03 し せ ん



新居は学生向けの1Kのアパート。叔父夫婦の家からは電車を使って三十分ほどの場所にある。この三十分というのは乗り換えを含めた時間であって、直線距離で言えばいくらも近い場所だった。
無事に卒業式を終えたナマエは新しい城に家具と家電を持ち込み、数個の段ボールの荷をせっせと解いていた。決して今まで過ごした叔父夫婦の家が嫌いだったわけではないが、家族ではないのだしと気を使う瞬間はよくあった。それとももうおさらばだと思えば今は寂しさより開放感が勝る。

「よしよし…細かいのは百均で買い足そうかな…」

六畳の部屋にベッドとカラーボックスとローテブルを置けばそれだけで窮屈なくらいだ。ちょっとした日用品やそのストックも同じ部屋の中に収めなければならないから当然のことだった。

「えっとぉ…洗剤、洗剤ぃ…」

家電はほとんど運び込まれたものの、洗濯機だけが数日遅れていた。洗濯物といっても今日の分は梱包にもついでに利用していたタオル類くらいなもので緊急性はなかったが、周辺を散策するのもいいだろうと大きなトートバッグにタオル類と洗剤を詰め込んでナマエはコインランドリーに向かうことにした。


コインランドリーはアパートから徒歩三分もないところにあった。見たことのないチェーン店だが、特にこだわりはないためにナマエはスタスタと自動ドアを潜る。
一番小さな洗濯機の扉をあけ、ぽいぽいとタオルを突っ込むと硬貨を投入してコースを選択する。いくつかの電子音のあとに洗濯機がごぅごぅと音を立てて動き出した。
洗い上がりまで約一時間。店内に設置されたプラスチックのベンチに腰掛ける。店内にはナマエしかおらず、洗濯機もナマエが使っているものしか動いていなかった。そもそもこの店が繁盛していないのか時間帯の問題なのかはわからないが。
ナマエはスマホを取り出すと、何か連絡は来ていないかと確認をする。メッセージアプリに通知がひとつ付いており、開くと先日知り合った鯉登からのものだった。

『ナマエは何か好きなものはあるか?』

これは食の好みに対する問いである。お礼にどこかへ食事へ連れていってくれると言われており、その店選びのために尋ねられたことだった。彼の好物は月寒あんぱんというものだと言っていて、なんだか華やかな見た目なのに意外だなと思った。
北海道に月寒なんて土地があることをこの話で初めて知ったが、どうしてだか鯉登は「つきさっぷ」と呼ぶ。ネットで調べた現在の呼び名は「つきさむ」であり、「つきさっぷ」と呼ばれていたのは昭和の初期までなのだそうだ。

「甘いものって言うのもなんか漠然としてて面倒なのかなぁ」

店内に他の客がいないことをいいことに盛大な独り言をこぼし、ナマエはスマホの画面と睨めっこをする。もう少し見知った相手からの食事の誘いなら「お肉が食べたいです」とでも言っておけば無難な気もするが、何せ相手は常連の男というだけでほとんど知らない相手なのだから、もはや正解なんてものもない気がする。

「うーん」

どう返信したものかと頭を抱えていると、少し間の抜けた電子音がして自動ドアが開いた。客が来たらしい。独り言はこれ以上まずいと口を閉じて横目で入ってきた客を確認すると、客が丁度こちらを見ていてばちりと目が合ってしまった。

「え、あれ、尾形さん?」
「ナマエ…?」

そこに立っていたのはしばらく前に突然ファミレスで食事をご馳走されたっきりの謎の男、尾形であった。尾形は大きな目をパチパチと瞬かせ、一拍遅れて「なんでこんなとこにいるんだ」と尋ねた。

「えっと、今日からこの辺に引っ越してきたんです。洗濯機がまだ届かないので散策ついでにコインランドリーにきたんですが…」
「ほう、お前このあたりに住むのか」

返ってきた言葉を聞いてから、これはプライバシーとやらのあれこれで言わなかった方が良かったのではないかと思ったが、もはや後の祭りである。
尾形は手にしていた帆布のバッグからいくらか衣類を取り出して小さい洗濯機に入れると、先程ナマエがしたのと同じようにして硬貨を投入して操作をした。

「尾形さんもこの辺に住んでるんですか?」
「まぁな」

尾形はそういいながらナマエの隣に腰掛け、どうやらこのまま洗濯が終わるまで二人で過ごすことになるらしかった。
尾形はあまり口数が多くないようで、ファミレスの時と同じですぐに言葉がなくなった。やはりそれでも気まずさなんかは感じなくて、ナマエはどうしてだろうなぁと頭の片隅で考える。

「なんでまた引っ越しなんかしてんだ?あのカフェでバイトしてんなら元々そう遠くはないんだろ?」
「春から大学生になるんです。それでまぁ、一人暮らしもいいかなあと思って」
「そりゃあ殊勝な心がけだな」

尾形の声は静かだが、冷たいわけではなかった。そもそも話嫌いなのならあの日わざわざナマエをファミレスまで連れて行くこともなかっただろうが、どことなく冷ややかな見た目をしているから少しだけ意外に思った。

「あの、尾形さんこの前のーー」

この前聞くことの出来なかった「前世の恋人」という言葉を追及しようと口を開いたら、尾形のスマホが無機質な電子音を鳴らした。どうやら着信らしく、尾形はチッと舌打ちをしながらスマホを耳に当てる。

「なんだ、金なら貸さねぇぞ」

開口一番どんな話だとギョッとする。相手の声までは聞こえてこないからどんな内容なのかまではわからないが、少なくとも自分は人生で一度もそんな電話の応答をしたことがない。
尾形はそのまま「知らん」「勝手にしろ」「そんなことで掛けてくるな」とあしらうような相槌を打っていた。

「白石、てめぇ…あの話バラしてやってもいいんだぜ?」

ははぁ。と独特な笑い方で笑い、電話口でわぁわぁと喚く音だけが漏れ聞こえた。シライシと呼ばれた電話の相手は随分と親しい間柄らしいことだけは伺える。

「あー、いや、今日は予定がある。…ああ、杉元にも伝えとけ」

尾形はちらりと相槌の合間にナマエを見て、何かの誘いを断ったようだった。通話を切るとスマホをポケットにしまい、いくつか考えるようにして「なぁ」と切り出した。

「今から時間あるか?」
「え、まぁ…はい…」

答えながら今日の予定を頭の中に思い浮かべた。荷解きもほとんど終わっているし、近所のスーパーにでも寄って夕飯の材料でも調達しようかと思っていたくらいのものだった。

「これ終わったらちょっと付き合え」

予定があるから先程の誘いを断ったんじゃないのか。しかも「付き合え」なんて命令形で本当に昔から強引なひとだ。ーー昔から?

「返事は」
「は、はい…!」

止まっていた思考が急かされるようにして動き出した。今どうして自分は「昔から」なんて思ったんだろう。昔も何もこの男とは先日会ったばかりで、少なくとも自分が覚えている限りでは何の関わりもなかったはずなのに。
ごうんごうんと二台分の洗濯機が等間隔で音を立てていた。


約一時間で乾燥までを終えた洗濯物をそれぞれ畳んで崩れないようにバッグに詰める。ちらりと見えた尾形の洗濯物は男の一人分程度で、自分のものだけをわざわざ持ってきたとかいう事情でもない限り一人暮らしをしているように思われた。
一度それぞれ洗濯物を持って帰ろうという話になり、一時間後にこのコインランドリーで再度集合することになった。

「なんだって洗濯物持って帰るだけで一時間もかかるんだ」
「え、いや、流石にこんな状態は気が引けるといいますか…」

荷解き作業をしていたためジーンズにヨレヨレのロンTという有様だった。なにも特別おしゃれをしようという気ではないけれど、流石にこんな格好で出かけられるのはコインランドリーとコンビニくらいなものだ。
渋々ながら了承した尾形と解散し、ナマエは急いでアパートに戻った。

「ええっとぉ…あ、どこ連れていかれるのか聞いておけばよかった…」

高校生の身分でそう洋服のレパートリーが多いわけではないけれど、それにしたってTPOというものがある。まさかスーツを着てこいなんてことはないだろうが、この場合どんな服が適当であるか予想もできない。

「会って二回目のひとと出かける服って…なに?」

悩んでいても時間は有限だ。ナマエはキャメルのワイドパンツに白いスタンドカラーシャツを着てその上からパステルイエローのカーディガンを羽織った。自分の持つコーディネートの中ではかなりよそ行きで、都心の駅ビルにも行けると自負している汎用性の高い組み合わせである。

「あっ!時間!」

スマホの時計を見てナマエは慌てて家を飛び出した。なんだかんだと迷っていたせいでもう約束の時間が迫っている。キーホルダーもついていない新居の鍵を使って施錠すると、ナマエは急いでコインランドリーに向かった。

「遅ぇ」
「す、すいませ…」

息せき切らしてコインランドリーにたどり着いたが、尾形はすでに到着していて大きな舌打ちを食らった。
出会った初日も思ったことだが、顎に大きな傷もあるしツーブロックをオールバックにしているし、お世辞にも人が良さそうには見えない。そんな見た目の男の舌打ちはかなり迫力があった。

「あの…どこ行くんですか?」
「晩メシ」

尾形は単語だけを投げ、スタスタと歩いて行った。夕飯に連れて行ってくれるのだろうということは察するが、それにしても言葉数が少ない。行間を読んで会話をしなければ意思の疎通が取れなさそうだなと背中を追いかけながら考えていた。


連れてこられたのはアパートからそう遠くないラーメン屋で、食券の券売機の前でどれにしようかと悩んでいたら伸びてきた尾形の手によってチャーシュー麺のボタンとトッピングの味玉のボタンを手早くピピっと押される。

「あっ!」

抗議する間もなく尾形は奥のカウンター席に腰かけて二人分の食券を渡し、ナマエは仕方なく尾形の隣の席にちょこんと腰かける。

「まだ迷ってたんですけど…」
「なんだよ、チャーシュー麺嫌いか?」
「いや、好きですけどぉ…」

嫌いなものはないし実際さきほどもチャーシュー麺と豚骨ラーメンで迷っていたので特に問題はないが、無言で決められてしまうのは何か違う気がする。と言っても、金の出所は尾形なのだから強く抗議することは出来ないのだが。

「尾形さんは何にしたんです?」
「しょうゆ」
「しょうゆもさっぱりしていいですよね」
「ここはしょうゆが美味いからな」

尾形は事も無げにそう言って、ガラスのコップに入った水をごくごく飲んだ。おすすめがあるなら予め教えてくれておいてくれてもいいものを、と思いながら、水かさの減った尾形のグラスにセルフサービスのおかわりをとくとくと注いだ。
そうも待たないうちにラーメンがカウンター越しに運ばれ、ナマエと尾形はそろって手を合わせる。
湯気の立つそれに箸を沈め、チャーシューの間から麺を摘まみ上げる。ふうふうと息をかけて口に含み、ずずずっと啜りあげた。

「ん!おいひい!中細麺にあっさりとしたスープがよく合います!茹で具合も硬めで噛み応えがあって…溶けだしてるチャーシューの脂が全体をまろやかにまとめていて…んっ、チャーシューも分厚過ぎず薄過ぎず、主役でありながら麺やスープとしっかり調和してます!」

そこまでべらべらと話したところで、ナマエはハッと口を噤んだ。またやってしまった。しかも店員の近いカウンター席でこれは恥ずかしいし、ともすると迷惑になりかねない。気まずそうに視線を下げると、カウンター内の大将らしき中年の男が「気に入ってもらえて嬉しいよ」と笑った。

「す、すみません…」

恥ずかしさと気まずさでちろりと隣に座る尾形を見る。尾形がじっと大きな目でナマエを見つめていたためにしっかりと視線がかち合ってしまい、ナマエは慌てて逸らして目の前のどんぶりに集中した。
なんだか尾形の瞳に見つめられると心がざわついた。初めて会った日もそうだ。自分の奥底を見透かされてしまうような、そんな気になった。


すっかり完食した二人は揃ってのれんをくぐり、威勢のいい店員の「ありがとうございましたぁ!」という声に背中を押されながら店を後にした。すっかり日が暮れていて、尾形は「暗いから送っていく」と言葉少なに言い、ナマエに歩道側を歩かせた。

「ラーメンご馳走様でした。すごく美味しかったです」
「今日もいい食レポだったな」
「からかわないでくださいよ…」

不思議なことだった。つい最近わけのわからないきっかけで出会っただけの人間だというのに、隣を歩くことが当たり前のような、そういう収まりの良さがあった。
こつん、ナマエが足元の小石を蹴ると、ころころと数メートル先まで転がる。

「今度は私もしょうゆにしてみようと思います」
「…また連れてきてやる」

尾形は髪をナデナデと撫でつけ、ナマエは小さな声で「はい」と頷いた。
ラーメン屋までそもそもそう離れていなかったからすぐにナマエのアパートまで辿り着いてしまった。ナマエは曲がり角から覗いたアパートを指さし「私のアパートそこです」と申告する。

「…お前な、ここに引っ越してきたと言った時から思っちゃいたが、いくら送るって言ったからってそう簡単に男に家を教えるなよ」
「えっ…!」

尾形は呆れたと言わんばかりに溜息をつく。言われてみればそれもそうだ。コインランドリーで会ったときにはプライバシーが、と多少思ったくせに、今は自然に自分の暮らすアパートを教えてしまった。いままでは叔父夫婦と暮らしていたから防犯の面はあまり考えたことがなかったが、ひとりで暮らすのだからそれなりに用心した方がいいだろう。

「じゃあな。俺くらいにしておけよ、家を教えるのは」

エントランス到着し、尾形は去り際にそう言ってファミレスでしたのと同じようにナマエの頭にぽんと一度手を置くと、踵を返してアパートを離れて行ってしまった。ナマエは慌てて「あの、ありがとうございました!」と声をかけ、尾形はその声に振り向かず、軽く手をあげる動作で応えた。
撫でられた頭の感触は、それからしばらくナマエの思考を占拠し続けたのだった。





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