07 お と な



今日も今日とてバイトに向かう。いつも通りバックヤードに入る前、そうだ、と思ってオフィスビルの1階の、ビルに入居している企業のネームプレートが掲げられているところを確認しに行った。ずらりと並べられるプレートをひとつずつ確認する。

「あ、27階だ」

「第七商事株式会社」と書かれた銀色のプレートが付いているのは27階だった。鯉登の言っていた会社はやはりここに入っているらしい。
このオフィスビルの家賃はいくらか知らないが、これだけの都心の高層オフィスビルに居を構えるとなればこの第七商事株式会社とやらはきっと大きな会社に違いない。

「…そういえば、尾形さんもやっぱこのオフィスビルの会社にいるのかな…」

ふと脳裏を掠めたのは尾形のことであった。何度もスーツ姿で見かけているし、同僚だという宇佐美も何度か来店しているのだから、聞いたことはないけれどこのオフィスビルのどこかで働いていると考えるのが自然だった。

「ナマエちゃん。何か探してるの?」

不意に背後から声がして「ひっ!」という悲鳴とともに振り返る。想像以上の至近距離に立っていたのは宇佐美だった。
ナマエはなとか呼吸を落ち着けながら「こ、こんにちはぁ」と挨拶を吐き出す。

「はいこんにちは。で、こんなネームプレートなんか見てどうしたの?」
「あ、いえ、常連さんの会社のお名前を聞いたので、ちょっと興味本位で…」
「へぇ。ちなみにどの会社?」

宇佐美は興味もなさそうな様子で話を続ける。興味がないなら続けなくても良いのにと思ったけれど口に出せるはずもない。

「第七商事さんってところです、27階の」
「第七商事?」
「は、はい…」

予想外にも宇佐美がピクリと反応した。何かまずいことをいただろうか。そんなはずがない。あのカフェの常連なんてほとんどがこのオフィスの利用者だし、27階の第七商事の社員の一人や二人、常連であったっておかしなところはひとつもないのだ。それに、この会話で個人情報など漏れようはずもない。

「そういえば、君の店ってコーヒーのデリバリーやってる?」
「えっと、やってないです…」
「あっそう。じゃあ今度注文するからよろしくね」
「えっ!」

やっていない、という言葉は一切効力を持たず、宇佐美はそう言ってひらひら手を振るとエレベーターホールに向かって歩いて行ってしまった。文脈がおかしい。会話のキャッチボールが成立しない。

「あの、ちょっと、宇佐美さん…!?」
「事前に予約はするよ」
「そういうことじゃなくて!」

エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。爽やかで親切そうな人だと思った第一印象はすっかり葬り去られ、尾形さんの同僚のよくわからない人というレッテルを宇佐美に貼った。


どうせからかわれて言われただけだ、と高を括っていたのがまずかった。一週間後、出勤したらにこやかな調子で宇佐美が店長と話していたのだ。
ナマエに気づいた宇佐美はことさらにこやかに手を振り、それがあまりに爽やかな笑みでなんとなく嫌な予感がする。それから店長と二、三、言葉を交わし、宇佐美は爽やかな笑みのまま退店していった。

「ミョウジさんおはよう」
「おはようございます」

朝というわけでもないのに出勤時に使うことの言葉にももう随分慣れたものだ。エプロンを身に着けてカウンターに立っていると、店長が「ちょっといいかな」とナマエを呼んだ。返事をしながら、店頭を先輩スタッフに任せてバックヤードに向かう。

「コーヒーの配達をお願いしたいんだけど」

出た。と思った。あの宇佐美の妙に爽やかな笑み、絶対に何かがあると思ったのだ。一週間前「君の店ってコーヒーのデリバリーやってる?」から始まる意思疎通の取れていない会話もあたことだし、言われるならそんなことだろうと思っていた。

「は、配達ですか…?」
「そう。実は前々からオーナーとデリバリーのことは話してたんだけどさ、ほら、うちの店なんかはオフィスビルの一階だし、ミーティングとか来客とかで結構需要あると思うんだよね」
「はぁ…」

大手のチェーン店などでは、ポットでコーヒーをデリバリーするサービスをしているところが多い。ここはチェーンとはいえそう規模は大きくなく、それゆえにそこまでの細かいサービスには至っていなかった。

「配達するってポットとかどうするんです?」
「それがちょうど発注してたのが昨日発注したのが届いたんだよねぇ」

我ながら悪運が強すぎる。よりにもよって昨日届くだなんて。逃げ場を失ったナマエは嬉々としてデリバリーコーヒーのサービスプランについて話す店長に相槌を打ち続けた。
問題は配達先だ。注文主は恐らく宇佐美だろうと推測出来るから、これから向かうのは宇佐美の勤める企業ということになるだろう。

「あの、配達ってどこの会社に行けばいいんですか?」
「27階の第七商事さんだよ」

第七商事、と言われてピキンッと身体が固まった。第七商事と言えば鯉登の働く企業である。このことから数珠繋ぎに判明するのは、宇佐美が鯉登と同じ会社だということだ。
二人とも同じオフィスビルで顔を合わせるのだからなくはない話だが、妙な縁もあったものだ。だからあの時「第七商事?」と少し驚いたようにしていた理由はこれだったのかと合点がいった。

「お客さん第一号だから、よろしくね!」
「は、はい…」

任せたよとばかりに肩をぽんっと叩かれ、ナマエは反射的にそう返事をする。

「第七商事の営業部の宇佐美さん宛てね」

注文主はやっぱり宇佐美のようだ。

それから指示の通りにポットにドリップコーヒーを淹れ、テイクアウトの提供に使っている紙コップとミルクとシュガーをカゴでできたバスケットに用意する。「配達行ってきます」と声をかけて、カウンターの先輩に見送られながらエレベーターホールへ向かった。
数人のスーツの人間に混ざりながらエレベーターに乗り込み、27階のボタンを押す。途中で何人かエレベーターを降りてようやく27階の番がきた。
小さい電子音がして扉が開くと、一緒に乗っていた小柄なサラリーマンが「開」のボタンを押してナマエに先に降りるよう促す。ナマエは「ありがとうございます」と小さく会釈をしてエレベーターを降り、サラリーマンはそのまま乗っていくと思いきや同じ27階のフロアでエレベーターを降りた。
第七商事のひとだろうか、と思いながらナマエはきょろきょろと総合受付を探す。

「弊社に何かご用ですか」
「えっ…」

不意に声をかけてきたのはその小柄なサラリーマンで、やはり第七商事の社員らしかった。せっかく声をかけてもらったのだから聞いてしまえ、とナマエは口を開く。

「あの、1階のカフェの者なんですが、第七商事の営業部の宇佐美さんからデリバリーのご注文をいただいてまして…」
「そうでしたか。良ければ案内します」
「ありがとうございます」

ナマエはそのサラリーマンの後ろをついてフロアを歩いた。総合受付はガラス張りの大きな扉に金色で第七商事と書かれている。まだ大学生になったばかりのナマエにとって会社の中に入るなんて滅多にないことで、ナマエは緊張しながらその敷居をまたいだ。

「月島ァ!」

聞き知った声がしてその方向をハッと見る。鯉登の声だ。ナマエを案内していたサラリーマンが「何ですか、鯉登さん」と返事をしていて、この男が鯉登のフレンチレストラン行きを止めたツキシマだったのだとわかった。
呼び捨てにしているがどう見ても月島のほうが年上だ。

「ここの書類なんだが…む、ナマエ?」
「こ、こんにちは…」

駆け寄ったところで鯉登がナマエに気がつき、ナマエはぺこりと頭を下げる。「お知り合いですか」と月島が鯉登に尋ねて鯉登がそれを肯定した。

「どうした、こんなところまで…」
「えっと、コーヒーのデリバリーを注文いただきまして…」

ナマエがそう言いながらバスケットをひょいっと上げてみせる。ちゃぷんとポットの中のコーヒーが揺れた。そろそろこれも重くなってきたから早いところ届けてしまいたい。

「あの店はデリバリーもやっているのか?」
「やってるというかやる予定というか…」
「よくわらんが…まぁいい。注文は誰からだ?声をかけてきてやろう」
「営業部の宇佐美さんです」
「宇佐美だと?」

途端に鯉登の声が嫌そうに歪む。整った顔がぐっと何か苦いものでも噛み潰したような顔になった。当然だが鯉登と宇佐美の関係などナマエが知るわけもない。そう嫌そうにされても対処に困る。その時だった。

「あ、来た来たナマエちゃんこっちだよ」

ひょっこりとその後ろから宇佐美の声がした。社内だからかジャケットは着ておらず、ワイシャツ姿の多少軽装な宇佐美が姿を現す。

「あ、宇佐美さんお待ちどうさまです。ご注文のドリップコーヒーお持ちしました」
「ありがとう。休憩室使ってもらっていいから、淹れてもらえる?」
「えっ」

届けるまでが業務じゃないのか。と思いつつ、そう言えばそのあたりの仔細は店長から聞いていないことに気が付いた。
こっちこっち、と手招かれるまま、ナマエは鯉登と月島に「ありがとうございました」と礼を言って宇佐美のあとを追いかけた。

「僕がデリバリーサービス利用者第一号でしょ」
「そりゃあまぁ…普段やってないですから」
「相談しに行ったら出来るって言われたんだもん」

タイミングがいいのか悪いのか。店長が乗り気でかつ備品の用意が整ったときに宇佐美が話を持ってきたのだろう。
ナマエはこっそりと社内を見回した。白いデスクに衝立が立てられ、それぞれにパソコンが並ぶ。ホワイトボードには名前入りのマグネットがくっつけられていて、それから掲示スペースのようなところに社内行事のお知らせが貼られていた。
スーツやオフィスカジュアルの格好に身を包んだ大人たちが忙しなく働いている。そのうち数人がナマエに視線を寄越す。

「はいここね。取り合えず営業部の連中に声かけてくるから、まぁ普段通りコーヒー淹れて」
「わかりました」

デスクまでは持っていかなくてもいいらしい。あの忙しないひとの中を縫ってコーヒーを運ぶなんて怖くてやりたくない。そもそも普段だってセルフサービスのようなもので、客の席までコーヒーを運ぶことも殆どないのだ。
ナマエは八人掛けのテーブルの隅に立ち、紙コップを並べてコーヒーを注いでいく。今日の注文は10杯分である。とぽぽぽ、と黒い液体を注いでいたら宇佐美が男を二人連れて戻ってきた。

「あ、下のカフェの子」
「本当だ」

同じ声が二回聞こえてハッと顔を上げると、同じ顔が二つ並んでいる。どうやら双子らしい。ナマエは「こんにちは」と挨拶をして頭を下げた。

「あれ、君ってもしかしてーー」
「はいはい二階堂たち。細かいことはいいからコーヒー、営業に配って」

双子の一人が何かを言いかけたのを宇佐美が遮り、どこから持ってきたのかトレイをそれぞれにひとつずつ渡す。「ナマエちゃんこの上にのっけて」と指示され、右のトレイに4つ、左のトレイに4つ乗せたところで宇佐美からストップがかかる。

「鶴見部長には僕が持っていくよ」

宇佐美はそう言って一杯分のコーヒーを残し、二階堂と呼んだ双子の背を押しながら鶴見部長用のコーヒー片手に休憩室を出ていく。双子はちらちらとナマエのことを見ていて、わけもわからずにナマエひょこっと会釈した。
手持無沙汰にはなったが、まだコーヒーが一杯残っている。離れるわけにも行かないと思いながら立っていると、ものの数分で宇佐美が戻ってきた。

「お待たせ。はいこれ」

そう言いながら宇佐美が差し出したのはパックのりんごジュースで、ナマエは反射的にそれを受け取る。それから椅子のひとつに腰掛け、ナマエにも座るように促した。

「僕ここで飲むから、ナマエちゃんもそれ飲んでいきな」
「えっ…でも仕事中…」
「あの店長ならちょっとくらい休憩してっても怒らないでしょ」

確かにそれくらいで叱られることはないだろうが、と思いつつ「ん」ともう一度着席を促す宇佐美に妙な強制力を感じてナマエはおずおずと椅子に座った。

「い、いただきます」
「どうぞ」

どうして初めて来た会社の休憩室でりんごジュースを飲んでいるのか。ストローをじゅっと吸い上げるとりんごの果汁の甘さが広がる。
向かいに座る宇佐美がじっとナマエを見ている。特徴的な瞳はどうにも強い力を感じ、ナマエはさっと視線を逸らした。

「おい宇佐美!」

不意に、休憩室の扉がバンっと勢いよく開いて男が駆け込んでくる。何事だ、と肩を揺らしながら扉を見ると、そこにいたのは焦ったような様子の尾形だった。宇佐美は予測していたかのように「おかえり百之助」と平然と言ってのけた。

「お、尾形さん…!?」

そうだ。第七商事という名前と宇佐美に気を取られてすっかり抜け落ちていたが、宇佐美が勤める企業ということは同僚である尾形が務めているということでもある。
尾形はずんずんと宇佐美に向かって間合いを詰め、ヤクザかと思うほどの距離まで顔を近づけると「何勝手してやがる」と宇佐美を攻めた。かと思うほど、というよりほぼヤクザだ。

「別に僕は美味しいカフェでコーヒーのデリバリー頼んだだけだけど?」
「しらばっくれるなよ。どうせナマエに持って来させろとでも言ったんだろ」
「さぁそれはどうだったかな」

今にも喧嘩の始まりそうな空気に耐えられず、ナマエは思わず「け、けんかしないでください…!」と声をかけた。言ってしまってから子供の喧嘩の仲裁のようなことを口走ったと恥ずかしくなる。
尾形は詰めていた状態から身を上げ、今度はじっとナマエに向き直る。

「俺のぶんは?」
「えっ!」

そうは言われてもポットの中のコーヒーは注ぎきってしまった。用意しようにもここではどうしようもない。
ナマエがあたふたとしていると、宇佐美が向かいで指折り十人の名前を上げる。

「鶴見部長、僕、洋平、浩平、岡田、野間、三島、玉井さん、月島主任、鯉登のボンボン。はい、ぴったり十人。百之助の分はないよ」
「宇佐美てめぇわかっててやったろ」
「心外だな。百之助は帰社遅いって言ってたから余らないように計算してやったのさ」

宇佐美と尾形は仲が良いのか悪いのか、ぽんぽんと小気味良く言葉を交わす。どのくらいの付き合いかはわからないけれど、ずいぶん長い付き合いのそれに見えた。
ちらりと時計を見るとそこそこの時間が経過していて、ナマエは依然睨み合いを続ける二人に向かって「あの…そろそろお店に…」と口にすると、宇佐美が「ああ引き止めちゃったね」と言ってナマエに退出のタイミングを与えた。

「ナマエちゃん、またデリバリー頼むね」
「ふざけんな宇佐美。勝手なことしてんじゃねぇ」

どすっと宇佐美が肘で尾形の腹を突き、尾形は応戦するように手の甲で宇佐美の胸元を叩く。仲が良いのか悪いのか、息は合っているように見えた。

「あー、エレベーターのところまで送る」

そう申し出る尾形に付き添われ、来た時と同じに忙しなく大人たちが働く中を通り抜けてエレベーターホールに向かう。到着を待っていると、尾形がナデナデと髪を撫でつけながら「今日の退勤時間何時だ」と尋ねた。
きっとこれは会いに来てくれるんだろうなぁと思いながら、ナマエは「19時です」と答えた。

「迎えに行くから待ってろ」
「はい」

迎えに来られる理由なんてないくせに、尾形が会いに来てくれるというのがくすぐったくって胸がじんわりと温かくなるのを感じた。





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