12 蜃気楼


ナマエの病状の悪化を受けて、かかりつけが提案したのは温泉での湯治であった。何でも軍のツテで登別のとある旅館に口利きができるらしく、それを利用してみるのはどうかという話だった。
現代の医学では、ナマエの持病を完治させることは難しい。力を尽くし少しでも延命をする。それくらいしか選択肢は残されていなかった。

「おサヨさんと遠出できるなんて夢みたいです」
「ええ、私もお嬢様とご一緒できるなんて思ってもみませんでした」

この厳冬の中登別まで連れ出すのはどうなのか、という点については、もう議論の余地がなかった。かかりつけの見立てでは、もう春を迎えることさえ厳しいのではないかと言われている。
その話を告げられたとき、ナマエは不思議と前向きな気持ちになった。残された命を自分に正直に生きよう。そう思えるようになった。

「宇佐美様のお手紙、今までより受け取りに時間がかかってしまうことだけが気がかりです」
「屋敷の者にもすぐに旅館に転送させるよう言っていますから、そう気を揉まれませんように」

ナマエは馬車の外を見る。街の広がる小樽よりも雪深い。一面の銀世界が広がる。
宇佐美はまた任務で小樽を離れるらしい。何でも網走の方で大きな蝗害があったらしく、その関連の任務がいくつも立て込んでいるというのだ。今回は極秘ではないから、と手紙の返事を書くことが許されたため、ナマエはお気に入りの便箋と封筒でせっせと文字を書き連ねた。もちろん湯治の荷物の中にも欠かせていない。

「湯治で見聞きしたことをたくさんお手紙に書きます」
「ええ、宇佐美様もお喜びになると思いますよ」

あなたと素敵な恋がしたい。その念願が、まさか叶えられる日が来るとは思わなかった。彼からすれば迷惑千万な話で、打ち明けた時に全てが終わると覚悟していた。けれどひとつも終わりはしなかった。
宇佐美の抱きしめる腕の強さ、何度も重ねられた唇、思わしげにナマエを見つめる視線。その全てにナマエはどこまでも魅了され、今まで以上に宇佐美に夢中になった。

「ふふふ、そうだと嬉しいです」
「きっとそうですとも」

許されたのだから、この命の限りあの人に恋をしよう。高鳴る胸の鼓動には嘘はつけない。


登別の旅館は、軍の息のかかったところらしい。伯爵家の御令嬢が利用するにはかなり簡素ではあるが、一般のところを利用するよりもかかりつけが話を通せてミョウジ氏も顔がきくところの方が便利が良いだろうという話だった。

「ようおいで下さいました。なぁんもねぇところですがゆっくりしてって下さい」
「お心遣いありがとうございます。しばらくお世話になります」

老人の域に入って久しいだろう館の主人に出迎えられ、ナマエは部屋へと案内された。南向きの二階の部屋で、広さからも一等良い部屋なのではないだろうかと推察される。いわく、将校が療養に来た際に使う部屋なのだという。

「すごい、外から独特の匂いがします。これは温泉の匂いですか?」
「ええ、硫黄ですね。湯の有効成分でもあるんですよ」
「硫黄…」

あまり耳慣れない言葉をじっと反芻する。これはきっと手紙に書かなければ。宇佐美は温泉には来たことがあるのだろうか。この登別も軍の保養地であるし、ひょっとすると日露戦争から帰って来たときに利用したこともあるかもしれない。
まだまだ彼のことは知らないことばかりだな、と、ナマエはすうっと通った鼻筋を思い出す。そう言えばあの頬のほくろくんは刺青だと言っていた。風呂に入ったところで消えやしないんだろうと思うと、少しおかしくて笑いが込み上げてきた。

「さぁお嬢様、参りましょうか」
「はい」

着替えの一式さえ持ちたがるおサヨを説き伏せ、自分の着替えを持って温泉への道を楚々と歩く。普段は陸軍の保養地よろしく女湯という概念がないそうだが、ナマエのために特別に用意をしたらしい。
着物や襦袢を取り払って脱衣所を抜けると、眼前に露天湯が広がる。岩を積み上げて作られている湯舟はつるつるとなめらかに削られている。
おサヨに手伝われて身体を流し、それから湯舟に向かう。ゆっくりと湯に足を差し入れると、じわじわ解かれていくようだった。

「登別は九種類も温泉が湧き出るらしいですよ」
「まぁ、そんなに」
「ええ。地獄谷というところが主な源泉だそうです。江戸の終わりの…確か文政の頃にはまだ噴火があったのだとか」

博識なおサヨの話に耳を傾け肩までじっくりと身を沈める。着物を脱いですぐには身震いするほどの寒さだったが、湯につかるとそれもあっという間に拭い去られた。

「宇佐美様にもお届けしたいくらいです」
「湯の花を入手できないか主人に聞いてみましょう」
「それはいいですね」

ちゃぷん、と水面をささやかに鳴らし、なみなみと惜しげなく注がれる温泉の感触を確かめる。こんなに気持ちがいいなら宇佐美にも届けたい。
こうして離れている間もずっと彼のことを考えてしまう。浮かれた頭の中に自分で呆れもするが、宇佐美のことを考えている間は不思議と身体の調子の悪さも忘れられる。


露天湯を堪能し、ナマエとおサヨは与えられた客間に向かった。夕食の時間まではまだ時間があるが、外はあいにくの雪だから散策とはいかないだろう。宇佐美にどんな手紙を書くかと考えながら過ごすのもいいかもしれない。
そう考えながら歩いていると、前方でどんっとなにか大きなものを落としたような音がする。一体なんだろうか。
おサヨと顔を見合わせ、音のした廊下の曲がり角をそっと覗く。そこには浴衣姿の男が尻もちをついていて、さっきの音は彼が転んだ音なのだとすぐに理解した。

「もし、お怪我はありませんか」

ナマエは男のそばに歩み寄って声をかけた。かなりの音だったから、どこか怪我でもしているなら旅館の人間に声をかけてやらねばなるまい。
ナマエの声に俯いていた男が顔を上げ、その真っ黒の瞳とじっと視線がかちあった。随分と痩せていて、目元は落ち窪んでいる。坊主頭が異様に丸く見えるのは、彼に両耳がないからだと数拍遅れて気が付いた。

「んー、大丈夫。やっぱ片足難しい…!」
「片足…?」

男はナマエと同じくらいか少し年上かに見えるけれど、まるで口調は子供のそれのように聞こえる。片足が難しいとはどういうことか、と男の足を見た。その言葉はまさに言葉の通りだった。彼には右の下肢部の真ん中から下が欠落していた。

「えっと、誰か呼んで来ましょうか?」
「ダメ。宇佐美は面倒だから」

男はつんっと唇を尖らせて拗ねたような素振りを見せる。よくよく見れば、彼は右の手も欠落しているようだった。ここはそもそも陸軍の傷病兵の保養地である。ひょっとして、彼の手足は日露戦争で失われたものではないのか。
そして気にかかったのはもう一つあった。宇佐美。彼は確かに今そう言った。反射のように胸を詰まらせた後、そんな都合の良い偶然はないだろうと自分を叱咤する。進行方向から「いたいた」と恐らく男を探しに来ただろう人物の声が聞こえ、ナマエは顔を上げた。

「おい二階堂。だからちゃんと義足つけろってあれほど…」
「宇佐美様?」
「…ナマエさん?」

ぽかん、と驚いた顔で立っている声の主は宇佐美そのひとであった。いつもの軍衣ではなく、目の前の男と同じように浴衣を着ている。彼もまたこの温泉旅館の利用者であるということは一目瞭然だった。

「え、なんでナマエさんがここに?軍の保養地だけど…」
「あの、実はお医者様の勧めでご紹介いただいて」
「……ああ、そういう…」

宇佐美はなにか合点がいったような顔をしてナマエがここにいることに納得をしたようだった。いまだ床に這ったままの姿勢になっている男はキョロキョロとナマエと宇佐美を交互に見た。

「宇佐美、知り合い?」
「馬鹿。上等兵をつけろよ。彼女は僕の恋人」
「えぇッ、宇佐美の恋人なんて趣味悪い…」

男は二階堂というらしい。二階堂がじとっとした視線をナマエに向ける。趣味悪い、というセリフは多少、というかかなり聞き捨てならないが、それよりもナマエの意識はその前の宇佐美の「彼女は僕の恋人」という言葉に釘付けだった。
あの宇佐美と相思相愛の仲になれただなんて夢のようだ。

「僕、ちょっとこいつを風呂にいれてこなきゃいけないんだけど、後で会いに行っていい?」
「は、はい、もちろんです!桐の間をお借りしていますので…!」
「ん、わかった。じゃあまた後で」

宇佐美はそう言い、よたよたと片足でおぼつかない二階堂を支える。まさかこんなところで会えると思っていなかった。どうしよう、着飾れるほどいろんな道具は持ってきていない。

「ど、どうしましょう!おサヨさん!」
「もう、何を心配なさってるんですか!女は愛嬌ですよ!」

ふふふ、と至極楽しそうにおサヨが笑う。病気に伏せりがちなこの頃は彼女の顔も暗くさせてしまうことが多かったから、おサヨのこんな顔はナマエの心まで和らげていった。


有能な使用人は「厨のお手伝いをして参りますので」と断り、ナマエを桐の間にひとり残した。ナマエは備え付けの鏡台に何度も自分の顔を映し、どこかおかしなところがないかを確認する。
頬にそっと触れてみたけれど、随分とやせ細っている。幼少期から病気がちなのだから仕方がないことだが、こんな有り様で女の魅力なんてものはあるのだろうか。

「…はぁ、もっと女らしい体つきになれればよかった…」

言ったところで詮無いことだが、やはり見れば見るほど女性特有の柔らかさとは縁遠く見える。つうっと鏡を撫でると、襖の向こうから「ナマエさん」と宇佐美の声がした。ナマエは慌てて居住まいを正し、上ずる声で「どうぞ」と彼を招き入れる。
宇佐美は静かな動作で襖を開け、敷居をまたいでナマエの借りている桐の間へと入る。普段の軍装とは違う浴衣姿にくらくらと眩暈がしそうだった。

「よければどうぞ。屋敷から気に入ってるお茶を持ってきているんです」
「ありがとう」

宇佐美が来るところを見計らって淹れた茶を湯呑に注ぎ、すぐそばの座卓に配した。宇佐美は礼を言って湯呑に手を伸ばし、こくこくと口をつける。

「こんなに寒いのに、出かけていて大丈夫なの?」
「ええ、お医者様も温泉で身体を温めた方がいいと仰っていました」
「そっか」

打てる手があるなら早く打った方が良いというのは嘘ではない。その裏に含まれた「長くはない」というところも宇佐美には汲み取られてしまったかも知れないけれど、改めてそこへは言及しなかった。

「宇佐美様は登別へは療養へ?」
「療養って言うよりはその付き添い。一緒にいた右手と右足のない男がいたでしょ。あいつは二階堂っていって、同じ小隊の一等卒なんだ」
「そうだったんですね。あれほどお怪我をされてはお風呂に入るのも大変ですものね」

風呂に入れば義手と義足は外さねばなるまい。支え無しでは歩くことさえ困難だろう。その怪我の原因がナマエの予想の通り日露戦争によるものかどうかまでは踏み込むことができなかったが、そこまで個人的なことを聞くのは失礼だろうと口を噤んだ。
やはり、浴衣姿の宇佐美というものは随分と目に毒のように思える。普段はかっちりとした軍装に隠されている厚い胸板が想起させられ、曝け出された喉仏にもどうしても視線がちらちらと向いてしまう。

「どうかした?」
「えっ、あの…その…」

まさかその艶やかなさまに見惚れていましたとは言えず、ナマエはもごもご口籠った。顔に熱が集まってきているのが自分でもわかる。
宇佐美は答えを求めるようにナマエを見つめ、逃げようと顔を逸らせば代わりにぱっと手を掴まれてしまった。これはきっと白状してしまわないと許してもらえないだろう。そう思い、ナマエはどうにか羞恥心に耐えながら言葉を吐き出す。

「う、宇佐美様の…普段見られない姿がその…素敵で…」
「…ああ、浴衣だもんね。ナマエさんも、いつもと違って新鮮」
「宇佐美様にお会いするとわかっていたのなら、もう少しいろんな用意を致しましたのに…」
「別にそのままでも充分綺麗でしょ」

宇佐美がナマエの手を軽く引き、その力に身を任せれば簡単に彼の腕の中に収まってしまった。浴衣越しに感じる体温は温泉に浸かっていたためか普段より高く、ふんわりと香る石けんの匂いが心地いい。

「それ、ずっと気になってたんだ」
「それ…?」

主語のない言葉を浴びせられ、ナマエはこてんと首を傾げた。一体今までの会話のどこに「それ」が修飾されているのだろうか。
宇佐美はナマエに意図が伝わらないことなど百も承知だったのか、そのまま言葉を続けた。

「僕の呼び方だよ。宇佐美様って、ずっと名字で呼んでる」

宇佐美様とあまりに呼びなれていて、考えたこともなかった。確かに言われてみれば晴れて正式な恋人同士という間柄になったのだから、ここはひとつ名前で呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
宇佐美が「名前で呼んでみて」と言い、ナマエは大いに狼狽えた。

「名前、知らない?」
「し、知っています…!」

知らないはずがない。あれほど恋焦がれたひとの名前だ。宇佐美時重。頭の中で漢字を思い浮かべ、それからついでに平仮名と片仮名でも思い浮かべる。時重、ときしげ、トキシゲ。何度も口の中で音を復唱し、やっとの思いで口を開く。

「と…時重…さん…」
「なぁに、ナマエ」
「あ、ぅぅ…は、恥ずかしい…」

愛しいひとの名前を呼ぶことがこんなにも難しいことだとは知らなかった。
宇佐美が真っ直ぐにナマエを見下ろした。硝子のような丸い瞳に吸い込まれてしまいそうで、だけどどうしても逸らし難い。

「もっと慣れて。僕の恋人なんだから」

宇佐美のつんと尖った唇がナマエの唇を覆う。口づけが甘くて、離れてしまうのを惜しく感じた。時重さん。不思議だ。少し呼び方を変えただけなのに、それはどうにもナマエの胸の器を満たしていくようだった。




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