08 花冷え


宇佐美が極秘の任務というものに発ってから二カ月が経過した。気が付くと、季節は夏になっていた。
宇佐美からの手紙が初めて届いたのは、この屋敷で別れてから一カ月後の6月のことだった。無事に目的地に着いたこと、小樽に比べても涼しい土地であることなどが書かれていた。
日本の国内にいるのか、はたまたそうではないのかさえわからなかったが、どうやら小樽より北の土地にいるらしい。返事が書けないのがもどかしくはあったが、宇佐美の見目に比べて男らしい筆致を見ることが出来ると、幾分か安心することが出来た。

「お嬢様、白湯でございます」
「おサヨさん、ありがとうございます」

使用人のおサヨが白湯を注いだ湯呑を持って部屋を訪れる。季節は夏になっているのに、酷い寒気に襲われる日がしばしばあった。
ナマエは処方された漢方薬を白湯で流し込む。少しだけ胸のもやが晴れていくような気がする。

「お加減はいかがですか」
「大丈夫です、お薬も飲みましたから」

ナマエは湯呑をおサヨに返し、にっこりと笑ってみせる。それを受けておサヨは眉尻をぐっと下げた。

「今日は、宇佐美様からのお手紙は届きましたか?」
「いいえ、今日は届いておりません」
「そうでしたか」

手紙の頻度はそう高くはない。極秘の任務に出ている間を縫って書いているのだから当然のことである。
どこでどんな任務に就いているかはナマエの知るところではなかったけれど、きっと危険な任務に身を投じているのだろうと思っていた。極秘、とはそう言うことだ。

「新潟の桜餅は、関東風なんだそうです」
「そうなのですね」
「はい。宇佐美様のお郷がそうだったと聞きました。なのにどうして、北海道では関西風なんでしょうねぇ」

ナマエは宇佐美との会話を思い出すようにそう言った。関東風、関西風というなら、関西以西が関西風、関東以北が関東風とわかれているように聞こえるけれど、北海道の桜餅は道明寺粉を使った関西風が主流だ。
気を紛らわすようにそんな他愛もないことを思い浮かべると、おサヨが「昔聞いた話ですが」と切り出した。

「大阪の商船がよく出入りしていたからと言われておりますよ」
「まぁ」

なるほど、これが本当ならば納得の理由かもしれない。まっさらな北海道は東京よりも先に大阪に影響を受け、それが些細な食文化にまで及んでいるということだ。
宇佐美はこのことを知っているだろうか。彼は平民の出身だけれど賢いひとだから、こんなことくらい知っているかもしれない。

「…会いたい」

気が付くと言葉が転び出てしまって、ナマエはハッとくちを塞いだ。まだ二ヶ月しか経っていないというのに我慢のできないことだ。
戒めるように口を一文字に結ぶナマエを、おサヨはまた眉尻を下げて眺めた。


夏の時期は、いつも調子がよいはずであった。
具合が悪くなるのは決まって寒くなる時期で、東京にいた頃からずっとそうだった。北海道は冬が厳しいけれど、空気の美しさと湿気の少なさから寒い時期でも比較的調子を崩すことは少なくなっていた。はずだった。

「ナマエお嬢様、私が代わりに…」
「いいんです。むしろ私に行かせてください。毎日屋敷にいるばかりでは体が動かなくなってしまいます」

手紙に使う便箋を選びに行きたいのだ。今も引き出しいっぱいに色々な種類を持ってはいるが、宇佐美にまた手紙を出せるようになったときにとっておきの便箋を使いたい。

「では、サヨも一緒に参ります」
「はい。ありがとう、おサヨさん」

流石に自分の体の具合が良くないのは自覚がある。そんな状態でひとり出歩こうというほどはわがままになれなかった。
おサヨと二人で花園地区にある紙問屋に向かうと、新しく仕入れたという便箋類を吟味する。輸入の洋式封筒も意匠を凝らしたものがいくつもあり、どれにしようかと迷ってしまう。
並の紙問屋に比べて種類が多いのは、ナマエが定期的に便箋類を求めて訪れているからであった。

「まぁ、この封筒素敵ですね」
「そちらは昨日仕入れたばっかりなんですよ。亜米利加からの輸入の品です」

東京の一等地は数年前にデパートメントストアというものが作られて呉服をはじめとする最先端の流行を一挙に見て回ることが出来るというが、この店もこと便箋類に関しては負けず劣らずの品揃えであった。

「では今日はこちらをいただいていきます」

この封筒にはどんな便箋が似合うだろう。今日はあいにく気に入るものはなかったけれど、また足を運んだ時に素敵なものがあればいい。
おサヨがいくつか店主と話をして、その間ナマエは店から通りを眺めていた。すると、通りに見知った顔が横切って思わず追いかける。

「月島様!」

そこを歩いていたのは着流し姿の月島であった。軍装でないということは休暇だろうか。声に立ち止まった月島はぎょっとして周囲を確認をし、素早くナマエの手を引いて商店と商店の隙間に隠れた。
ナマエは驚きのあまり声も出ず、結局何かを尋ねる前に「静かに」と月島に言われてこくこくと頷いた。

「手荒な真似をして申し訳ありません。現在私は任務で身分を隠しています。危険な任務ですので、ナマエ嬢が関わっていると思われれば危険が及ぶ可能性があります。どうかご内密に」

月島は論旨明快にそう言った。知らなかったとはいえ自分はとんでもないところを邪魔してしまったのだと理解し、ナマエは小さな声で「すみませんでした」と言って頭を下げる。

「いえその…そこまでしていただくほどのことでは…。とにかくこの辺りは今あまり安全とは言えません。どうか早急に屋敷へお戻りください」
「はい。心得ました。月島様もどうかご無事で」

月島は頷き、大通りとは反対の方向へと駆けていく。少しでもナマエと関わりがあると思われないためだろう。その時ちょうどおサヨの「お嬢様?」という呼び声がして、ナマエは踵を返すと大通りに向かった。

「お嬢様!いらっしゃらないから心配しましたよ!」
「ごめんなさい。その、子猫が横切ったので思わず追いかけてしまって」
「ああ、大事なくて何よりです」

おサヨにそう取り繕い、待たせていた馬車に乗って屋敷に戻った。
三日後、花園地区の東松屋商店に稲妻強盗と蝮のお銀が強盗に入り、銃撃戦になって多くの死傷者が出るという事件が起きた。新聞によると、逃走した稲妻強盗と蝮のお銀は「たまたま」近くにいたという第七師団の人間により殺害されたという。
月島を見かけたのは東松屋商店のすぐそばだ。あの油問屋は賭場にもなっているらしい。月島はまるで博打うちのような粗暴な風体であった。まさか、という考えが頭を過ぎる。

「ナマエお嬢様、宇佐美様からお手紙が届きましたよ」
「ありがとう、おサヨさん」

いずれにせよ、宇佐美もきっと危険な任務についているに違いないということは確信めいたものになった。
長細い封筒をぎゅっと握りしめる。どうか無事であってほしい。そう祈ることしかナマエには出来ない。

「では、お茶を淹れて参りますね」
「はい、お願いします」

おサヨが気を利かせて退室したのを確認してからそっと封筒を開く。手紙には、元気に過ごしているということと、ナマエの無事を案じるような文言が書かれていた。無事を案じているのはこちらだというのに、と目尻を下げる。
返事は書けないけれど、返事を書くならなんと書こうかといつも考えながら手紙を読んだ。一体極秘の任務とはどのくらいかかるのだろうか。一年、二年、もしかしたらもっとかもしれない。

「…それまで、私は…」

生きていられるのだろうか。
元々、10歳まで生きられないと診断されている身だ。今だってこうして生きているのが不思議なくらいなのだから、いつどうなってしまってもおかしくないということは自分が一番わかっていた。

「はぁ…寒い…」

自分の両肩をさすった。自分の我が儘ももう少しで潮時なのだろうか。
開いた手紙の筆跡を何度も何度も辿る。ああ、彼が好きだ。どうしようもなく好きなのだ。
離れていてもすぐに彼の眼差しや声や、抱き止められた腕の強さを思い出せるほど、ナマエの心の一等場所に座っている。彼以外の誰かがそこに座ることなどきっとあり得ないのだろうと思う。

「ごほっ…けほ、けほ…うっ…」

突然激しく咳き込み、ナマエはその場で上半身を折り畳む。八月なのに寒いだなんて。
自分の体のことは、自分が一番よく知っている。

「お嬢様、失礼しまーーお、お嬢様!?」

湯呑みを持って戻ってきたおサヨがバタバタとナマエの元に駆け寄った。口元を押さえて未だ咳き込むナマエの背中を何度も何度もさする。

「今掛かり付けを呼んで参ります!」

ひゅうひゅうと一旦咳き込むのが止んだところでおサヨは廊下から大声を出して他の使用人に掛かり付け医を呼んでくるように指示する。
咳き込んだことをきっかけに今度は胸が痛くなってきた。決められた薬だって飲んでいるのに、前に比べて発作は多くなった。

「は…はぁ…宇佐美、さま…」

なんて自分勝手なんだろう。自分の我が儘を何度も何度も心の中で嗤う。自分は臆病で、とんでもない卑怯者だ。


ナマエの病状は一進一退だった。
夏の時期というのに具合が悪いところをみるに芳しくはないが、今のところ入院をさせるほどの発作もない。
先日のような発作があれば数日間は床に伏すが、それも過ぎると多少は動けるようになる。動けるのに寝たきりでいるのは返って病気の進行を早めるからという掛かり付け医の推奨で、調子が良くなれば近くを散策するように心がけていた。

「ナマエお嬢様、花園公園はひとが多うございますよ」
「ありがとうおサヨさん。今日は調子がいいですから大事ありません」
「ご無理なさらないでくださいませ」
「はい。いつも面倒ばかりかけてしまってごめんなさい」

面倒だなんて、とおサヨが強く否定する。今日のように調子が良い日は多少人通りの多いところにも足を伸ばした。と言っても、屋敷からの移動は馬車ではあるけれど。
ここは初めて宇佐美と出かけた場所だ。もうあれが一年近く前になってしまうということに時の流れの速さを感じる。季節はもう秋の始まる9月になっていた。

「あら…あれは鶴見様かしら」

ふと、前方に見知った白い肋骨服を発見した。この街に駐屯している第七師団で肋骨服を着用している将校は鶴見しかいないはずだ。
しかし以前任務中と知らずに月島に声をかけて迷惑をかけてしまったことがある。声を掛けるべきがどうか悩んでいたら、ちょうど鶴見が振り返ってナマエに気がついたようだった。

「これはこれはナマエ嬢、今日はお二人でお散歩ですかな?」
「鶴見様、ご無沙汰しております。今日は天気が良いですから、少し散策を」

鶴見に話しかけられ、ほっと胸を撫で下ろす。今日は話しかけても良いものだったらしい。隣に控えていた一等卒が大きな荷物を抱えている。何か必要なものを買い出し、だとして鶴見本人が出向いているのだろうか。

「随分大荷物でいらっしゃるのですね、お買い物ですか?」
「ええまぁ。少しの間小樽を離れることになりましてね」

新しい任務だろうか。そもそも部外者のナマエに鶴見の小隊が小樽に詰めているわけなど知る由もない。まさかこのまま戻って来なかったらどうしよう、という不安が過ぎる。

「宇佐美上等兵の任務ももうすぐ終わります。いつと日付はお約束出来ませんが」
「まぁ、本当ですか?」

それを聞いてナマエは胸を撫で下ろした。日付の約束はなくとも、鶴見がもうすぐと言うのならば一年も二年もかかることはないのだろう。

「鶴見様たちはこれからどちらに?…あ、すみません、機密ですよね」
「任務の内容は申し上げられませんが、これから根室に呼ばれておりましてね」
「根室ですか」

根室といえば小樽とは正反対の北海道の東の地である。当然ナマエは行ったことがないからどんな場所かは想像もできないが、ここから何日もかけて行かねばならない遠く離れた場所であることは知っていた。そんなところまで任務に行かねばならないなんて、やはり軍人というものは相当に大変な仕事である。

「どうぞお気をつけて」
「お気遣い痛み入ります。宇佐美上等兵の任務が終われば時間を作って足を運ばせますので」
「ありがとうございます。けれど、本当にどうかご無理なさらずに」

宇佐美に会えるのは嬉しい。叶うならば今すぐにだって会いたいと思う。一番は宇佐美の安全と無事だ。これほど長い間極秘の任務とやらに就いていたのなら、ナマエに会うよりも身体を休めたいと思うことだろう。
自分の我が儘の終わりのことを考えながら、ナマエは宇佐美の白い横顔を思い出していた。




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