番外編 かけら



風呂敷に注文の薬を持って米問屋までの道を急ぐ。今日の注文分はどうにも重く、両手で抱えてやっとという重さだった。普段なら店主がついてきてくれるところだが、今日は生憎陸軍診療所で将校に呼ばれているらしい。そのため他に頼る手もなくナマエはなんとかそれをひとりで運ばなければならなかった。

「うっ…思ったより重い……」

はじめは気前よく足をすたすたと動かしていたものの、途中からどうにも腕が痺れてきた。しかしここで荷を減らすわけにも、薬店へ引き返すわけにもいかない。米問屋までの道のりは残り半分。あとは気合だけでどうにかしなければ。

「わっ…!」

その時だった。こつんと石に躓き、ぐらりと体勢を崩した。まずい、これは転ぶ。商品だけはぶちまけるわけにはいかないと、下敷きになる覚悟で風呂敷包みをぎゅっと抱え込む。衝撃に備えて目を閉じたけれど、痛みは一向にやってこなかった。

「あっぶな」
「……え?」

ぱちりと目を開けると、すぐそばに見知った顔があった。薬店のお得意様である第七師団の上等兵、宇佐美だ。彼は丸い目をじとっと半分まで狭め、ナマエを見下ろしている。彼が自分を受け止めてくれたおかげで転ばずに済んだのだとここでようやく理解した。

「す、すみません!ありがとうございま──」
「まったく君重すぎない?腕痛いんだけど」
「なッ!違います!薬の重さです!」

突然息をするように失礼なことをぼやかれ、ナマエは顔を真っ赤にして反論した。宇佐美はどこ吹く風の様子で「わかってるよ」と言い、ナマエを支えていないほうの手でわざとらしく耳を塞いだ。

「ほら、とりあえず自分で立ちなよ」

冗談とはいえ誠に遺憾なことを言われたものの、自分で立てというのは尤もである。ナマエは体勢を整え、抱き込んだ風呂敷包みをどうやって運びやすいように抱えるかを思案する。抱き込んだままの体勢では下からずるりと落ちてしまいそうだし、だからといって結び目を持っても千切れてしまいそうで怖い。

「ほら、貸しな」
「あっ」

いくつも思案している間に腕の中の重みがひょいっと取り去られてしまう。宇佐美が風呂敷包みを易々と持ち上げていた。急に身体が軽くなり逆にまたよたついていると、そんなことはお構いなしに宇佐美が口を開く。

「これ、どこまで運ぶの?」
「え?」
「だからこれ配達なんでしょ。どこまで運ぶの。持って行ってあげる」

まさかそんなことを言われるとは思わず、ナマエは目をぱちぱちと瞬かせる。「悪いですよ」と断ろうとすれば「道中絶対転ぶと思うけど」と痛い相槌が返ってきた。これ以上ごねるより厚意に甘えてしまおう。配達先が米問屋だと伝えると、宇佐美は早速米問屋に向かって歩き出す。慌ててそれに追いついた。

「配達、いつもこんなに重いの?」
「いえ、今日は特別重くて。普段なら親父さまも一緒に行って下さるんですけど、今日は別の用事があって」

今日の事態をそう説明すれば、宇佐美は「なるほどね」と納得した様子だった。そろりと宇佐美を見上げる。尾形より少し背丈は小さいだろうか。けれど身体ががっしりしているし、街で見かける男よりもなんとなく大きく見える気がする。
彼は鶴見の小隊でも尾形と月島に次いでよく話をする相手だ。もっとも月島とは雑談の類はそうそうしないので、雑談をする相手という意味では尾形の次かもしれない。尾形とは違うが、彼も整った顔だちをしているように思う。すっきりとした鼻筋は横顔を美しくしたし、肌も女たちが羨むほどの白さである。

「なに?人の顔そんなに見て」
「あ、いえ、そういえばこの前蕎麦屋のお嬢さんが宇佐美さんのこと紳士で素敵な方って言ってたなと思って」
「蕎麦屋って西の通りの?」
「はい。すごく優しくて紳士だって。でも実際宇佐美さんって案外意地悪ですよね」

蕎麦屋の娘は宇佐美のことを美形の紳士だと言っていたが、果たしてそうだろうか。荷を持ってくれるところは優しいと思うけれど、ひとことふたこと多いような気がしてならない。

「君以外の婦女子には優しくしてるよ」
「えっ!なんで私には意地悪言うんですか!」
「べつに何でも」

こうして面白がられているのは明白で、しかし困るほどのことをされているわけでもないのだから仕方がない。まぁ一応、彼の中でそこそこに馴染み深く思って貰っているのかもしれないと、自分の中で勝手に落としどころをつけた。

「あ、もう庄屋さん着いちゃいますね。荷物ありがとうございました」
「全然。土嚢運ぶよりよっぽど軽いよ。面白いネタになるし」
「ねた…?」
「いいからいいから」

米問屋の前で風呂敷包みを受け取り、改めて頭を下げようとしたらまた足元がふらついた。宇佐美に「転ぶからそんなことしなくていいってば」と笑われ、ナマエはもう一度「ありがとうございました」と口にして米問屋の門を潜ったのだった。


職場が職場なのだから、どうしたってこのビルに入っている会社の人間とは顔を合わせる。今まではあまり意識してこなかったけれど、記憶を取り戻してからは見知った顔がかなり増えたように思う。
とはいえ、業務内容が変更になるわけでもない。それに顔を知っている元第七師団の兵士達もみんながみんなナマエのことを知っているわけでもないのだ。

「お疲れ様です」
「おつかれー」

19時までのシフトを終え、ロッカールームで着替えてあれこれと片づけを終えてからバックヤードにそう声をかける。先輩の声に見送られながら店内を抜けて外まで出ると、見知った顔どころではない顔があった。

「あれナマエちゃんお疲れ」
「あ、宇佐美さん。お疲れ様です。今帰りですか?」
「うん。百之助は出張だから…って、まぁ知ってるか」

宇佐美は見苦しくない程度にネクタイを少し緩めている。彼の言う通り、尾形は今日出張らしい。時間が合えばナマエを家まで送り届けることを習慣にしているのに、今日彼がいないのはそのためだ。

「そうだ、今日は僕が送っていくよ」
「えっ、そんな…悪いですよ」
「どうせナマエちゃんの家の最寄駅通過するし、駅までならそんなに変わんないから」

そう言われ、しかもその話を聞くにどうにも方角も同じようだし、断るのもおかしな話のように思える。昔から知った仲だし、せっかくだから頼ることにしてみようか。
ナマエがそんなことを考えながら「よろしくお願いします」と言うと、宇佐美は満足げに笑って意気揚々と歩き出した。

「こうやってゆっくり話すの、久しぶりだね?」
「そうですか?コーヒーのデリバリーの時もお話したじゃないですか」
「あの時は君の記憶が戻ってなかったでしょ」

なるほど、そう言う意味か。そう考えると宇佐美と2人で話すのは確かに随分久しぶりのことだ。ゆっくりと、ではないが、前世で一番最後に顔を合わせたのは札幌麦酒工場の衝突の直前、尾形の義眼を受け取りに行ったあの日だった。

「札幌の街でお話ししたのが最後でしたね」
「うん。あのあと麦酒工場で百之助に撃たれて死んだからね」
「えっ!そうなんですか!?」
「あれ、聞いてなかった?」

あっけらかんと言ってくれる。あの日宇佐美が麦酒工場にいたことは知っているが、死んだことまでは知らなかった。ということは、宇佐美にとって尾形は自分を殺した張本人ということだ。仲は良さそうに見えていたが、なにか確執などはないのか。

「なんで、って顔してるね」
「なんでって思ってるんで…」

ナマエが思ったまま返すと宇佐美が愉快そうに笑う。どことなく、昔見た笑顔よりも穏やかに見えた。

「記憶はあっても全く同じじゃない。今世での積み重ねもあって、価値観も時代も違う。あの頃の感情がすべて引き継がれてるってわけじゃないよ。まぁ、嫌がらせはしてやろうと思ってるけど」

嫌がらせはしてやるつもりなのか、とその一点に脱力しつつ、宇佐美の言い分を頭の中で文字に起こした。そう言うものなのだろうか。あの頃、自分に致命傷を負わせた兵士が誰だったのかは未だにわからない。道中いくらでも恐ろしい思いはして、だけどだからと言ってそれに関わる誰かを恨めしいなんてことは思ったことがなかった。

「……そういう、ものでしょうか…」
「そういうもんだよ」

まだ少し戸惑うように言うナマエを押し切るかのように宇佐美がそう言い切ってみせる。尾形と杉元もそうだ。彼らも昔は命のやり取りをした間柄で、けれども今では昔馴染みだといって交流を持っている。
あの頃の記憶や感情だけが全てではないというのは、大なり小なりそう言うことなのだろうと思う。

「宇佐美さん、優しいですね」
「何言ってるの。僕は町娘に評判の優しい紳士だよ」

宇佐美が口角を上げて見せる。ああそうだ、彼と昔そんな話をしたこともあった。懐かしい。あの頃繋がりの会った人間たちと話すことで細かな宝石のかけらを集めるかのように記憶を拾い上げることが出来る。全て思い出したと思っていたがそんなことはなく、懐かしい記憶はまだいくらでも転がっていた。
そこからは宇佐美は会社の話を、ナマエはカフェの話をあれこれとし合った。他愛もない会話ではあるが、こんなにも長時間宇佐美と二人きりで話すことは昔を遡ってもあったかなかったか怪しいくらいで、だから少し新鮮な気持ちになった。
宇佐美はナマエの最寄り駅で一度電車を降り、改札の近くまでとことことついてきてくれるようだった。しかしこれ以上付き合って貰うのも申し訳ないな、とそう考えていると、宇佐美はそれを察したように「ナマエちゃん」とナマエを呼び止める。

「写真撮ろうよ」
「え?ここでですか?」
「そうそう。今日久しぶりに二人で話した記念に」

一体どういう記念だろう。まったくフォトジェニックでもなんでもないごくありふれた駅だが、嫌だと断る程の理由もない。ナマエが「いいですよ」とそれに応じれば、宇佐美は改札を出るように急かしてナマエと一緒に改札を出て、スマホをインカメラにするとナマエの肩をぐっと組む。カシャ、と控えめなシャッター音が鳴り、画面にはまるで仲のいいカップルかのように身を寄せ合う二人が収まっている。背景には最寄り駅の駅名が掲げられた看板が写り込んでいて、まったくもって意味の分からない写真ではあるが。

「うーん、いいね」
「私、変な顔してません?」
「大丈夫大丈夫、いつもと一緒」

宇佐美は写真を手に満足げな様子で、スマホをジャケットの内ポケットに仕舞うと、あっさり踵を返して改札を抜けてホームの方へと戻っていってしまう。最後に振り返って「じゃあね」と手を振られナマエもひらひらとそれに応えたのだった。


その日の夜、けたたましくスマホが着信を告げ、ナマエは慌ててディスプレイを確認する。通話なんて珍しい。尾形からだ。

「もしもし、尾形さん?」
『おいナマエ、お前なんにもされてねぇだろうな!』

開口一番の物凄い剣幕に耳がキーンと悲鳴を上げる。一体何の話だ、と少し思ったが、前にも同じことを言われたことを思い出した。それは決まってナマエが昔の繋がりのある人間と話した後のことだった。

「あの、もしかして宇佐美さんから連絡とかありました…?」
『ああ、写真付きでな』

なるほど、そういうことかと非フォトジェニックな写真の意味を、嫌がらせをしてやろうという言葉の意味とともに知る。あの写真を尾形に送り付けたの違いなかった。

「ビルの前でたまたま会って通り道だからって最寄り駅まで送ってくれたんです」
『は?』
「宇佐美さんもお近くなんですかね?」

どこかで乗り換えるのかもしれないが、通過する駅だということは方面も同じなのかもしれない。どの辺に住んでるんですか、なんて話題にならなかったから、聞くこともなかったわけだが。ナマエの素朴な疑問に対し、電話口の尾形は少し訝し気な様子だった。

「あ、言いそびれてました。尾形さん出張お疲れ様です」
『ああ。一日早く切り上げられそうだ。戻った日にお前のシフトが入ってたら迎えに行く』
「…ありがとうございます。楽しみにしてます」

早く会いたい。そう口をつきそうになって、慌てて言葉を変える。そんなことを言われたって出張なのだから仕方がない。しかも別に一週間程度の話で、あの頃のようにいつまでも待っていなければいけないわけではないのだ。

『どうした、なにかあったか』
「え、と…その…」

しかし尾形にその一瞬を悟られてしまい、もごもごと口ごもる。ここで隠し立てをしてしまうのも妙な展開になってしまいそうで嫌だ。電話というのは、想像以上に意図しない方向で話が伝わってしまうものである。

「は、早く会いたいなと思って…ごめんなさい。お仕事だってわかってますから、こんなこと言っても迷惑だと思うんですけど」

正直に白状すると、今度は尾形が黙った。仕事で疲れているときに煩わしいと思われてしまっただろうか。もう一度「ごめんなさい」と言おうと口を開けば、先に尾形が『ナマエ』と名を呼んだ。

『お前、帰ったら覚悟しとけ』
「え?」
『…そう思ってるのは……お前だけじゃない』

尾形の台詞の意味を理解して、ドッと勢いよく心臓が鳴った。首筋から熱が上ってくる。
実のところ宇佐美の家がナマエたちの最寄り駅とは全く逆の方面であったことを知るのは、尾形が帰ってきてからのことだった。嫌がらせをしたいからって、まったく気合いの入り方が違う。変わらない彼らの関係に思わず笑ってしまった。





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