14 桜びと


1908年春。ナマエの病状は悪化の一途を辿った。
処方されていた薬ではもう到底及ばず、温泉療法も焼け石に水であった。このごろでは床に伏せる日も多く、視界もずいぶんと霞むようになってしまった。
しかし不思議と、ナマエは終わりに近づいていく自分の命を恐ろしいとは思わなかった。
それほど日々は満ちていたし、毎日が薔薇色に輝いていた。

「ナマエお嬢様、宇佐美様がお見えになりましたよ」
「まぁ、もうそんな時間ですか。お通しして下さい」
「かしこまりました」

おサヨが自室のナマエに声をかける。前回宇佐美を玄関先まで出迎えたところで倒れてしまい、それからは自室のベッドで待っているようにと約束した。
宇佐美に自室を見られてしまうのは恥ずかしい思いもあったが、その代わりいつでも招き入れることが出来るよう隅々まで掃除と整理整頓を怠らなかった。
コンコン、と扉が叩かれ「どうぞ」と応えるとゆっくり戸が開く。今日も軍装の宇佐美がひょっこりと顔を出した。

「いらっしゃいませ、時重さん」

登別で見た艶っぽい浴衣姿も素敵だと思ったが、きっちりと軍装に身を包む彼も格好良いと思えて好きだった。宇佐美は上体だけ起こしているナマエのベッドのそばまで慣れた様子で歩み寄る。

「今日の体調はどう?」
「今日はずいぶん調子が良いんですよ」
「嘘」

簡単に見抜かれてしまって、ナマエはむぅっと押し黙って宇佐美を見つめた。宇佐美はナマエの頭をぽんぽんと撫でた。撫でられる感覚は気持ちがいいけれど、子供扱いをされているようで少しだけ不服だ。

「しんどいならしんどいって言えばいい。僕にまで無理をする必要はないよ」
「でも…調子が悪いって言ってしまうと時重さん早めに帰られてしまうでしょう?」
「そりゃ、病人に無理はさせられないからね」

だから黙っているのだ。ナマエの言外の主張はもちろん宇佐美に届かないはずがなく、それでもそれを汲み取って言葉を返すことはしなかった。
どうせ先がないのなら、少しくらい無茶をしてでもたくさんの時間を過ごしたいというのに、そう思っているのは自分だけなのだろうか。

「そんな顔しないで。別に、無理しなくていいってだけの話」

宇佐美に考えをすっかり見抜かれてしまって、ナマエは気恥ずかしくなり視線を下げた。宇佐美に「何でもわかってしまわれるんですね」と言うと「君が分かりやすいんだよ」とくすくすと笑って返ってきた。
どうにかなってしまう前に、なるべく長く宇佐美のそばにいたい。そうは思っているが、こうして無理をするなと言ってくれるのも宇佐美の優しさなのだと分かっているから、それ以上は何も言えなかった。

「軍のお仕事はいかがですか?祖父もこのごろは随分と忙しくしているようです」
「まぁちょっとバタついてるよ。いろんなやつらがあっち行ったりこっち行ったりしてる」

宇佐美は軍の仕事について、差し支えのないようになら、いくつかこうして話をしてくれた。敬愛する鶴見との離れる任務が多くてうんざりしていると言っていたけれど、それは逆に宇佐美を信頼しているからこそ離れて別の仕事を任せることが出来るからではないかとナマエは考えていた。

「そうだ。これから札幌にしばらく詰めることになったんだ」
「まぁ、札幌ですか?」
「うん。ちょっと調べものがあってさ」

札幌というと、小樽からは40キロ程度のところだ。歩けば相当に時間はかかるが、鉄道を使えばそう時間もかからない。なにより、去年の夏は所在も明かせないと言われていたくらいなのだから、こうして教えてもらえるだけで嬉しかった。

「でも、札幌には絶対近づかないでね」
「どうしてですか?」
「女性を狙った妙な殺人事件が起きてるんだ。夜に、しかも街娼を狙った犯行だっていうんだからナマエに滅多なことは無いと思うけど…」
「わかりました。おサヨさんにも伝えておきます」

そうしておいて。と宇佐美が言った。その危険な事件が起きているという札幌に向かうということは、宇佐美の仕事はそれらにまつわるものなのだろうか。


次に宇佐美が姿を現したのは、三日後のことだった。
お見合いと銘打って半ばだまし討ちにした当初、宇佐美は必ず事前にお伺いを立てるような手紙を寄越していたが、ナマエが目の前で倒れた秋のあの日から、そう言った手紙はなくなった。
手紙のやり取りの時間さえ惜しいと思ったからだったし、そもそも変則的な任務の多い宇佐美の予定がなかなか明瞭にならないということも要因のひとつであった。
今日もトントン、と扉が叩かれ、ナマエは「どうぞ」とベッドに腰掛けたまま招き入れる。
ナマエは宇佐美の姿を見て目をパチパチと瞬かせた。今日の宇佐美は見たこともない洋装を身に纏っていた。

「まぁ、お珍しい。今日は軍装でいらっしゃらないのですね」
「ちょっとね。札幌の街で一応兵士ということを隠してる」

宇佐美はまた特別な任務に就いているらしい。ナマエは詳しくは聞かず「そうなのですね」と相槌を打つ。

「洋装もとってもお似合いです」
「鶴見中尉殿が僕のために誂えて下さったんだ」
「ふふ、鶴見様は時重さんにどんなものがお似合いになるか、よくご存知なんですね」

得意げに笑う宇佐美にそう返す。宇佐美の鶴見に対する信頼と敬愛はお手本のように深く濃厚である。自分がもしも兵士になっていたら、それほどまでに慕う上官に出会うことが出来たのだろうか。

「これならナマエとワルツも踊れるでしょ?」

ひらっと宇佐美が両手を広げる。それから左手を上げ、右手を構え、前に教えたようにワルツの基本の姿勢をとって見せた。
軍装であってもきっと様にはなっただろうが、この洋装姿であればもっともっと様になるだろう。

「今度は僕も上手く踊ってみせるから、また踊って」
「…はい。きっと」

ナマエは目尻を下げて笑った。座っていることがやっとなのにワルツなど踊れるはずもないと二人ともわかっていたが、その約束に嘘はなかった。
宇佐美はベッドのそばの椅子に腰掛け、あれこれと他愛もない話をした。出会った当初は予め決められた設計図をなぞるような会話しかできなかったというのに、随分と変わったものだ。

「そうだナマエ、洋琴を弾いてよ」
「えっ!」
「入門用くらいなら弾けるんでしょ?」

もたらされた唐突なお願いにナマエは大いに狼狽えた。「えっと」「その…」と言葉を探す。入門用なら弾けると言っても、本当に拙い有り様だ。とてもじゃないが宇佐美に胸を張って聴かせられるようなものじゃない。

「せ、西洋音楽をお聴きになりたいのであれば祖父の蓄音機で…」
「ナマエの洋琴でなきゃ意味がない」
「あぅ…そ、その…」

さっぱりと切り返えされてナマエはおろおろ視線を泳がせる。宇佐美のまるい瞳は真っ直ぐナマエを射貫いて、それだけで首のあたりから上が熱くなるのを感じた。宇佐美はナマエの痩せ細った手の甲に自分の手を重ねる。

「言ったでしょ、上手じゃなくても君の洋琴が聴いてみたい、って」

あれはまだ三度目に会った日の事だった。実は西洋音楽に造詣も深くなく、洋琴だって拙いのだと告白したあの日。宇佐美はナマエの洋琴が聴きたいと言った。あれはきっと社交辞令に違いないと思っていたのに、宇佐美の中でその話はまだ有効であったらしい。

「だめ?」
「だ、だめじゃ…ありませんけど…その、私もう指がちゃんと動かないかもしれなくて…」

それでも、良ければ。そう尻すぼみに言えば、宇佐美は「ナマエが洋琴の前に座ってるところが見たいの」と言って口角を上げた。

「洋琴はどこに置いてあるの?」
「隣の部屋に。少し待って下さいね、今起き上がります…」

ナマエは掛け布団をめくり、伸ばしていた足を折りたたんで手をベッドについた。そこからずずっと体重を移動し、ベッドへと腰かけるような体勢までなんとか移動する。

「僕が運んであげようか」
「え?」

ナマエが答えるより早く、宇佐美はナマエの背と膝の裏に腕を回し、ひょいっと横抱きにして持ち上げる。思いがけない浮遊感にナマエは思わず宇佐美の肩へと掴まった。
人間をひとり持ち上げているというのに宇佐美は全くもって平然としていて、じっと見つめれば視線が返ってきた。

「強い僕が好きなんでしょ?」
「えっと、あの、その…」
「君一人くらい簡単に運べるよ。だから落ちないようにちゃんと掴まってて」

宇佐美はナマエを抱えたまま洋琴の置いてある隣の部屋まで移動して、洋琴の前に用意された椅子へとゆっくりナマエを降ろす。
つやつやと黒く光る蓋をあければ、中から精密に並んだ白黒の鍵盤が姿を現した。

「何を弾いてくれるの?」
「…では、シュトラウスの春の声を…」
「ナマエの好きだって言ってたワルツの人だ」
「はい。少し私には難しい曲ですので、お聞き苦しいかもしれませんけれど…」

ナマエはそう断りながら指先を鍵盤の上に構えた。姿勢を保つのが難しく、ぐらりと身体が揺れたところを宇佐美がそっと肩を持って支える。
この曲はシュトラウスが52歳の時に親友のフランツ・リストと即興演奏パーティーにおいて余興で即興的に披露し、まとめ上げたものだという。アン・デア・ウィーン劇場で初演の際には詩がつけられた歌曲として発表された。
詩は春の訪れの喜びを謡う内容で、朗らかでどこまでも瑞々しい。どこか胸のときめく旋律である。

「…綺麗な曲だ」
「ふふ、気に入って頂けました?」
「うん、もちろん」

ナマエの指は何度かつかえながらも、春の声を朗々と紡ぎ出していく。宇佐美は華奢な肩を支えながらうっとりと洋琴の音に聞き入った。

「ヒバリは青空高く舞い上がり、凍てついていた風もこんなに暖かくなった」
「それは?」
「この曲が歌曲として披露された際につけられた詩です」

ナマエは指を止め、教本に書かれていた詩を思い出す。たしか一緒にドイツ語の詩も書かれていたはずだが、流石にそれまでは忘れてしまった。
久しぶりに鍵盤に触れ、気持ちが高揚する。心なしか調子が良くなったような気さえする。西洋音楽には詳しくないし、洋琴だってよその婦女子と比べて満足な腕前ではないけれども、気ままに奏でるのはとても楽しい。
自分はそうだが、果たして宇佐美はこんな拙い洋琴を聞かされてばかりでつまらなくはないのか。そう思い、首だけをくっと上げて宇佐美の様子をうかがう。

「その、洋琴を聴くばかりで退屈ではありませんか?」
「全然。なに、僕が無理して付き合ってると思ってるの?」
「えっと…その…はい…」

宇佐美の言葉へ正直に頷く。もともと何かを取り繕おうなんていう技術はナマエには備わっていない。宇佐美は「正直だなぁ」と笑いながら、ナマエへ納得できる言葉を用意するべく少し考える素振りをして、それから口を開いた。

「まぁ農民生まれの僕にそんな教養はないから本当に理解できてるかとかはわからないけど…ナマエの好きなものを知るのは、すごく面白いよ」

宇佐美がナマエの髪をすっと梳くように撫でる。その言葉に胸の奥深くがふわふわとくすぐったくなった。
まるであなたのことを知りたいと、そう言われている気分になる。いや、きっとそうなのだろう。恋人の立場を許されたあの日から、宇佐美の言葉は真っ直ぐで情熱的だ。

「私も、私も時重さんのこと、もっと知りたいです」

ナマエは添えられた手に自分の手を重ねる。宇佐美の手は自分のものと違って分厚くて固くて、この手がいままでたくさんのものを圧倒してきたのだろうと思った。彼は戦争に行った身だ。きっとたくさん奪ったのだろう。けれどもナマエにとって宇佐美の手は与える手だった。

「時重さんのお好きなもののを話を聞かせて下さい」
「じゃあ鶴見中尉の話から始めるけど、長くなるから覚悟しておいて」

そう言って宇佐美は、いかにして自分が鶴見と新潟で出会い、いくつも稽古をつけてもらって今に至るのかを語りだした。肝心の部分は「秘密」と言われて誤魔化されてしまったけれども、それでも充分だった。
それから話を終えた宇佐美はまたナマエに春の声を弾くように強請り、ナマエは鍵盤に向き合った。
一度目よりもずっとなめらかに、春の訪れを奏でることが出来た。




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