09 雪の果て


網走監獄での潜入調査は滞りなく滑りだした。
初夏の時期とはいえ、ここは夜になると半袖では寒いくらいで、看守の宿舎などはうすっぺらな木でできているから寒くてたまらなかった。

「おい新入り、これから細かいところを案内するからよく覚えとけよ」
「は、はい…」

宇佐美は新潟のとある農家の次男坊。徴兵で第二師団に所属後、満期除隊をしたばかり。軍に属した影響で地元を出てみたくなり、流れ流れて北海道までやってきた。
ーーというのが、新人看守としての宇佐美の設定であった。

「こっちが耕耘庫。で、あっちが漬物庫ね。まぁ監獄内での冬備えもここじゃ必要不可欠さ」

宇佐美を案内しているのはここの看守部長、門倉利運。ほとんどの看守が典獄、犬童四郎助によって解雇されていく中、7年間ずっとここで勤め続けている。
つまり、この男だけが唯一のっぺらぼうの収容から囚人の脱走に至るまで、ずっとここで看守を勤めていることになる。

「お前さんはひょろっちそうだからな。囚人にいいようにされんじゃねぇぞ」

ハハハ、と門倉が笑い、宇佐美は気弱で従順な新人を装って声音を揺らしながら「はい」と返事をした。
この門倉という男はどこからどうみてもボンクラたぬきだ。入って間もない宇佐美にわかるくらいなのだから相当である。

「面倒ごとは起こすなよ。尻ぬぐいは御免だ」
「き、気を付けます…」
「ハハそんなに固くなるなってぇ。ま、ようこそ。網走監獄へってな」

この気の抜けた様子でよく看守部長が勤まるな、とは思ったけれど、そちらの方が仕事がやりやすい。宇佐美は改めて設定どおりの「気弱で従順な新人」の顔を作って笑ってみせた。


始めの三週間程度は、一切外との連絡は取らなかった。ここで疑われては目も当てられない。何事も始めが肝要ということだ
こんな辺境の地で看守なんぞをしているような連中だから、それなりに妙な事情を抱えるものも多かった。看守には採用試験もあるけれど、この網走監獄でそれが正常に適用されているかは定かではない。

「よう新人、今から一杯やるんだがお前さんもどうだい」
「いいんですか?」

門倉からそう声を掛けられた。これはいい機会だと誘いに乗る。ある程度酔わせて緩くなったところから情報を引き出せるかもしれないし、逆に宇佐美を酔わせようとしてこようものなら自分を間諜と疑っていると知ることが出来る。何せこの網走監獄で囚人の脱走以前からのことを知っているのはこの男だけなのだ。
門倉の後ろについて看守の宿舎に辿り着くと「お邪魔します」と中へ入る。看守部長と言っても大して待遇に差はないが、7年間同じ部屋を使っているだけあって宇佐美の与えられた部屋よりは雑然とした印象である。

「まぁ適当に座って。燗でいいか?」
「はい、失礼します…」

板張りの床に腰を下ろす。囲炉裏には土瓶が下がっていて、火はまだ焚かれていない。門倉が慣れた様子で準備を進めているため「何か手伝いましょうか」と声をかけてみるも「いいってぇ」と気の抜けた返事だけが返ってくる。
着々と準備が整い、囲炉裏にも火をつけ土瓶で湯を沸かす。土瓶の中に日本酒を注いだ徳利を慎重に入れ、じわじわと温めれば燗の完成だ。

「お前さん、郷は新潟なんだって?」
「はい。新発田の田舎です」
「ほぉ。新潟ってことは米どころだな。日本酒なんかも美味いのがありそうだ」
「ええ。実家の近くには酒蔵もありました」

門倉は日本酒が好きなようで、振舞われたのも話を振られたのも日本酒であった。かち、と小さく音を立ててお猪口に徳利がつけられ、とくとくと透明な液体が注がれていく。ふんわりと米のいい香りがした。

「いただきます」

お猪口にそっと口をつける。監獄で飲むにしてはなかなかいい酒だ。ふと、宇佐美の脳裏を過ぎったのはナマエのことであった。
伯爵家の御令嬢という身分であるから、彼女と会うのはいつも昼間の数時間だ。夜に、しかも酒を交えてなんてことは考えたこともなかった。
酒の匂いよりは甘味の匂いの方が似合うように思うけれど、ナマエは酒を飲んだりするのだろうか。

「あ?どうかしたかい?」
「あぁ、いえ、すみません…郷のことを思い出していまして…」
「はは、酒の匂いで恋しくなっちまったか?なんてな」

門倉はそう適当なことを言い、自分のお猪口を傾ける。言われてみれば酒を飲んで思い出すことなんてもっと他にあるはずで、どうして真っ先に彼女のことを思い出してしまうのか。

「お前さん随分な色男だからな、こんなところにいたら泣く女でもいるんじゃないか」

中年の親父らしい下世話で無責任な物言いに普段だったらいらいらもしたかも知れないが、今日はナマエのことを考えていたから当たらずとも遠からずというところでそんな気も起きなかった。いや、ナマエが実際泣くかどうかは知るところではないが。

「こんなとこまで来てさぁ、まぁお前さんにも色々あるんだろうけど、ぼちぼちやろうぜ」

いけない、思わず「気弱で従順な新人」の顔が崩れてしまうところだった。宇佐美は曖昧に笑って「門倉部長のお話聞かせてください」と話題を逸らしていった。


夜の闇に紛れ、鏡橋を越えて向こう岸にある長屋の前に向かう。ここが連絡係の詰めている小屋である。ピピッと小さく短い口笛で合図をすると、内側から扉が開かれた。

「のっぺらぼうへの接触は、まだ出来ていません。新しく入る人間を疑っているのか、独居房の囚人にあまり近い仕事をさせるつもりがないようです。接触するにはもうしばらく時間が必要です」

目的であるのっぺらぼうには、まだ接触出来ていない。宇佐美に任されるのは雑居房の囚人の管理ばかりで、独居房の囚人に関わる仕事はひとつも言い渡されていなかった。もちろん雑居房にのっぺらぼうはいないから、独居房のどこかだとは思うが、捜索するにしても独居房のある舎房に足を踏み入れようものなら中央見張り台からすぐに見つかってしまう。

「看守の多くがロシア製のモシン・ナガンを装備しています。中央からの支給でないのは明らかですし、自前の装備にしても数が多すぎます」

これほどの重装備の監獄は網走くらいしか覚えがない。購入資金源はどこから流れてきた金なのか。それを突き詰めるのには骨が折れそうだ。
宇佐美はそこから今日までに得た内部の構造や組織構成の情報を兵に伝える。ひと通りの報告を終えたところで懐から一通の手紙を取り出した。

「これを、鶴見中尉殿に」

これはナマエ宛ての手紙だ。潜入を始めてすぐには中々手紙を書くことも出来なかったが、今はこうして隙を見つけてはこっそりとしたため、連絡役を仰せつかっている兵に預けることが出来ていた。
所在を伝えることは出来ない。だけど分かってしまわない程度に小樽より涼しい場所だとか、近くにどんな花が咲いているだとか、そんな些細なことを書き記した。
ナマエから返事を受け取ることも出来ないが、彼女なら一体どんな返事を書くだろうと想像を膨らませた。こんなに熱心に手紙を書くのは生まれて初めてのことだった。


9月某日。潜入調査に暗雲が立ち込めた。
門倉に豚舎で木箱を外に運び出すように言われ、助言の通りに刀を少し離れた場所に置き、木箱を探した。奥だと言われて踏み入ってみても、木箱なんてどこにも見当たらない。

「木箱はどこですか?門倉部長」
「行けばわかるよ」
「どれのことですか?もっと奥にあるんですか?」

どんどん奥に向かう。この奥には何か置いてあっただろうか。ふと、気が付くと物陰に囚人服を着た男が金槌を持って立っていた。「……か、門倉部長!」と囚人の存在を知らせようと振り向けば、もうひとり別の囚人が同じように金槌をもって立っていて門倉の姿はどこにも見当たらない。いつの間にか、足に引っかけないように置いておけと助言された刀も姿を消している。

「門倉部長どこですか!?」

ああ、そう言うことか。宇佐美はもたらされた状況を正確に理解した。どうやら自分が内通者であるということに気付かれてしまったらしい。
前方の囚人が「苦しませるなと言われている…大人しくすりゃ一発で仕留める」と言った。随分とお優しいことだ。
宇佐美は素早く眼前の囚人の手を掴み、そのまま金槌で左顎を殴る。即座に振り返って、奪い取った金槌で背後の囚人の右側頭部を殴打した。それから最初に殴った方の囚人の後頭部にそれを振り下ろすと、血飛沫を上げる男たちの頭部の形がわからなくなるまで何度も殴り続けた。

「ふう…門倉部長ぉ?」

外に控えているだろう門倉の気配はもうない。逃げられた。そしてここにはもういられない。正体が露見してしまった以上、囚われる前に逃げなければ。囚人に応戦する際に落とした帽子を拾って被り直す。

「まいったなぁ。みんなにバレちゃってるのかな?」

宇佐美は血で汚れた制服を脱ぐとその中に金槌を隠し持った。流石に洋袴は脱げないから、付着した血の上を泥で汚す。何食わぬ顔で門番のところへ行けば「どうした?新入り」と尋ねられたため「養豚場で転んじゃいまして。着替えてこないと…」と適当な言い訳を口にした。
「ドジだなぁ」と笑う門番に見つかってしまわないようにその奥を見ると、ガラス窓の向こうにマキシム機関銃が見えた。

「あと少しで俺は交代だから戻ってくる時は自分でそいつに説明しろよ?」
「はい、わかりました」

門番を務める男はモシン・ナガンを手にしている。宇佐美はそこで出来うる限りの武器の情報を目に焼き付け、そのまま門をすり抜けて鏡橋を渡った。
橋を渡り切るところでずるっと上着から金槌を取り出す。ここまでくれば無用の長物である。地面に落とせば囚人を殴った時より重い音を立ててその場に留まった。

「門番はまだ僕の正体を知らなかったみたいだ。ヨカッター」

門番にまで知られていたらあそこでもう一人殺さねばならなかった。銃でも撃たれようものなら門番は殺せても他の看守連中がすぐに集結してしまう。一人二人ならまだしも、あまりの多勢に無勢は御免被りたい。

「でもここでもっと調べることがあったのになぁ。門倉部長をみくびっていた…」

門倉に気づかれたのは誤算だった。そんな能力があるとは到底考えておらず、脇が甘かったかもしれない。
ここから鶴見たちと根室で合流しなければ。さてその時にことの顛末をどうやって説明しようか。はぁ、と宇佐美は吐息を漏らした。

「鶴見中尉殿に叱られてしまう」

もう数ヶ月顔を見ていない鶴見のことを思い浮かべる。内通者だと露見してしまった失敗にはどんな制裁が加えられるのだろう。想像するとドキドキ胸が高鳴ってしまった。


屈斜路湖を経由する内陸の順路で宇佐美は根室に向かった。丁度数日前に鶴見たちが到着しているらしい。拠点として使っている建物に向かうと、執務室用に使っているだろう洋室に鶴見、月島、鯉登、二階堂が揃っている。
宇佐美は網走監獄の地図を書き起こしている鶴見のそばに直立し、報告を始めた。

「ロシア製小銃は網走監獄の看守全員に行き届いており、予備の銃や弾薬も豊富のようでした」

看守の人数も、いかに凶悪犯を捕らえる網走監獄とはいえ多すぎる。あれは正規の手段で雇っている人数では到底ない。殆ど犬童の私兵のような扱いを受けていると言っても過言ではないかもしれない。
そして宇佐美が間諜であることを数カ月で見抜いた。あれはもとより周りの人間すべてを疑ってかかっているのだろう。それは、金塊を狙う第七師団を警戒しているからだ。

「…で、その武器を保管している場所を探る前に正体がバレてしまったと。そういうわけだな?宇佐美上等兵」

鶴見がひょいっと万年筆を上げてみせる。ビクッと肩が震えた。鶴見は月島に宇佐美を椅子へ座らせるよう指示し、グッと眼前まで迫って溢れそうな瞳を見下ろした。

「貴様を看守として潜入させるためにどれだけ手間がかかったか分かってるのか?」

近い、近い近い。鶴見の美しいかんばせがすぐ間際にあることにダラダラと汗をかき、鼓動が高鳴る。鶴見はそれを知ってか知らずか…いや充分に理解している上でじっと必要以上の近距離を保ったまま、宇佐美の頬へと万年筆を滑らせた。

「このホクロにこうしてこうして身体を描いて……走らせてやる!!」

ホクロを頭に見立てて左の頬に棒人間を描き、もう片方のホクロも走らせてやるとそちらにも身体を描き加える。隣でキャキャッと二階堂が笑い、その奥からものすごい形相で鯉登が宇佐美を睨みつけていた。

「ふたりのホクロ君は一生懸命走る。だが…ホクロ君たちの距離が永遠に縮まることはない」

鶴見が芝居がかった様子でそう言うと、今度は二階堂が「がわいそう…」と顔を歪めた。
最後に会った時より随分情緒不安定に見える。二人組で認識していたのが片割れだけになっていると妙な平衡感覚の狂いを感じた。

「ところで…来る途中の屈斜路湖で杉元たちの情報を得たらしいな?」

頭がポーッとしてしまって「答えろ宇佐美ッ」と急かされ、やっと質問を頭の中に流し込んだ。

「はい、旅館にいた按摩からそれらしき連中の話を聞けました。すでに出発したあとでしたが」
「アイヌの少女も…ちゃんといたか?」
「いました」

北海道において、アイヌの存在はそう珍しいものではない。しかし、和人の男と旅をするアイヌの少女なんてのは鶴見たちの追う少女、アシリパに他ならない。
鶴見がにやりと口角を上げた。杉元達は間もなく網走監獄へ到着する。事態は上々だ。ここから我々は獲物を狙うシャチになる。

「…そうだ宇佐美、お前の任務がもうすぐ終わると話したら、ナマエ嬢が至極嬉しそうな顔をしていたぞ」
「そう…ですか」

出し抜けに掛けられた鶴見の言葉にどきんと胸が鳴った。目の前の鶴見のことで頭が一杯だったはずなのに、途端に思い出されたナマエの笑顔が当たり前のように宇佐美の心を揺さぶった。
網走からの手紙を、彼女はどんな顔で受け取っていたのだろうか。




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