11 龍天に登る


頭の中が真っ白になった。
こんなことは、いままで戦場でも一度も経験をしたことがない。ナマエが突如激しく咳込み、呼吸さえままならなくなった。ひゅーひゅーとまるで隙間風のような音がして、いよいよただ事ではないと宇佐美は廊下に向かって大声で人を呼んだ。

「お嬢様…!」

駆け付けたのは何度か見かけたことがあるこの屋敷の使用人で、たしかおサヨとナマエが呼んでいた女だった。
おサヨが駆け付けた頃にはナマエはその場に倒れ込んでしまっており、もう気を失っている。

「かかりつけを呼んで参ります、宇佐美様はどうかお嬢様のそばに…!」

おサヨはそう言い、宇佐美の返答など聞く前に慌ただしくまた部屋を出ていく。宇佐美はナマエを抱き起こし、血の気の引いた顔から前髪を払った。薄く開いた唇から呼吸を感じ、止まっているわけではないと辛うじてそこに安堵する。
かかりつけ。おサヨはそう言った。ミョウジ家ほどの家柄であればかかりつけ医がいないはずがない。けれどおサヨはナマエが倒れているのを見るなりかかりつけを呼ぶ判断を下した。
医者を呼ぶよりも先にもう少しどうして倒れたかを聞いたりするものじゃないのか。これではまるで、予めナマエが倒れる可能性を知っていたようだ。

「…まさか、ね…」

脳裏に暗雲が立ち込める。小さく呼吸を繰り返すナマエの、折れてしまいそうな肩を抱きしめた。こんな可能性、頼むから杞憂であってくれ。そう願わずにはいられなかった。

「ナマエ、さん」

伯爵家の令嬢の一大事となれば、何を差し置いてもかかりつけは飛んでやってきた。ナマエの脈拍や顔色を確認し、おサヨに何やら話をしている。宇佐美はそれを少し離れた場所で見つめ、上下するナマエの胸の動きが止まってしまいやしないかと目を凝らしていた。

「…とにかく、どうにも無理は禁物です」
「はい、重々承知いたしております」
「薬を出しておきますが、これから寒くなる。どうにか暖かくして体温を上げるように気を付けてください」

漏れ聞こえる医者とおサヨの会話でわかったことがある。ナマエが倒れたのは、今日が初めての事ではない。恐らく数回以上。定期的に薬を処方されていて、こんな事態も何度も起きているのだろう。
医者が一度戻って今日以降の薬を用意してくると屋敷を出ていき、部屋には宇佐美とおサヨと、眠ったままのナマエが残された。

「じゃあ僕は…」
「お待ちください」

さすがにこれ以上部外者がいるのは望ましくないのではと立ち去ろうとすると、おサヨがそれを遮って止めた。
おサヨは少し逡巡し、すうはあと呼吸を整えると腹を決めたとばかりの顔で宇佐美に向き合った。嫌な予感がする。

「ナマエお嬢様は、不治の病を患っておられます」

ああ、嫌な予感が当たってしまった。宇佐美は眉間に皺を寄せ、おサヨはそれを見ながらも這うような息苦しさで言葉を続けた。

「生まれつき身体が弱く、特に眼と胸に病を抱えておいでです。幼いころ、10歳まで持たないだろうと診断されたほどでした」

いわく、ナマエはそもそも療養のために北海道の地へ越してきたらしい。発展目覚ましい東京の空気は地方に比べて良いとは言えない。一時は女学校さえ通えない始末で、中退をして祖父とともに旭川に来たのだそうだ。

「だとしたらどうして…良家の事情は私にはわかりませんが、そう言った容体で見合いじみたことをさせるなんて…」

余命幾許もないとされる若い娘にそんなことをさせる理由が、宇佐美にはわからなかった。見合い相手だって健康な娘を望むに決まっている。
例えば、相手がミョウジ家よりも家格の上の男で、一時でも婚約関係を結んで縁者になろうだとか、そういった話ならまだわからなくもない。しかし宇佐美は農民出身の一介の兵卒だ。無理やりミョウジ氏が見合いをさせて有利なことがあるとは思えない。

「お見合いの話を持ちかけたのは、お嬢様ご自身です」
「…ナマエさんが…?」
「はい。たった一度だけ、恋をしてみたいと…」

予想外の回答に「え」と短音だけが漏れる。おサヨはその様子を見ながら、困惑する宇佐美を置き去りにして更に話を続けた。

「宇佐美様とお会いしてから、お嬢様は毎日それはそれは楽しそうに宇佐美様のお話をされていました。私はお嬢様の幼い頃よりお世話をさせていただいておりますが、これほどお元気な様子は今まで見たことがありません」

身体が弱かった。だから昔から周りと同じように生活できないことさえあった。家の中でほとんどの時間を過ごし、外の世界にいつも憧れだけを膨らませる。
いつか自分もああして外で自由になることができる。物語の主人公のように素敵な恋をすることができる。そう言い聞かせて辛い夜をやり過ごした。
けれど突きつけられた現実は、彼女の夢をひとつも叶えてくれやしなかった。

「…無理を承知でお願い申し上げます。どうか、ナマエお嬢様に生きる希望をお与えいただけませんか」

悲痛な声だった。おサヨが深々と頭を下げる。腹の前でぐっと握られた手は力が篭りすぎて白くなっていた。
生きる希望。それはつまり彼女の希望を叶えてほしいと言うことだろうか。宇佐美はそれ以上は黙し、目を閉じた。瞼の裏に映写されたのは、ナマエがふんわりと笑ういとけない顔だった。


夕刻までどうかそばにいてほしい、というおサヨの申し出の通り、宇佐美はベッドのそばでナマエを見つめていた。
血の気の引いた顔は透き通るようで、肌の向こうの血管がうっすら青く見えていた。呼吸で胸元が上下するのを確認する。これが止まってしまうところなんていくらでも見たことがあるはずなのに、彼女だと思うとどうにも落ち着かない。
日が傾き、橙色の光が部屋に差し込み始めた時のことだった。ナマエが身じろぎをして、緩慢に瞼が動く。

「…わたし…」
「気が付いた?」
「宇佐美様…」

ナマエはぼうっとした視線をやり、徐々に焦点が合っていく。いくつか考えるようにきょろきょろと瞳が動き、そしてようやく自分の状況を理解したようだった。

「すみません…私、倒れたんですね」
「…うん。おサヨさんだっけ。あの人がかかりつけ呼んでくれて、薬ももらったみたいだよ」
「そう…でしたか…」

ナマエの声はもともと大きいとは言えなかったが、今日はことさら小さく吐き出された。宇佐美はそれを取りこぼしてしまわないように耳を澄ませる。ナマエは視線だけで窓の外を見て、宇佐美に「お聞きになったんですか」と尋ねた。宇佐美はそれを「うん」と肯定した。

「…どうして、僕だったの」
「それは…」

甚だ疑問だった。見合いの日まで、宇佐美はナマエと話したことはおろか、顔を見たことさえない。そんな男と「恋をしてみたい」だなんて。宇佐美の顔を見ることはなく、ナマエは窓の外を見ながら答える。

「…私、旭川にいたときに宇佐美様をお見掛けしたことがあるんです」
「旭川で?」
「はい。その時の宇佐美様は屋外で訓練をされておいででした。周りの兵隊さんより小柄で色白でいらして、だけど誰より一等お強かった…。私もう見惚れてしまって、そこで一緒にいらした上官の方に宇佐美様のお名前を聞いたんです」

宇佐美はぐっと目を見開く。いつのことだろう。旭川にナマエがいて、自分も旭川にいたとなれば間違いなく日露戦争に出征する前の話だ。そんな時から、彼女は自分のことを知っていたというのか。

「本当に籍を入れてくださいと、お願いするつもりはなかったんです……残りの時間で、貴方と恋がしてみたくて…」

ナマエが何とか両手に力を込め、震える腕で支えながら上体を起こした。宇佐美は手助けすることもできず、見開いた目でナマエを見つめる。そこでやっと宇佐美の顔を見て、ナマエがへにゃりと眉を下げた。

「ごめんなさい。いくら籍を入れなくたって短い間だって、宇佐美様にはご迷惑な話ですよね」
「それは…」

ナマエの伏せられた睫毛が震え、斜陽がそれを通して頬に影を落とす。唇をきゅっと噛み、下瞼が少し痙攣していた。
ナマエはゆっくりと頭を垂れ、解かれた髪がするすると肩から落ち、布団の上に広がる。

「私の我が儘に付き合わせてしまって、申し訳ありませんでした」

気がつくと、宇佐美はナマエの華奢な肩を抱き寄せていた。薄く、頼りなく、誰かが守ってやらねば壊れてしまいそうだと思った。胸の中に収めれば、自分より随分と低い体温がじわじわと中和されていくのを感じる。

「…本当は、君のことなんてどうでも良かったんだ」

その言葉にナマエがびくりと身を硬くする。それを和らげるように背中に回した手をぽんぽんと二回優しく撫でた。宇佐美は一度息をつき、そこからまた言葉を続ける。

「鶴見中尉殿のご命令で、鶴見中尉のためになるならってそれだけだった」

そうだ。本当になんでもなかった。ただの世間知らずの御令嬢。自分とは住む世界の違う女性。
見合いの理由なんてわからなかったが、これが敬愛する鶴見のためになるなら何だっていいと思っていた。それだけ。ただそれだけだった。

「なのに…」

いつの間にか、愛おしくなっていた。自分の名前を呼ぶ軽やかな声も、白い指先も、折れてしまいそうな華奢な身体も。全部全部、自分のものにしてしまいたいと思った。自分の中で今まで知らなかった感情が芽生えているのだと認めざるを得なかった、

「ふざけるな、僕のことをこんなにも作り替えておいて、はいさようならってそんなの絶対に許さない」

ナマエが息をのむのが分かる。責めたいんじゃない。違う。もう手放したくない。絶対に君を他の誰にも渡したくない。宇佐美はナマエを抱く力を強くして、どこにも行けないようにいっそう腕の中に閉じ込める。

「だから君が死ぬ日まで、僕は君の恋人だ」

絶対に、今更離れてなんてやるもんか。
そうだ、もう今更きっかけなんて関係ない。始まり何てどうでもいい。自分の腕の中にいる彼女を、みすみす逃してやるわけがない。
宇佐美はナマエの両肩を掴んで少し引き離すようにして、そこからそっと顔を近づける。引き合うように唇が触れ合い、またゆっくりと離れていった。ナマエが目を潤ませて宇佐美を見上げる。

「まだ、おそばにいて良いんですか…」
「当たり前だろ」

そう言って、もう一度口付けをする。先ほどよりは少し長く、そこから数回軽くそれを繰り返す。ナマエの唇は甘味のように甘く感じた。

「……事実は、小説よりも奇なり」

ぽつんとナマエが言った。聞いたことのない言葉だ。
鶴見のそばにいて恥ずかしくないよう文筆もよく学んでいる宇佐美だけれど、彼女の台詞に聞き覚えはなかった。

「誰の言葉?」
「ジョージ・ゴードン・バイロンという、イギリスの詩人の方のドン・ジュアンという叙事詩の一節です。本当の出来事は、ときに空想のそれを超える予想もしないことが起きると、そう解釈される言葉だと…」
「僕とこうなることは予想もしてなかった?」

宇佐美が尋ねると、ナマエは小さく頷く。発作を起こして血の気の引いていた顔に少しだけ色が戻る。それから涙で瞳を潤ませて宇佐美の胸元に頬を寄せた。

「本当に…夢みたい…」
「夢になんかさせないよ」

窓の外は橙色に埋め尽くされてる。もうすぐ夜が迫ってくるだろう。それでも今はこの体温だけがたったひとつの綺羅星のように思えた。夕日が二人の影をすうっと長く伸ばした。




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