10 逃水


宇佐美が小樽を訪れるという知らせが届いたのは、10月のことだった。なんでも、春の終わりから就いていた任務がようやく一区切りついたらしい。
ナマエは久しぶりの宇佐美の訪問に大慌てで様々な準備をした。

「ど、どうしましょうおサヨさん…香油はどれを…あっそれとも香水がいいかしら…桜水なんていい香りですし…」
「ふふ、お嬢様、まだゆっくりご準備なさればいいじゃありませんか」
「そうは参りません!準備はいくらでもしたくなってしまうから、時間が足りなくなります!」

ナマエはああでもないこうでもないと衣装部屋の箪笥を開けて着物と帯を合わせる。秋の図柄といえば萩や桔梗だけれども、少し色味が地味すぎやしないか。でも少女のような桃色ばかりではつまらなくて子供っぽいと思われてしまうかもしれない。

「ああ、どうしましょう…」
「ふふふ」

ナマエが箪笥の前でほとほと困り果てていると、おサヨがそうして笑いをこぼす。なにかおかしなことでもあったかしら、とおサヨを見れば、ナマエをにこにこと見つめていた。

「すみません。こんなに忙しないお嬢様を見たのは宇佐美様とお見合いをされたとき以来だと思いまして」

ナマエはその言葉に昨年の秋のことを思い出す。祖父に頼み込んだ見合い話。初めは他人行儀な笑顔だけを見せていた宇佐美も、数ヶ月経つうちに少しずつ自然な姿を見せてくれるようになったと思う。
自分の我が儘であることは百も承知で、見合いだなんて銘打っているけれど本当は結婚までを彼に強要するつもりなどさらさらなかった。

「だって私、宇佐美様には一番綺麗な私を覚えていて欲しいんですもの」

ナマエはおサヨに背をむけ、ぐっと胸を押さえる。もとより、そう長くは持たない身である。今まだ生きていることさえ奇跡的なことだと言うのに、どうして先のことなど約束出来ようか。ナマエの我が儘はもう潮時だ。

「ではお嬢様、おサヨがお嬢様を三国一の美女にしてみせます」

ナマエの胸中を悟り、おサヨがわざと軽い調子で言ってみせる。振り返れば、彼女は襷掛けで袂を縛って早速ナマエに相応しい衣装を箪笥から選び始めていた。
ナマエはふっと目元を和らげると、おサヨのそばに寄って「このお着物はどうでしょうか」と一緒になって着物選びに精をだした。

「決めあぐねていらっしゃるなら、お嬢様、これはいかがですか?」
「えっ、これですか?」

おサヨが取り出したのは白い生地で仕立てられたバッスルスタイルのドレスであった。父に買い与えられ、一度だけ着たことがある。けれど勿体なくてそれから袖を通していない。

「どうでしょう。いつもはお着物ですし、ドレスなんて印象が変わって素敵じゃありませんか?」
「で、でも…私にちゃんと着られるでしょうか…」
「そこはもちろん、サヨがきっちりと似合う髪に結って差し上げますとも」

お任せ下さい。とおサヨが胸を張る。おサヨに推され、結局当日はドレスを着ることで話がまとまった。


宇佐美がミョウジ邸を訪れる日、ナマエははしたないと思いつつもついつい玄関のいちばん近くの部屋で待ってた。何度も部屋の置時計で時間を確認し、施した化粧が崩れていないかを手鏡で確認した。
約束の時間ぴったりに部屋の扉が叩かれ、この家に仕える三太夫が姿を現す。

「お嬢様、宇佐美様がおみえになりました」
「は、はい…!ただいま参ります…!」

ナマエは手鏡を三太夫に預け、ぱたぱたと玄関へ向かう。バッスルの針金がかぱかぱと前後に動き、着物にはない独特の動きづらさに足がもつれそうになる。
廊下の角を玄関に向けて折れると、扉のそばに待ち焦がれた宇佐美の姿があった。

「宇佐美様…!」
「ナマエさん、久しぶり」

ナマエは思わずそばまで駆け寄り、ついに足をもつれさせてしまったところを宇佐美が手を伸ばして肩を支えた。

「ご、ごめんなさい…嬉しくってつい…」
「怪我はない?」
「はい。なんとも」

ぐっと近くから宇佐美を見上げる。そこではた、とナマエは宇佐美の変化に気が付いた。ほくろだ。両頬の均等な位置にあったほくろに線で身体が足されている。まるでその棒人間は両側から真ん中に向けて駆けているようで可愛らしい。さしずめ「ほくろくん」と言ったところだろうか。

「ナマエさん?」
「あ、すみません。随分お可愛らしいほくろくんだなぁと思って」
「ああ、いいでしょ、これ」

宇佐美が右手の人差し指で自分のほくろを指さした。にこにこと嬉し気で、宇佐美の口の動きに合わせてほくろくんがぐにぐにと動く。

「とっても。そういうお化粧ですか?」
「いや、鶴見中尉殿に描いていただいたんだ。それを刺青に」
「えっ、刺青ですか?」

てっきり何かそういう落書きか化粧のひとつだと思っていたのに、刺青という予想外の答えが飛んできてびっくりした。まじまじとほくろくんを見つめる。確かに、墨が皮膚にまで浸透しているようにも見える。

「ナマエさん、あまり見られると穴が開きそうなんだけど…」
「あっ…私ったらつい…お客様をお部屋にお通しもせず失礼しました。どうぞ」

指摘されてようやく自分がいかに宇佐美のほくろくんを注視してしまったかを思い知り、ナマエはそそくさと距離を取ると普段通りのお気に入りのバルコニーまで宇佐美を案内する。バルコニーに続く部屋のドアを閉め、いつも通りの椅子へと宇佐美と向き合うようにして腰かけた。
宇佐美が軍帽を脱ぎ、ふぅ、と息をつく。

「半年も経ってないのに、ここに来るのが随分久しぶりに思えるよ」
「お勤めご苦労様でした。お怪我はありませんか」
「僕は平気」

任務の話はもちろん聞けないから、無事であるということさえ知ることが出来ればそれでいい。間もなくおサヨが二人分の茶を持って現れ、羊羹とともにテーブルの上に配される。また二人きりになり、ナマエが何から話せばいいだろうかと思案していると、それを先回りするように宇佐美が口を開いた。

「あんまり手紙出せなくて悪かったね」
「いえ、そんなこと。お忙しいのに送って頂いただけで私は充分です」

宇佐美とナマエは同じようにして羊羹に菓子楊枝を通し、すっと切れ目を入れるとゆっくり口に運んだ。ナマエお気に入りの店のもので、舌の上で上品なあんこの甘さがとろけていった。
思わず頬を緩めていると、宇佐美の目がじっとナマエを見つめている。なにか無作法なことでもしてしまっただろうか。伺うように視線を返す。

「ドレス、すごく似合ってる。舞踏会の貴婦人みたいだ」

宇佐美の丸い瞳がにっと三日月形になった。嬉しくてくすぐったくて、顔に熱が集まるのを感じる。ナマエが真っ赤な顔で「ありがとうございます」と何とか言って、衣服に乱れがないか意味もなく袖の端を引っ張って確認をした。

「やっぱりナマエさんみたいなお嬢様は西洋の社交ダンスも踊れるの?」
「えっと…そうですね、あまり得意ではないんですけれど…」

西洋化の一環として、明治16年に落成した東京府麹町内山下町の鹿鳴館は外国との社交場として造られたものである。そこでは諸外国に倣って西洋の社交ダンスも花を添えた。諸外国からすれば舞踏会のマナーも知らぬ日本人の舞踏会など滑稽だったであろうが、それでも日本の西洋化のひとつとして大きな一歩であったことは間違いない。
鹿鳴館の外交の場としての歴史はわずか4年で幕を閉じたが、その後も上流階級の一部では西洋の社交界の作法を身につけるべく社交ダンスを習っているものが少なくない。

「じゃあ、僕に教えてよ」
「えっ…!」

宇佐美の思わぬ言葉に素っ頓狂な声が出て、恥ずかしいことをしてしまった、と口を手で塞ぐ。ちろっと宇佐美を見れば、丸い瞳はいまだナマエをじっと見ていた。その上「だめ?」なんて小首を傾げるものだから、断ることが出来なくてとうとうナマエは首を縦に振らざるを得なかった。
宇佐美が椅子を引いて立ち上がり、ナマエもそれに従う。

「どうやって立てばいい?」
「えっと、男の方はこうして…右手はここで…左手はその、こうして繋いで…」

ナマエは昔講師に教わったことを頭の中でなぞりながら宇佐美の手を取る。男の右手は女の背に添え、女の左手は男の二の腕に添える。それから男の左の手のひらの上に女の右手を乗せた。この向かい合う姿勢が基本の姿勢だ。
普段ならあり得ない距離感に心臓がうるさく鳴る。階段から転げ落ちそうになったときに咄嗟に抱きとめられたことはあったけれど、こうやってじっくりとそばに寄るのは初めての事だった。

「えっと、その…足を男女互い違いになるように動かすんです。鏡合わせのように…」

そう言って、まず自分から踏み出すことを伝えてからナマエはゆっくりと左足を一歩前に出す。宇佐美がそれに合わせて右足を引いた。それから右に移動し、そこで両足を揃える。今度は逆にナマエが右足を引き、宇佐美が左足を前に出した。あとは元の位置に戻るように左に一歩移動する。
それをいち、に、さん、の拍子で繰り返す。小さな空間で優雅にナマエのドレスの裾がひらひら揺れた。

「なんか不思議な感じ」
「ふふ、そうかもしれません。こんな動きワルツくらいでしかしたことがないですもの」
「確かにね」

何度も足を踏んでしまいそうになる不器用な足取りで時計回りにくるくると回る。本当はこの動きにひねりを加えながら回るのだけれど、ナマエにはそこまで教えられそうにない。

「こうしているとまるでワルツが聞こえてくるように思います」
「舞踏会の音楽?」
「ええ。ワルツは私の一等好きな西洋音楽です」

応接室には祖父の使っている舶来の蓄音器がある。あれでワルツを流してやればもっとそれらしくなったかもしれない。シュトラウスか、リストか、それともラヴェルか。
きっとどれで踊っても滑稽になってしまうに違いない。けれどそれでよかった。

「じゃあ今度聞かせて。ナマエさんの好きな音楽を、僕も聞いてみたい」
「はい、必ず」

夢みたいだ。夢かもしれない。こうやって宇佐美とワルツを踊っているだなんて。夢なら醒めないでほしい。もう少し、もう少しだけ、この穏やかな時間を夢見ていたい。


ひと通りの足取りを教えれば、器用な宇佐美は思いの外上手にワルツを踊って見せた。もちろん高貴な立場の異人にも実際に舞踏会に出席していた権力者にも及ばないが、それは講師がいないことと場数を踏んでいないことが原因だ。つまり、彼はしっかりと学べば恐らくもっと美しくワルツを踊ることができるように思われた。

「宇佐美様、お上手ですね」
「お世辞はいいよ。何度も君の足を踏みそうになっちゃったし」
「いいえ、私なんて初めて先生に教わった時は少しも踊れなくって呆れられてしまったくらいなんです」

ふふふ、とナマエが笑った。足を止めているのに未だ密着するホールドの姿勢になっていて見上げる先で宇佐美の端正な顔が緩められていた。任務に出る前の春の頃よりもずっとずっと柔らかい顔に見える。
ふと、彼の軍衣の物入れにこつ、と四角い感覚があることに気がついた。男の服の物入れに入っている四角いもの、といえば煙草だ。そんな仕草は一度も見たことはなかったけれど、彼は喫煙者だったのか。

「宇佐美様、煙草をお吸いになるんですか?」
「え、ああ、まぁね」
「良ければどうぞ。灰皿はこちらに」

きっと屋敷にいるときにも吸いたい瞬間はあっただろう。兵士である彼なら我慢など容易いことなのかもしれないが、自分の前でまでそうでいてほしくはない。
ナマエはいそいそと暖炉の上に置いてあった灰皿をテーブルに持ってきて宇佐美に勧める。宇佐美は「じゃあ一本だけ」と言って、煙草を咥えるとマッチでシュッと火をつけた。緩やかに煙が伸び、窓の方に向かって逃げていく。ナマエはそっとその横顔を見つめる。

「…興味あるの?」
「あ、ごめんなさい…不躾に…あの、素敵だなと、思って…」

宇佐美がちらっと視線をやって、ナマエは慌てて逸らす。すると、宇佐美がくすくすと笑い、それが空気の揺れだけでナマエに伝わる。
不意に風向きが変わり、外に伸びていた煙が室内に入り込んだ。それにナマエがケホケホと軽くせき込む。ああ、これはまずい。もう感覚でわかる。煙たいとか、少し喉に引っかかるとか、そういう話ではない、これは。

「ごめん、煙が苦手ならすぐに止め……」

宇佐美がナマエに気付き煙草の火を消すが、もう止めることが出来なかった。ナマエは両手で口を覆い、その場に背を丸めて屈む。喉ではなく、もっとその奥からせりあがってくるものに耐えられず、ナマエはまともに息が出来なくなって、耳をつんざくような勢いでせき込んだ。

「ごほっ…けほっ…けほけほっ…!」
「ナマエさん!?」

宇佐美の叫喚が部屋に響く。ナマエのそばに膝をついて背を何度も何度もさする。目の前がちかちかして視界がぼんやりと白くなった。
ああ、きっと罰が当たったんだ。もう少し、もう少しと諦めることを先延ばしにしてずっと我が儘を通してきたから、きっとそうに違いない。

「う、さみ…さま…」

ああ、ごめんなさい。

「誰か…!」

使用人を呼びに出入り口へと向かう宇佐美の背を見つめた。瞼を上げていることさえもう難しく、ナマエはその場に倒れ込むとそのまま意識を手放したのだった。




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