06 ら ん ち



大学の授業が本格的に始まり、埋まっていくスケジュールの合間を縫ってバイトを入れた。高校の時先輩たちに聞いていた通り、一年二年の間は結構忙しくなりそうだ。
鯉登との約束は、それをさらに縫うような日に取り付けた。結局店は鯉登任せになって、時間が経てば経つほどもう礼なんかいいのにと思ったが、実際予定の日が決まるとやっぱり少し楽しみだった。
ナマエは少し綺麗めのパンツにカットソーを合わせ、どこにつれて行かれても大丈夫だぞ、と意気込んで迎えた当日。

「こ、鯉登さん…?」
「ん?どうかしたか?」

どうかしたか、じゃない。確実にどうかしてる。連れてこられたのは黒く周りを鏡のように反射する外壁の、どこからどう見ても自分には縁のなさそうなレストランだった。

「いや、どうもこうも…」
「安心しろ、予約は取ってある」
「そういうことではなくて…」

ナマエの抗議など聞く耳も持たず、鯉登は意気揚々と扉に手をかける。ナマエに先に入るよう促し、気後しながらも敷居を跨いだ。
するとウェイターがそそと寄ってきて鯉登は「予約している鯉登だ」と告げるとあれよあれよという間に席へと案内されてしまった。
ナマエが反応出来ずに呆けていれば、鯉登は首を傾げて問いかけた。

「うん?イタリアンは嫌いだったか?」
「あ、そこじゃなくて…」
「ならよかった。いつものフレンチの店と迷ったんだがな、月島に聞いたらフレンチはやめておけと言われたんだ」

鯉登の発言を聞いてゾッとした。イタリアンでこの店に連れてこられているのだから、フレンチなんてとんでもない。ツキシマさんなる人物が誰だかわからないが、フレンチをやめておけとアドバイスしてくれたことに感謝した。欲を言うなら、もっとライトな、気軽に入れる店にしておけと言っておいてほしかったところだが。

「好きなものを頼んでくれ」

鯉登は「さあ」と促すが、こういうイタリアンレストランで普通に単品の注文をするのだろうか、はたまたランチコースなどがあるのだろうか。考えたところで正解などわかるわけがなく、ナマエはもごもご口籠りながら正直に事態を告白することにした。

「えっと…ご、ごめんなさい、こんないいお店きたことがなくてさっぱりわからないんですが…」
「む、そうなのか?では私が選んでやろう」
「お願いします」

鯉登が代わりに注文してくれることになり、ほっと胸を撫で下ろす。少なくとも彼に恥をかかせてしまうことは避けられるらしい。
鯉登がウェイターを呼びつけ、テキパキと注文をしていく。やはり単品の注文ではなく、ランチでも前菜らしきものからメインから選ぶようだった。

「大学はどうだ?」
「あ、はい、まだ始まったばかりでって感じですけど、結構楽しいです」

約束を取り付けるメッセージの途中で春から大学生だと伝えていたからだろう、会話のとっかかりのようにそう聞かれた。
そういえば、最近自分もシフトに入れていないけれど、それにしても鯉登を店で見かけないことに気がついた。あれほど決まったように来ていたのに。

「鯉登さんは最近お店にいらっしゃいませんね」
「ああ、4月からは正式採用だからな」

正式採用、とは。と首を傾げていると、鯉登がそれを察したのか「3月までは無理を言って時間をもらっていたんだ」と補足する。補足されても意味がわからず、ナマエは「なるほど?」と曖昧に相槌を打つ。

「鶴見中尉殿にまたお会いできるとは…私はつくづく運が良い」
「ちゅうい?」
「ああいやなんでもない。今の会社に私の尊敬する方がいらっしゃってな、私はゆくゆくは父の会社を継ぐんだが、その前の武者修行にと大学を卒業して入社を許してもらったのだ」
「え、ちょっと情報量が多いんですが…」

ナマエは嬉々として話す鯉登に手のひらをピッと出して話を止める。
若いとは思っていたが、まさか新卒社会人らしい。しかもなんだ、実家は会社を経営していて、そこを継ぐお坊ちゃんだと言うことか。話ぶりからするにその「武者修行をさせてもらう会社」がカフェのあるオフィスビルに入っていることは察した。

「鯉登さん、もう少し年上かと思ってました」
「む、私にも貫禄がついてきたと言うことか?」
「えっ…あ、はい…」

貫禄云々と言うよりも、身に付けているコートやら鞄やらが上等そうで、二十歳そこそこの人間が持っているはずないだろうと思っていただけなのだが、指摘すると拗れそうで辞めた。

「お待たせいたしました」

ちょうど話を切るようなタイミングでウェイターが皿を持って現れる。皿にはズッキーニやトマト、ハムとチーズなどがちょこちょこと盛られており「アンディパスト」と言われたが生まれて初めて聞く言葉でもはや明日には忘れてしまいそうだった。
ウェイターが下がり、鯉登がフォークを持つ。動かないナマエを見かねて「どうかしたか?」と尋ね、ナマエは「すみません、マナーがさっぱり…」と困り果てて告白する。

「気にするな。食事は楽しんで食べるのが一番の礼儀だ。好きに食べればいい」
「は、はぁ…」

気遣う言葉はありがたいが、いきなり大学生の自分には縁遠い高級イタリアンに連れてこられて気にするなという方が無理な話だ。とはいえ、フォークを持たなければ食事はできない。ナマエはそろそろとフォークを持ち上げてさっくりとハムとチーズを突き刺す。口に運べばひと口でその味に魅了された。

「ん!美味しいです…!チーズが濃厚で…ハムも味がしっかりしてるのにお互いを殺し合ってないというか、すごくバランスよく口の中で蕩けます!この黒胡椒がいいアクセントでピリッとして…」

ついうっかりいつもの調子で食レポをしてしまった。口を噤んで鯉登の様子を伺うと、目をパチクリとさせて驚いている。これが正常な反応だ。目の前でテレビでもないのに食レポなんかされたらこうなるに決まっている。

「す、すみません…美味しいものを食べるとついこんな感じになってしまって…」
「いや驚いたが、いいんじゃないか」
「お恥ずかしいです」
「さっきも言っただろう、食事は楽しんで食べるのが一番の礼儀だ」

驚かれはしたが、面倒そうな顔をせず肯定的な意見を言ってくれただけありがたかった。
尾形さんは、少しも驚かなかったな。と、ナマエは尾形と初めて会った日のことを思い出す。むしろ、ナマエがああしてのべつ幕なしに感想を口にすると知っていたような様子だった。
どうしてか。初対面のはずなのに、なぜそんなことがわかったのか。

「あの、鯉登さん…」

前世って信じますか。と、口にしそうになって、言葉を引っ込める。霊感商法でもあるまいし、こんなことを言っては変人だと思われるに違いない。

「なんだ?」
「いえ、あの、このお料理ってなんて言い方するんでしたっけ、さっき聞いたのにもう忘れちゃって」
「ああ、アンティパストだ。フレンチで言うところのアミューズ、前菜だな」
「そうでした、アンティパストでしたね」

ナマエは咄嗟にそう誤魔化し、また「美味しいです」と言って続きに取り掛かった。鯉登も特にナマエの口ごもった様子を追及することはなかった。
それからメニューはプリモ・ピアットとしてペスカトーレ、セコンド・ピアットとして牛ヒレ肉のミラノ風カツレツが運ばれた。それからコントルノにパプリカのマリネが出され、カツレツの油をさっぱりとさせていく。どれも美味かったが、うっかり食レポをしてしまわないように努めて短い言葉で称賛した。
それからドルチェのティラミスが運ばれ、ナマエは話のひとつに、と鯉登に尋ねる。

「今の会社はどういう関係のお仕事なんですか?」
「まぁ、簡単に言うと商社だ。実家は造船の会社でな、そこに材料などを卸しているのが私の入社した第七商事なんだ」

鯉登の事情については料理が運ばれてくる前に多少聞いたが、聞くたびややこしくなっていく。造船業を生業としているなら、鯉登の実家は想像以上に裕福な家庭なのではないか。新卒社会人でこんな高級で上品な味のイタリアンにつれてこられたこともこれなら得心がいく。

「鶴見部長は素晴らしいお人だ、あれほどのお方とはなかなか会えんぞ」
「はぁ」
「あの会社は曲者も多い…特に営業課の連中は皆面倒なやつばかりで手こずっているんだ。まあ昔から変わらないが…」
「なるほど?」

新入社員のクセに随分と社内のことを知っているふうだ。父親の会社の取引先でもあるようだし、何か元々の繋がりでもあったのだろうか。鯉登はまだ喋りたそうにしていて、ナマエはティラミスを口へ運びながら話を聞く姿勢を取った。

「しかし月島にはよく助けてもらっている。あいつには昔から世話になりっぱなしでな…」

ツキシマ。この食事会の冒頭で出てきた鯉登に「フレンチはやめておけ」とアドバイスをした人間である。友人か何かかと勝手に思っていたが、会社の人間だったらしい。
そこから鯉登は「鶴見部長」について語り出してしまってちょっと、いやかなり手が付けられなかった。
緊張で味がしなかった、なんてことはなく、ドルチェまでしっかり舌つづみを打つことができたので、せっかくの高級料理に勿体ないことをせずに済んだな、と、興奮気味に「鶴見部長」の話を続ける鯉登に相槌を打ちながら考えていた。


鯉登とのランチ、もとい鶴見部長賛美の会を終えた翌日、大学の講義を終えてシフトに入った。
いつも通りのアルバイトを終え、退勤しようと着替えて店から出ると、従業員通用口のそばに見知った人影があった。

「尾形さん!」
「おう」

そこにいたのは多少くたびれた様子の尾形で、吸っていた煙草をケータイ灰皿に押し付けてもみ消す。仕事終わりにしてもここはオフィスに勤める人間は使わない場所だ。どうしてこんなところにいるんだろうか、と思いつつトコトコ近寄れば煙草の匂いがすっと香った。

「何かありました?」
「あー、晩飯連れてってやるよ」
「え!いいんですか!」

勤務時間が終わって丁度腹ペコだ。これは渡りに船だと「お願いします!」とナマエは誘いを受けた。どうせお互い大体の居住地を、尾形の場合は正確なナマエのアパートを知っている身だから、家の近くの店にしようと二人で連れ立って帰路に就くことにした。

「どこに連れて行ってくれるんですか?あのラーメン屋さん?」
「いや、今日は米が食いたい気分だから定食屋だな」

先住しているだけあって、自宅付近の食事処事情には詳しいらしい。なんだかんだとあまり近隣を開拓できていないナマエに取ってはありがたい話だ。すたすたと歩く尾形の後ろを置いて行かれないようについていく。

「尾形さんってあんまり自炊しなさそうですよね」
「何だよ藪から棒に」
「いや、なんか生活感ないなぁと思って…」

ネギの入った買い物袋を持っているところもどっちの魚がいいかと目利きしているところも想像できない。それが想像できなければ台所に立っているところなど想像できるはずがなかった。

「俺だって料理くらいは出来るぜ?」
「うそ!」
「馬鹿だれ、ひとを何だと思っていやがる」

そこまで言うのなら案外相当の腕前なのかもしれない。テレビか何かで料理男子なんて特集を見たこともあるし、尾形も最新の調理器具なんかを使ってスタイリッシュに料理をこなすのか。
ナマエがうんうん考えていると、尾形が隣で「ははぁ」と笑う気配がした。

「なんなら今度食わせてやってもいい」
「えっ!ほんとですか!」

ひとに振舞おうということは相当自信があると見える。提案を素直に喜ぶと、尾形はじろっとナマエを見た後で「ハァ」と溜息をついた。自分で提案したくせに何が気に入らなかったのだろうか。

「お前は危機感が足りないな」
「えっ、ご飯に危機感ってどういうことです?」
「いや、もういい。行くぞ」

尾形に案内されたのはごく庶民的な定食屋で、ナマエはサバの味噌煮定食を、尾形は鶏肉の梅みぞれ煮定食を注文する。ほとんど待たずに運ばれていた定食はほかほかと湯気を立て、それだけで美味そうだ。

「いただきます」

ナマエはほろほろのサバの身を箸でほぐし、ぱくりと口に運ぶ。思わず「んんっ!」と声を漏らし「身が分厚くてて美味しいです!」という言葉を皮切りに焼き加減だとか塩加減だとかをつぶさに言葉にした。尾形はやはりその詳細な言葉を少し楽しそうに聞いていて、そんな尾形と目が合ってナマエはまた一口サバを口に放り込んだ。

「やっぱりこういうのがいいです」
「何がだ?」

鯉登に連れて行ってもらった食事がつまらなかったわけではない。鯉登はいいひとだと思うし、初めて食べる高級なイタリアンというのも非常に美味だった。だけどやはり身の丈に合っていないというか、落ち着かなくて緊張するのが正直な感想だった。

「尾形さんと食べるご飯は美味しいなぁって」

えへへ、と笑ってみせて、今度はみそ汁の器に手をかけた。気兼ねなく美味いものの感想を言って、驚きもせず楽しげにさえそれを聞いてもらえるのは心地がいい。
虚を突かれた尾形の首元が思わず少し赤くなっていたことには、どうやら気づかなかったようだった。





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