15 春のかたみ


桜が咲き、ミョウジ邸にも春が来る。
すっかり雪の解けた街に新緑が芽吹いて、野の花々がこっそり姿を現す。小樽の街にも春がやってきた。春の風は麗らかで、目一杯に浴びる光は視界をほんのりと白く染め上げる。
ナマエはベッドの上に腰掛け、窓の外を眺めた。メジロがひよひよと羽ばたいている。

「お嬢様、白湯をお持ち致しました」
「ありがとう、おサヨさん」

ナマエの声にもうすっかり張りはなくなっていて、元から小さかった声はもっともっと小さくなった。もう一日を起きて過ごすだけで精一杯で、それさえできない日も多い。

「おサヨさん、時重さんからお手紙は届いていますか」
「…いえ、本日は一通も」
「そうですか…」

札幌に詰めている宇佐美は、会えないときは手紙を書くと言ってくれた。札幌と小樽の距離であれば手紙の方が時間がかかってしまうような気もするけれど、そもそも彼は任務中であり、早々ミョウジ邸に足を運ぶことも出来ない。

「明日には届くかもしれません」
「ふふ、そうですね。優秀な方ですからお忙しいでしょうし…」

ナマエはゆっくりと白湯を喉に通す。外の景色が白く見えるのは春だからか、それともナマエの目が弱ってきているからなのか。メジロが羽ばたく。

「夢を、見たんです」

細い糸のような声が震える。やせ細った喉はひきつり、唇は乾いている。それでも均等のとれた見目は失われてはいないが、随分と痛々しい有り様だった。
おサヨはその声を聞き逃してしまわないようにそっと耳を近づける。

「どんな夢でございましたか?」
「ふふ…私は学生で、時重さんは私の恋人で…年上の素敵な恋人がいることを学級生はみんな羨ましがるんですよ。ときおり迎えに来てくださったりして、二人で並んで一緒に帰るんです」
「美男美女でいらっしゃるから、とってもお似合いですもの」
「そうかしら」

くすくすと笑った。ナマエの体が弱かったからこうしてたまたま出会うことができたが、本来は生まれた場所も境遇も何もかも違う。だから近くの街に暮らすことも知り合うことも万が一にも無かっただろう。けれどもしもそうだったら二人はどんな出会い方をしていたんだろうか。
突拍子もない話でちっとも想像ができない。だけれど例えば、今と身分も立場も違っても、お似合いだと言われると嬉しい。

「そうだと、いいなぁ…」

ころん、と言葉を転がらせ、ナマエは宇佐美の白い横顔を思い出す。春だというのにこんなにも寒いのは、もう自分の終わりが近いのだということを何よりも証明している。


宇佐美に言い渡された札幌での任務は、連続娼婦殺人事件の調査と菊田の監視であった。
鶴見は菊田のことを中央からの間諜ではないかと睨んでいる。そもそも、菊田は日露戦争前、東京の第一師団に所属していた。そしてその第一師団を率いるのは奥田秀山中将だ。奥田は小倉藩の出身であり薩長の派閥においても中立と言ってはいるが、その実かなり長州川へと傾いている人間である。
宇佐美も同行した東京の司令本部でアイヌの金塊の話を秘密裏に持ちかけてきたのもこの男であり、鶴見を危険視している可能性がおおいにある。そして菊田はその間諜だろうというのが鶴見の読みであった。

「はぁ、もう手がカピカピだ…鶴見中尉殿にもナマエにも会えないなんて…」

自身の手を見つめ、宇佐美はハァとため息をつく。
ナマエの洋琴は美しかった。正直なところ、昔兵営で鶴見が聞かせてくれたものの方が完成度が高かったようには思うけれど、それとはまた違った愛らしさやたおやかさというものが見て取れた。
まだナマエと出会って間もないころ、任務の一環としてしか彼女を意識していなかったとき、鶴見からの助言で洋琴を弾いてもらうように強請ればいいと言われたことがあった。
あの時は「善良で従順な人間を演じる」なんていうつもりだったが、そんなものはいつの間にやら忘れてしまっていた。

「…フフ、流石鶴見中尉殿だな」

ひょっとすると、鶴見篤四郎という男は宇佐美がナマエに恋をすることまで分かっていたのではないか。それならそれで、自分はしっかりと駒としての役割を果たせたということだ。


宇佐美が新聞屋から得た手掛かりによると、次の殺害現場は札幌麦酒工場である。もうすぐ鶴見もここへ到着するだろうが、それをゆっくり待っているわけにはいかない。ここが次の殺人事件の現場になるとして、犯人を捕まえなければ意味がないのだ。

「すみませーん、ここが札幌ビール工場ですよね?ちょっとこの地図見てもらえません?丸のところが現在地でいいのかな?これずっと向こうの端まで全部ビール工場なんですかぁ?」

宇佐美は丸を打った札幌市街の地図を片手にマッチでそれを照らし、現在地を確かめるべく娼婦に声をかけた。
突如逃げようとした娼婦が目の前で転び、「足元暗いから気を付けて…」とマッチで照らす。すると、娼婦だと思っていた人物が男で、しかも見知った顔だったものだから思わず声を上げた。

「門倉部長!?なんてことだ!生きてらしたんですか!!」

この年で男娼にまで身を落とすとはなんとおいたわしい。思わぬ再会に興奮していると、化粧で化け物のような顔になっている門倉が「きゃあああ!!」とわざとらしく叫んだ。
叫ぶにしてもなんでそんなにわざとらしく、とそこまで考えてすぐに理由を悟る。

「……ああ、土方歳三が来ているのか」

即座に小銃を肩から下ろし、背後に迫る人物を銃床で殴る。頭に命中したのにも関わらず、その人物は宇佐美の胸倉をがっちりと掴んだ。ドンッと大きな音がしてにわかに周囲が明るくなる。春の夜空に花火が上がった。


鯉登や月島、菊田、二階堂が応援に駆けつけたが、宇佐美に迫った男、牛山により飛ばされ、その隙に工場の建物内へと逃げられてしまった。
鯉登がまず駆け込み、菊田の指示により月島が建物を回り込んで裏口から突入する。宇佐美は起き上がってきょろきょろ周囲を確認すると、逃げる門倉の姿を見つけてそちらを追いかけることにした。門倉も土方から刺青人皮を数枚預かっているかもしれない。そちらを掠め取るのもいいだろう。

「あれ?アシリパ?」

見失った門倉を探し回っていると、途中で目的のひとつであるアイヌの少女を見かけた。対峙しているのは菊田で、毒を付けた矢じりを向けているアシリパは目の前の菊田に集中している。これは好機だ。宇佐美は背後からアシリパの弓にぬっと手を伸ばす。その時だった。足を何者かに掴まれ、そのまま体当たりをされて体勢を崩す。

「嬢ちゃん逃げろッ!あんたが捕まったら一番困る!」
「門倉部長ぉ」

飛びついてきたのは門倉だった。即座にその場で応戦するも、首尾よく建物の中に逃げ込まれた。銃剣を片手に鬼ごっこよろしく門倉を追いかけ、レンガ造りの工場を三階まで駆け上る。
追いついた門倉を壁際まで追い詰めその場に引き倒すと、うつぶせの門倉へ馬乗りになった。やはり門倉は土方歳三から預けられた刺青人皮を持っていた。

「まだ持ってるんでしょ!?ほら早く出してください!!門倉部長!!」

バチンバチンと門倉の臀部を打つ。さぁまだ持っているのなら早く回収しないと、とシャツを引っ張ったとき、その背に隠されていたものに宇佐美は愕然とした。

「え…?」

暗号の刺青である。囚人と同じ、しかしまだ筋彫りの状態の。まさかこの男自身も暗号を背負っていたというのか。
不意に何者かが階段を駆け上がってくる音がする。宇佐美は回収した写しを懐にしまい、銃剣を手にした。門倉が這いずって逃げ出したのに気を取られた刹那、左手から人影が室内に侵入する。ーーー尾形だ。
宇佐美は尾形の右の脇腹を蹴り上げ体勢を崩させると、続けざまに銃剣を向ける。レンガに突き立てられたそれが振り降ろされた銃床によってぼきんと折られ、今度は素手で首根っこを捕まえると壁に押し付けて顔面を拳で殴りつけた。

「百之助ェ、誰が安いコマだ?えぇ?」

顔面を殴られた尾形は鼻と口から血を流しているが、不気味な笑顔をにやりと浮かべる。それがまた気に入らない。ぴきぴきと血管が浮きたつのを感じる。
宇佐美は三八式のボルトを引き、装填された実包をすべて地面に放りだす。キンキンキンと金属が散らばる音がする。尾形がすかさず弾薬盒から弾薬を取り出そうとして、その腕をひっつかんで背負い投げで地面に尾形を転がした。

「ぶふぅ…」
「どうした?立てよ…銃剣を抜いてかかってこい」

同じ上等兵であるが、尾形と宇佐美の白兵戦の実力差は歴然だった。所詮この男は銃だけだ。出自に利用価値があっても扱いづらく、そして鶴見を裏切る。この男よりも自分が鶴見にとって安いコマであるわけがない。

「何だよ、結局お前は銃にしかすがれないのか。弾の抜かれた銃でどうするつもりだ」

宇佐美はそう言いながら、尾形の弾薬盒から挿弾子を一つ取り出すと顔の前にがちゃんと投げた。

「取れよ。その弾薬を装填するのが早いか……僕がお前の銃剣で心臓を一突きするのが早いか……」

そうだ、自分は決してこの男より安いコマなどではない。言い渡された任務で功績をあげ、ミョウジ氏の援助も強固なものになり、軍資金だって充分に得ることが出来た。
そして誰よりも本当の意味で鶴見篤四郎という男を理解している。

「それにしても…誰が一番安いコマだバカ野郎が!商売女の子供の分際で!!」

そう言って、宇佐美は尾形の腰から銃剣を引き抜く。尾形の手は弾薬に伸ばされることなくボルトを引き起こして装填を完了し、銃口がぐるりと宇佐美に向けられた。ダン、と聞きなれた銃声が響き、右の腹部に熱が走る。討たれた。弾はすべて抜いたはずなのにどうして。
そう考えている間に衝撃で足元がふらつき、宇佐美はそのまま階段を転げ落ちる。そこから素早く横に這い、何とか手すりを持って立ち上がった。痛みで脂汗が額ににじむ。

「百之助なんぞにかまってる場合じゃない…鶴見中尉殿に、伝えないと……」

早く菊田が中央政府の間諜である証拠と、刺青人皮の写しを持って行かなければ。宇佐美はどうにか階下に降りると、消防の馬車が止まっていることに目を付けた。そのうちの一頭にまたがって、麦酒工場の敷地を素早く駆け抜ける。
腹部からの出血が止まらない。適切な止血をしなければ命が危うい。四方八方から騒音が響く中、ダァン、と一発の銃声が鮮明に聞こえてきた。

「ちっ…こんな、時に…」

それは宇佐美に向けられたものだった。心臓を銃弾が突き抜ける。この夜の中、こんなに正確に心臓を貫けるのはあの男くらいだろう。銃で撃たれた瞬間というのは痛みよりも先に熱さを感じるはずだが、もはや感覚はどちらも曖昧だった。騎乗の姿勢を保つことができず、ぐらりと体が前に傾く。落ちていく。
地面に倒れるその刹那、宇佐美を受け止めたのは彼の人生の中心に立ち続けていた男であった。

「鶴見中尉殿」

腹と胸と、撃たれたところからだらだらと血が流れ出る。まさか、自分が先だとは思わなかった。急速に体温が下がり、意識がどんどん朧げになっていく。鶴見に二つの報告をしなければ。自分の駒としての役割を、最後まで十全に果たさなければ。
ふと、脳裏に初めて出会ったあの日のナマエのことが蘇る。最後の最後で、彼以外のことを考える瞬間があるだなんて、想像もしなかった。
ああ、ナマエは今ごろ、何を思っているだろうか。


夜半。枕元になにか気配を感じ、ナマエは目を覚ました。ぼんやりとする意識を覚醒させていくと、やはり枕元がほの白く光っている。輪郭さえとらえることが出来ないのに、不思議とそれが誰なのかをすぐ理解することが出来た。

「まぁ、時重さん…いらしてたんですか」

宇佐美が来てくれたのだ。ナマエはひとりで起きるだけの力がもう残っておらず、ふるふると震える声で「御免なさい、こんなみっともない恰好で…」と恥ずかしそうに言った。
すると宇佐美と思わしき光はそんなことは気にしない、とばかりにナマエの頬をそっと撫でる。

「私、もう、よく目が見えなくて…時重さんのお顔も、見えないんです…」

ナマエは宇佐美の手のひらに頬を寄せる。暖かいような、冷たいような、あるような、ないような、そんな曖昧な心地だけが伝わってくる。
ああそうか。ナマエはその瞬間、宇佐美がどこへ行ったのかも、自分がどこへ行くのかも、すべてのことを過不足なく理解した。そしてそれらは予め決められていたことであり、少しも恐ろしいことだとは思わなかった。

「……迎えに、来てくださったのね」

初めて恋をしたのが、あなたでよかった。
ナマエはゆっくりと目を閉じる。光はいつの間にか収束していた。窓がひとりでに開いていて、舶来のレースのカーテンをひらひらと揺らしている。唇が緩やかな弧を描いた。
札幌麦酒工場で大規模な火災があったという新聞記事が出たのは、この翌日のことだった。


ーーいち、に、さん、し。並木通りの桜の本数を意味もなく数える。概ねそれらは同じような時期に植えられたもので、枝ぶりも似たり寄ったりだ。
春からは大学生。中高大と一貫教育を受けることのできる東京の名門女子校は、その発足を幕末まで遡ることが出来るほどの伝統がある。社長令嬢や外交官の娘などが通う、いわゆるお嬢様学校である。
レモンイエローのワンピースに身を包み、ナマエは最寄りの駅からの道を歩いた。高校までは送迎をされる生徒もいたけれど、大学生ともなると自立心の芽生えからかえって自分で登校する生徒の方が多い。
ナマエはというと、高校の時分からずっと電車での通学をしていた。今度こそ自分の足でもっと歩いていたいという強い気持ちからくる希望だった。

「ナマエさん、ごきげんよう。今年からは別の授業ばかりになってしまうわね」
「学部が違うから仕方のない事ですね。でも、確か校舎は同じじゃないかしら?」
「そうよ。今日のお昼は一緒に食べましょう」

道の途中、同じく中学からの同級生である女子生徒にそう声をかけられる。彼女とは仲良くしているけれども、大学は学部が違うから、必修科目以外は必然的に別れてしまうことになる。仲の良い友人と離れてしまうのは少し寂しい。

「では、わたくしは先に参りますわね」
「はい。それではまた」

ひらっと手を振る彼女に振り返し、ナマエはそのままのペースで桜並木の続く一本道を進んだ。ぱたぱたと小鳥が羽ばたく。その動きで桜の花がささやかに揺れる。ナマエは顔を上に向け、小鳥の行方を視線で追いかける。小鳥は自由にあちこちと飛び回っていた。あの小鳥はメジロだろうか。

「ナマエ」

不意にそう名前を呼ばれ、ナマエは立ち止まって視線をまっすぐに正した。桜並木の真ん中にすらりと一人の男が立っている。胸の奥がどうしようもなく熱くなるのを感じた。
私はあなたを見るだけで、いつも春を思い出す。花がほころぶ。小鳥が羽ばたく。春は、あなたによく似ている。

「時重さん…!」

私とあなたに、また春が訪れる。




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