めるサラリーマンである。

「そうだとして、やり口が犯罪だって言ってんだよ」
「うるさいなぁ」

ストローに口をつけ、ずるずると吸い込むのは某有名カフェチェーン店の期間限定スイーツドリンクだ。
隣に座っているのは尾形百之助である。この男とは東京の大学で再会した。再会したのはこの男だけではない。二階堂兄弟にもそろって再会したし、月島も鶴見を介して顔を合わせている。ほかにも師団の連中が何人か。幸か不幸かその全員が記憶を有し、これはいよいよナマエも記憶を持っているのではないかと期待を膨らませた。だというのに、肝心の彼女には一向に会える気配がない。

「あっま。やっぱこういうドリンク駄目だな。甘すぎ。はい百之助交換してあげる」
「おい勝手に取り替えんな」

期間限定のスイーツドリンクは確かに美味いが、甘すぎて一口で満足してしまう。尾形のホットコーヒーと勝手に取り替えて、その苦みで口の中を中和すると、ようやく口内が落ち着いたような気がした。

「宇佐美、お前いつも途中で飽きるんだから最初から他の頼めよ」
「ダメダメ。流行に敏感じゃないと」
「ア?」
「だって再会したときダサくてがっかりされたくないじゃん」

ふふん、と鼻を鳴らす。せっかく恋人と再会するのだ。ダサくてつまらない男だと思われたくない。彼女だってこの情報化社会じゃあの頃と違って、お嬢様に生まれていたとしても色んなものを見聞きしているはずである。あの頃は良いと思ったが今生ではそうでもない、なんて思われたらたまらない。

「自慢の男でいたいじゃん。赤ちゃんの百之助には分かんないかもしれないけど」

語尾に「かっこ笑い」を忍ばせてそう言うと、呆れたような様子をみせながらも黙ってドリンクのストローに口をつける。言いたがらないしそれほどの興味も無いから聞く気はないが、この男はどうやら前の人生でなにか答えのようなものを見つけることが出来たらしい。随分と丸くなっている。

「クソ甘ぇな」
「でも嫌いじゃないだろ」

尾形は肯定の代わりに髪を撫でつけ、またストローに口をつけた。無口でミステリアスなのに甘党なの可愛いよね、と大学時代にゼミで言われていたことを無駄に思い出す。まったくもって同意しかねる。

「で、上手くいってんのかよ、ストーカー」
「人聞きが悪い。もっと言い方ってもんを考えろよ。友達なくすぞ」
「余計なお世話だ。事実だろ」

情報化社会、というものは非常にありがたい。一昔前なら完全にインターネット上で住所氏名を垂れ流しにしているような時代だった。指先でぽちぽちと検索するだけでありとあらゆる情報を得ることが出来る。
つまるところ、宇佐美はインターネットでナマエに関わる情報をあれこれと収集していた。

「10年前なら多分もっと簡単に探せたんだろうけどね。もう卒業アルバムにも電話番号載ってないらしいし」
「お前みたいなやつがいるからだ」
「よく言うよ、勇作さん探しといてさ」
「違う。あれは向こうから探しに来たんだよ」

インターネットが普及し始めたばかりの頃に比べ、リテラシーが高まり個人情報保護の意識もかなり強くなっている。卒業アルバムから各個人の実家の電話番号は消え、名札の文化も滅びつつある。
しかしそのようなことくらいで屈する宇佐美ではない。今はなんといってもSNSの時代だ。

「で、難航してるってか」
「それがね…フフ…じゃじゃーん」

勿体をつけながら宇佐美はスマホの画面をみせる。そこに表示されていたのはワンピース型の制服に身を包んだ少女と隣で微笑む少し年上らしき男がピースをしている写真だった。
少女は色白で、気恥ずかしそうにカメラに向かっている。流石に自分の恋人でもない少女の顔を尾形が覚えているはずもなかったが、宇佐美のこの自信からみて写真の少女がナマエなのだろう。

「SNSで見つけたんだ。やっとだよ」
「…隣に男がいるが、これはいいのか?」
「ああ、これはナマエのお兄さんだよ。これ、お兄さんのSNSなんだ。妹の卒業式だったって書いてある」

ああなるほど。道理で全く焦っていないわけである。尾形はもう一度画面を覗き込んだ。兄の方が随分と背が高く、性別の差もあってぱっと見はあまり似ていないように思われたが、よくよく見れば目元などは似ている部分があった。

「この制服、城咲女学院。中高大一貫の超お嬢様学校。高等部の生徒は高確率でエスカレーターで内部進学するんだって。だから恐らくナマエも春からここの大学生ってわけ」

ぺらぺらと情報を披露する。宇佐美の言う城咲女学院は中高大と一貫教育を受けることのできる東京の名門女子校で、その発足を幕末まで遡ることが出来るほどの伝統がある。
出自が過去と因果関係があるのなら、彼女がまたお嬢様として生まれ、名門女子校に通っているのも何ら不思議ではない。

「その兄貴のアカウントはどうやって見つけたんだよ」
「聞きたい?」
「いや」
「まずね、ブルジョア層に絞って調べたんだけど、医療系の有力企業の役員とか経営者をリストアップしたんだ。けどそれだけじゃ要素が不足してたから、とりあえずいろんな学生大会の成績優秀者を調べて、同じ名前の人間がいないか探した。ナマエの名前はなかったけど、何年か前の剣道のインターハイにミョウジって名字を見つけた。調べたら学校は申し分ない名門校だったから、血縁かとあたりをつけてSNSを調べてたんだ。そしたらドンピシャ。ナマエの写真が出てきた」

ぺらぺらと今度は手の内を明かして見せる。これは見つけたことが相当嬉しかったと見える。
それにしても、これはギリギリどころか完全にアウトだろう。聞いている分には違法なことに手を染めている気配はないが、プライバシーという言葉はこの男には通用しないらしい。

「宇佐美お前…本当に気持ちわりぃな」
「フフ、褒めても何も出ないよ」
「褒めてねぇ」

尾形はずるずるとドリンクを吸い込んだ。暴力的な甘さが口の中に広がる。宇佐美はもうすっかり我が物顔でホットコーヒーに口をつけ、また画面のなかのナマエを見つめる。
季節はまさに春。やっぱり君は春のひとだな、と、微笑むナマエの温度を思い出した。


女子大の前で家族でもない成人男性が待ち構えているなんていうのは、このご時世速攻で通報されかねない。この学校には歩いて数分のところに駅があり、電車通学の生徒のほとんどがここを利用しているらしい。
お嬢様学校らしく送迎をされている生徒もいるそうだが、そうであればアプローチを変えるしかない。宇佐美は自然さを装い、駅から学校に続く桜並木のそばで行き交う生徒を観察する。
比較的清楚系の格好をしているというだけで普通っぽい生徒もたくさんいるが、中にはもう歩き方からして別物だと分かるような生徒もいた。大手企業の社長や官僚の娘も通うところだ。純粋培養の御令嬢がいたところでなんら不思議ではない。

「ナマエさん、ごきげんよう。今年からは別の授業ばかりになってしまうわね」

ふと、並木道の手前でそんな声が聞こえた。知らない女の声だったが、いま確かにナマエと呼んだ。
宇佐美はその声の方へ目を凝らす。二人の少女が並んで歩いていて、片方は大きな花柄の華やかなスカートを、もう片方はレモンイエローのシフォンワンピースを着ている。

「学部が違うから仕方のない事ですね。でも、確か校舎は同じじゃないかしら?」
「そうよ。今日のお昼は一緒に食べましょう」

ぐっと息が詰まった。ナマエだ。病弱だったあのころより少しふくよかで、最後のときより見違えるほど顔色もいい。
宇佐美はナマエに声をかけようとして、そこでもしも彼女が記憶を持っていなかったらどうしようか、という今更過ぎる不安が頭をよぎる。ずっと会えると思っていた。けれど
14年間ずっと巡り合うことは出来なかった。
会いたいと思っていたのが自分だけだったら、彼女に過去の記憶がなかったら、自分だと気が付いてもらえなかったら。

「では、わたくしは先に参りますわね」
「はい。それではまた」

ナマエの友人らしき令嬢がそう簡単に別れを告げ、すたすたと大学の方へ歩いて行った。
ぱたぱたと小鳥が羽ばたく。その動きで桜の花がささやかに揺れる。ナマエがそれにつられ、視線を上に向けて小鳥の行方を追いかける。
いや今更だ、本当に。そんな些細なことは。ここまでようやく来られたんだ。膨大な時間と労力をかけ、彼女を探し出した。
こんなことで言葉を飲み込んでどうする。宇佐美はもう一度息を吸い込み、ナマエに向かって声をかけた。

「ナマエ」

ナマエはその声を聞き、大きな目をさらに見開いた。それから花の綻ぶように笑う。

「時重さん…!」

彼女の唇が確かにそう動いた。登別で初めて名前を呼ばれたときと同じで、まるでささやかな鐘の音であり、囀る小鳥のそれであった。
ナマエは思わずと言った様子で駆け寄る。昔みたいに転んでしまいやしないかと手を伸ばす。無事に宇佐美の元まで辿り着き、そっとお互いを確認し合うように視線を交わした。

「やっと逢えたね」

風が吹き抜ける。それに乗って桜の花びらが舞う。ようやく吹き抜けた、あたたかな春の風である。




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