08 い し き



ナマエの仕事はシフトの通り19時に終わった。平日は21時まで営業しているため、店内にはクローズまでシフトの入っている先輩の従業員が作業をしていた。
タイムカードを切って制服から着替えても尾形の姿はない。迎えに行くから待ってろって言ってたのになぁ。そう思いながらきょろきょろ見回す。

「…残業かな」

スマホを確認したけれど、尾形からのメッセージは入ってなかった。尾形は未だに一度もメッセージを寄越したことがない。
尾形ではないけれど通知がひとつついていて、開くと鯉登からのものだった。

『今日のデリバリーのコーヒーも美味かったぞ。また私からも注文させてくれ』

お気に召していただけたようで何よりである。デリバリーなんてしたことがないから全く勝手が分からなかったので、初めてが顔見知りの注文で結果的に良かったのかもしれない。
尾形と宇佐美が同僚だとは聞いていたが、まさか鯉登も同じ会社だとは思わなかった。妙な縁もあるものだ。

「てん、ちょうに…話して、おきますね…っと」
『宜しく頼む。そう言えば、ナマエは宇佐美と仲がいいのか?』

仲がいいのか?と言われるとそれは否だと思う。二、三回顔を合わせたことがあるだけで、しかもごく短い時間だ。鯉登のように連絡先を知っているというわけでもないし、彼のほうがよっぽど仲がいいと言えるのではないだろうか。尤も、その鯉登も学校の友人らに比べれば距離のある関係だが。

「そうでも、ないで、すっと」

ナマエはそう返し、時計を確認した。19時10分。これ以上何も注文せずに店に居座るのは邪魔になるだろう。混雑もしていないことだし、コーヒーでも飲んで待っていようとレジに向かう。

「あれ、ミョウジさん帰ってなかったの?」
「はい。ちょっと待ち合わせ?みたいな…」
「そっか。何飲む?」

すっかり暗記しているメニュー表をわざわざ眺め、期間限定のティラミスラテを注文する。こういうときに従業員割引が効くから、なんだかんだと新作が出るたびに飲むのが恒例になっていた。
お疲れさま、と退勤時に言われた言葉を同じ言葉をかけられながら、店の隅のなるべく他の客の邪魔にならないような位置に座った。
店内にいるのは仕事終わりの暇を楽しむOL、まだ終わらない仕事に精を出すサラリーマン、どうしてこんなオフィス街にいるのかよくわからない学生など、コアタイムを過ぎているから客層はばらついていた。

『宇佐美に何かされたらすぐ私に言えよ』

注文の作業中に来ていた返信に思わず笑った。
何かって、同僚にあのひとは何だと思われているんだろう。同じようなことを尾形にも言われたことがある。何かもなにもそんなに関りがあるとも思えないけどな、と思いながら、鯉登には素直に「わかりました」と返信をした。
ちらり、時計を見る。19時30分。

「…連絡、してみようかな」

ストローから口を離し、ぽつんと溢す。
そもそも尾形はどうして今まで一度も連絡を寄越さないんだろう。会うときはいつも何となく尾形がカフェまで顔を出すか、コインランドリーでばったりといった具合だった。初めて会った日はQRコードまで出して有無を言わさず交換させたくせに。
スマホをジッと見つめる。メッセージアプリのトーク履歴画面は直近で連絡を取った順に並ぶ。一番上はまさに今連絡をとっている鯉登で、その下に高校時代の友人、前の店舗で仲が良かった年下の女の子、大学で知り合った同じ学科の子、叔母の順で並んでいて、尾形の名前はどこにもない。当たり前だ。メッセージのやり取りをしたことがないんだから。
勇気を出してホーム画面から友達の文字をタップする。上から数えた方が早い場所に「尾形百之助」の名前がある。

『お疲れ様です、カフェで待ってますね』

それだけを入力し、送信ボタンに指をかざして躊躇って引っ込める。どうして他の人にはポンポンと連絡が取れるのに、尾形にだけは躊躇ってしまうんだろう。ずずずず。注文したティラミスラテはもう残り少しになってしまった。
もしかしてすっぽかされたんだろうか。迎えに行くとは言われていたけれど、そもそも迎えに来られる理由もないのだ。
だからといって、それならそうと連絡の一本でも入れてくれればいいじゃないか。何のための連絡先の交換だったんだ。今度会ったら絶対一言文句を言ってやろう。

「ナマエ!」

そうふてくされていた時だった。ドアが開くのももどかしいほどの様子で息せき切らした尾形が姿を現した。ナマエの席まで歩み寄ると、はぁはぁと息を整えながら「悪い。急な残業だった」と言った。

「もう来ないのかと思いました」
「馬鹿たれ、俺が迎えに行くと言ったときは必ずそうしたろうが」

すっかり息を整え、尾形が言った。
そうだ。尾形は嘘つきなところがあるけれど、迎えに行くから待っていろと言ったときはいつだって必ず迎えに来た。あの時は何と言われたんだったか。確かあの時はーーあの時?

「まぁ、待たせて悪かった」

あの時、あの時ってなんだ。
自分の頭の中でぐるぐると何かが絡まっている。その向こう側に何かが見える。あれは何だ。

「ナマエ?」
「えっ、あっ、ごめんなさい。大丈夫です、これ飲んでたので…」

声をかけられてハッと思考を引き寄せる。もうすぐ空になってしまいそうなプラスチックのカップをひょいっと見せると、尾形がそれをじっと見てから上体を折り曲げてストローをぱくりと咥えた。
あっ、と声を上げる間もなく残り少しのティラミスラテは尾形に飲まれてしまって、尾形は口を離して「薄い」と文句を言った。

「…そりゃ、氷溶けちゃってますからね」
「まぁ悪くない」

尾形は髪をナデナデと撫でつけ、ナマエについてこいとばかりに踵を返す。相変わらず言葉が足りないなぁと思いながらカップをダストボックスに持って行こうとしたとき、レジの先輩と目が合った。にこにことこの上ない笑顔で手を振られて、ああ、さっきのはやっぱり見られていたのかと居たたまれなくなって飛び出すように店を出た。

「尾形さんのせいですよ」
「何がだ?」

尾形の背中に追いついてそう言うと、尾形は本当に意味が分からないとばかりに首をかしげている。何がって、先ほどの一連の行動に決まっている。間接キスだなんて言葉にしてしまえば中学生みたいで子供っぽく思えたけれど、実際されたら気になるに決まっている。

「勝手にひとのを飲むやつがありますか」
「ひとのをって言ったって氷の溶けた薄いコーヒーだろうが。大袈裟だな」

そういう問題じゃない。そうは思うも指摘するのは恥ずかしくて、ナマエはぐっと押し黙った。
すると、数秒遅れて尾形が「ははぁ」と独特の笑い方で笑い、にやにやとナマエを見下ろした。

「なんだ、意識してんのか」
「べ、別にそんなんじゃ…」

あるのだけれど。肯定は出来なくて、こんな言い方認めたも同然なのにと思いながら口先を尖らせる。
子供っぽいと思われようが仕方がない。実際に尾形よりは随分年下のようだし、まだ成人もしていない。

「だって…しょうがないじゃないですか。あんなの、したことないし」

結局真っ赤になってそう白状して、もごもごと語尾を濁らせる。
意識しないようにしていたけれど、この男は存外人を惹きつける顔立ちをしているのだ。出逢い方が特殊だったせいで抜け落ちていたが、ジッと観察するような猫の目も、心臓を撫でていきそうな低い声も、ナマエをどぎまぎさせるには充分すぎる。

「おまえ、今まで彼氏は?」
「い、いませんけど…」

彼氏どころか、好きなひとというのも相当怪しい。なんせ初恋は5歳の時に隣に住んでいた面倒見のいい高校生のお兄さんだった。それきりとんとそんな話はないのだ。
きっと馬鹿にされる、と思って「悪いですか」と言えば、穏やかな声で「いや」と返ってくる。

「いいな、おぼこいのも悪くねぇ」

いくぞ。そう付け足して、尾形はナマエの手を握って歩き出す。想像よりも尾形の手は分厚く、硬く、そして温かかった。
暴れそうな心臓を必死に押さえつけ、ナマエは少し早歩きで尾形について歩いた。


連れてこられたのは自宅の最寄り駅から一つ手前で降車する町で、改札を潜るときに手は離れてしまった。それが惜しいような、ホッとしたような、妙な心地になる。
駅から徒歩五分で到着したのは真っ赤なのれんのかかった町中華の店だった。

「中華料理だ!」
「今日の晩飯はここだな」

何となくそんな気はしていたけれど、今日も夕飯をご馳走してくれるらしい。毎回申し訳ないとは思いつつも学生の身分にはありがたい話だ。
尾形の背を追って店内に入ると、七分丈のパンツとロンTの上からエプロンをつけるという、いかにもこの中華料理屋の娘なのだろうという風貌の若い女が「お好きな席へどうぞー」と声をかけた。ふたりで奥から二番目のテーブル席に座る。

「ここは何が美味しいんですか?」
「ここはチャーハンだな。あと春巻きも美味い」
「じゃあ私チャーハンと春巻きにします」

無事尾形からおすすめを聞き出すことが出来たのでそれに従うと、尾形が水を持ってきた店員にチャーハンふたつと春巻き、それから餃子を二枚注文する。
餃子も美味しそうだなぁ、と考えていたら見透かされたように「ひとつやるよ」と言われて顔が赤くなった。食い意地が張っていると思われたくない。いや、実際そこそこに張っている自覚はあるが。
しばらくで注文のチャーハンと春巻き、餃子が運ばれてくる。どれもほかほかと湯気をあげ、香ばしい匂いが食欲をそそる。

「いただきます!」

チャーハンをれんげにすくい、そのままぱくりと口に運ぶ。ごま油とオイスターソースの香りが鼻に抜けた。

「おいひい!口に入れた途端にほろほろ解けていく感じで…さらっとしてるのに味が濃厚なのはオイスターソースのおかげですかね?具にあさり使ってるのも珍しいし、あさりがぷっくりしててすごくジューシーです!」
「気に入ったか?」
「はい、もちろん!」
「そうか」

尾形はいつも通り楽しそうにナマエの食レポを聞き、そうやっていつも聞いてくれているからナマエも尾形と食事をして食レポまがいの感想を言うのが恥ずかしいどころか心地よくなっていた。

「おまえ、鯉登と知り合いだったのか?」
「知り合いというか…うちの常連さんだったんですよ。一回落とし物拾ってあげたことがあって、なんかそれから顔見知りというか…」

まさか尾形さんと同じ会社だなんて思いませんでした。そう付け足すと、尾形はあまり表情の読めない顔で「ふぅん」と返事をする。

「あいつの連絡先知ってんだろ?」
「あ、はい、一応…」

何か不味かっただろうか。とはいっても時期からして明らかに彼の社用スマホではないし、服務規程に抵触することはなさそうだが。そう思いながら「まずかったですかね?」と思ったままに尋ねると、尾形は「俺には連絡してこねぇだろ」と少し拗ねた調子で言った。

「えっ、連絡して良かったんですか?」
「何のために連絡先交換したと思ってんだよ」

それはこちらのセリフだ。確かに「連絡する」と言われたことはないが、一回も何の音沙汰もないから連絡してはいけないものかと思っていたのに。

「尾形さんから連絡ないし、連絡しちゃいけないのかと思ってました」
「まぁそうマメな方じゃねぇが、返信はする」
「じゃあ今度から連絡します」
「おう、そうしろ」

それは例えば、用事がないときに連絡をしてもいいということだろうか。そこまで聞くには勇気が足りなくて、ナマエは誤魔化すようにぱくりとチャーハンをくちにする。
オイスターソースとあさりを使っているからチャーハンは海鮮風で、磯の香りがまるで潮干狩りみたいだ。

「ナマエ、ゴールデンウィーク予定あるか?」
「ゴールデンウィークですか?特に今のところバイトくらいですけど…」

出し抜けに尾形がそう言った。
二週間後に迫るゴールデンウィークの予定は真っ白だった。
大学の予定を入れれなくもなかったが、なんとなくタイミングを逸したのと、ひとつだけあった友人と出かける約束は彼女に家の用事が入ってしまったことでなくなったのだ。

「じゃあ、二日くらい問題ないな」
「え、何の話です?」

相変わらずの言葉足らずで言われて一体何の話か。
ナマエがこてん、と首をかしげると、尾形は一口チャーハンを放り込んで咀嚼して飲み込んでから言った。

「キャンプ」
「キャンプ?」

主語も述語もなく単語だけが返ってきた。相当勝手なイメージだが、尾形にそんなアクティブなイメージが湧かない。キャンプでバーベキューをしているより同じ金額を使って焼肉屋にでも行きそうなタイプだと思っていた。それが存外アウトドア派らしい。

「昔の馴染みから声かけられてんだ」
「え、昔の馴染みって、そんなところに私が行って邪魔じゃないですか?」
「問題ねぇよ」

キャンプらしきものは小学校の林間学校で経験があるが、それっぽい自然のある場所で課外活動をしたというだけであって、ナマエはバーベキューも経験したことがなかった。正直かなり興味はある。しかし最近知り合ったばかりの自分がそこに参加するのは邪魔にはならないのか。
尾形は問題ないというけれど、大人ばかりのところに入って行くというのも正直気が引ける。

「私みたいな子供が混ざって平気ですか?」
「安心しろ。もっとガキも来るぞ」

もっと子供って、まさかファミリーか。それならもっと場違いな気もする。そうこうしているうちに尾形がスマホをたぷたぷと操作して、一分も立たないうちに返信の音が鳴る。

「おまえも参加するって連絡しといた」
「えっ!」

どうせ来るだろう。と言わんばかりの態度で尾形はもきゅもきゅチャーハンを食べ進める。相変わらずの強引さだが、それが嫌とは思わないのだから仕方がない。
尾形さんの昔馴染みってどんな人たちだろうなぁ。少し不安なような、楽しみなような、そんな気持ちになりながら一日分は先輩にシフトを交代してもらえるか聞いておかないとな、とすっかり乗り気になっていた。





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