番外編 もしも



大学の近くの店を開拓しよう。それがことの発端だった。
尾形は美味い店をよく知っているため、どこかで食事をしようとなると殆ど彼に任せきりの状態になっている。確かに年上なのだし良い店をよく知っているのも道理だろうが、たまには自分で美味しい店を見つけて尾形を連れて行ってやりたい。そういう目論みだ。

「でもなぁ。尾形さんの好きな食べ物ってあんこう鍋でしょ?」

とてとてと歩きながら一人ごちる。尾形の好物はあんこう鍋。嫌いなものはしいたけ。あんこう鍋は現代日本じゃかなりの高級料理だ。ナマエの行けるような店で良いものが探せるとは思えないし、だからといって他に何がいいかと言われても正直よくわからない。
飲食店の多い道を選び、きょろきょろと見回しながら歩く。中華、定食、イタリアン。店はたくさんあるが、どれもどことなくピンとこない。その中だった。

「ジビエ?」

目に飛び込んできたのはミントグリーンの看板だった。ジビエ料理を出している場所があるのか。看板に視点を合わせたまま数歩進むと、何かにどんっとぶつかる感覚があって、予期せぬそれに足元がよろめく。

「きゃっ…」

転ぶ、と思ったが何かがナマエの身体を支えてそれは免れた。驚いて顔を上げると、自分と同じくらい驚いている男が目の前にいる。

「…ナマエ?」
「キラウシ、さん?」

間違いない。目の前にいるのはあの当時一緒に旅をしたキラウシだった。キラウシもナマエの名前を呼んでいて、彼が覚えていることは明白だった。こんなところで会うことになるとは少しも想像しておらず、キラウシに背中を支えられる姿勢のまま数秒間フリーズする。

「お、久しぶりです…」
「ああ。あんたに会えるとは思ってなかった」
「私もまさかこんなところでお会いするとは…」

不意打ちの再会に会話のキャッチボールはぎくしゃくしていて、頭の中で必死に言葉を探した。何を話せばと逡巡しているうちにキラウシが「なぁ」と先に口を開く。

「腕、そろそろキツいんだが…」
「あっ!ごめんなさい!」

うっかりしていた。キラウシに支えられる姿勢のままだった。ナマエは慌てて体勢を立て直し、キラウシはそれを確認してから手を離す。再会の衝撃があまりにも凄くて妙ちくりんな格好になっていたことを忘れていた。

「……今から少し時間あるか?」
「え?はい。大丈夫ですけど…」
「よかった。せっかく会えたんだ。少し話をしよう」

キラウシに手招かれ、ナマエは後ろをついて歩いた。身長はあの頃より少し高くなっている気がするが、髭の感じも変わらないしマタンプシの代わりにバンダナのようなものを巻いているから雰囲気もそのままだった。
数分で近くの大きな公園に辿り着き、キラウシが自分用に缶コーヒーを、ナマエ用にミルクティーを買った。手ごろなベンチを見つけて二人で並んで座る。

「ナマエはいま何をしてるんだ?学生か?」
「はい。大学生です。キラウシさんは?」
「俺は猟師だ」
「東京で?」
「いや、今日は卸先に挨拶に来てて…普段は北海道に住んでる。あのジビエ料理店も卸先のひとつなんだ」

昔と縁の深い仕事をしてると聞いて何だかどことなくホッとした。あの頃発揮される機会は少なかったが、キラウシは腕利きの猟師だったのだ。今もその腕前を遺憾なく発揮しているらしい。

「キラウシさんはどなたかお会いになりました?」
「門倉とか土方ニシパとは会ったな。家の近くで側溝に嵌った車があるっていうから手伝いに言ったら門倉の車だった」
「あはは、門倉さんの凶運ってまだ健在なんですね」

土方のことは海に行った際にちらりと顔を見たけれど、門倉には会っていなかった。門倉にもあの当時世話になったし、機会があれば挨拶に行きたいものだ。ナマエはプルタブを引いて缶を開ける。飲み口に口をつけてゆっくり傾けると、甘さが口全体に広がっていく。ナマエにつられるかのようにキラウシもコーヒーを口にして、少し黙ってから言葉を続けた。

「……あのあと……札幌の街で別れた後、ナマエがどうなったのか、結局分からなかった。気になって少し調べてみたんだが…」

あのとき土方一行とは、札幌の街で彼らが杉元たちと合流したときに別れた。ナマエは一方的に麦酒工場での衝突のあとにキラウシを一度見かけたが、彼が五稜郭にいたかどうかまでは見ていない。

「尾形さんについて五稜郭に行きました。そこで撃たれて、そのまま」
「そうか…ナマエもあのさなかにいたのか」
「キラウシさんも?」
「ああ。まぁ俺と門倉は永倉ニシパの助言で一足先に抜けたんだけどな」

あの五稜郭での戦いは結果的に最終決戦になったと杉元と明日子から聞いた。キラウシとナマエは「金塊に興味がないのに旅に同行している」という少し変わった共通点があった。その彼があの戦いの中にまで身を置いていたのなら、なにか心境の変化などもあったのかもしれない。

「探しに行ってやればよかった」

キラウシの声がぽとんと落ちる。横目で彼を見れば、視線を足元にやったあと、ナマエへと向けた。彫が深いせいで目元に影が落ちているのは昔と変わらなかった。探しに行ってやればよかった、とは、ナマエの遺体のことだろう。確かにあの後、自分が朽ちていったのかも誰かに葬られたのかもわからない。しかしそれで構わなかった。

「いいんです。私、なんにも残らなくていいって思ってついていきましたから」

本当に文字通りそうなったけれど、少しも後悔はない。キラウシは小さく「そうか」と相槌を打った。

「キラウシさんは村に戻ったんですか?」
「ああ。一度戻ったが…コタンにはもういられなかったからな。それからは門倉とマンスールと放浪生活だった」

聞いたことのない名前が出てきたのでナマエが「マンスール、さん?」と聞き返すように言うと「ソフィアの仲間だった男だ」と返ってきた。和人とアイヌと極東ロシアのレジスタンス。なんともまぁ珍妙な組み合わせだ。

「アメリカに行って映画も撮ったんだぞ」
「えっ!映画ですか!?すごい!」
「はは、大コケして結局貧乏なままだったけどな。それも悪くなかった」

あの時代にアメリカに行くなんて中々できない経験だっただろう。その上映画だなんて、きっと彼ら自身も自分がそんなことになるなんて思ってもみなかったに違いない。大コケしたのはなんとなく察するところだが、キラウシの表情は満足げだった。

「…尾形ニシパとは会えたのか」
「はい」
「それは良かったな」

キラウシはコーヒーを飲み干し、近くのゴミ箱数メートル先から放り投げて見事にシュートを決める。ナマエも一瞬チャレンジしてみようかと飲み干したミルクティーの缶を眺めたが、外す自信しかなくてやめた。

「そろそろ行くか」
「あ、はい」

ゴミ箱のそばまで寄ってしっかりと缶を捨て、数歩先を行くキラウシに追いつく。駅までの道のりで他愛もない話をした。キラウシは今までどんな獲物を獲ったか、昔と今はどんなふうに勝手が違うかなどを話した。寡黙そうな見た目に反し、気安い相手にはよく話してくれた。面倒見がいいのも昔から変わらない性質だ。その流れで自然に連絡先も交換することになった。
二人で並んで歩き、もう駅が見えてきたというところでキラウシが今までの何気ない会話を同じ温度で言った。

「また出遅れたみたいだ」
「え?」

何のことだろう。何か競うようなことでもあったのか。ナマエが聞き返してもキラウシは「何でもない」と言って答えてはくれなかった。ちらりと見上げてみたけれど、彼は真っすぐに前を向いていて目が合うことはない。

「これからも、あの頃を過ごした良き友人として話が出来ると嬉しい」
「はい。こちらこそ」

駅まで辿り着き、キラウシに見送られて改札を通り抜けた。階段を上る手前で一度立ち止まって振り返ればキラウシがまだ改札の向こう側に立っていて、ナマエは小さく手を振った。キラウシも胸元まで手を上げ、ナマエにゆっくりと微笑みかけていた。


三日後の土曜日、オープンから昼過ぎまでのバイトを終えて、ナマエは尾形のマンションを訪れていた。なるべく自分で学費や生活費を稼ぎたいから土日もシフトを完全に抜くのは難しい。そんな中で少しの時間でも会いたい、と先に言ったのはナマエではなく尾形の方だった。

「ナマエ、明日のシフトは?」
「お昼からラストまでです」
「じゃあ朝は遅くていいな」

尾形の部屋に来ると、そのまま泊まることが多くなっていた。少しの時間でも会いたいのは事実だが、それだけでは正直物足りない。今ではナマエの物もだいぶ増え、パジャマも替えの下着もあるし、洗面所に当たり前のようにスキンケア用品の類いが並んでいる。そういう光景を目の当たりにするのはまだくすぐったい。
二人でソファに座りながら動画配信サイトでどんな映画を見ようかとあれこれ探したが、尾形はそこまで興味がないのかナマエの腰を抱いたまま黙していた。

「そういえば、この前またあの頃の人に会いました」

リモコンをそ操作する手を止め、ナマエが言った。尾形とキラウシが一緒に過ごしていた期間はナマエよりもっと短いが、もちろん知らない仲ではない。せっかくだし報告をしておこう。

「キラウシさんです。北海道で猟師をしてるみたいで、たまたま東京に来てたらしくって」
「キラウシ?」

尾形はピクリと眉を動かす。それからロクに離れてもいないナマエとの距離をもっとずいっと詰めた。なにかまずいことでも言っただろうか。

「あいつとは2人で会うな」
「え?」
「キラウシはお前のこと狙ってただろ。そういう目をしてた」

予想外のことを言われ、ナマエはきょとんと目を丸くした。確かにキラウシには良くしてもらっていたが、それはあくまで彼の生来の性質によるものだろう。キラウシはとても人がいいのだ。

「あはは、まさか。そんなことありませんよ。キラウシさんってすごく親切でいいひとですから、私にも優しくしてくれるだけです」

ナマエがそう軽く流すと、尾形は不服そうに目を少し細めてナマエをじっと見つめる。猫のように黒々と丸い瞳が印象的なところはあの頃から変わらない。この瞳で見つめられるとどうしようもなく胸が高鳴ることも同じだ。

「私のこと好きって言ってくれるもの好きは尾形さんくらいですよ」

尾形が呆れたようにため息をつき「お前の警戒心のなさは筋金入りだな」と小馬鹿にするように言った。不服ではあったが尾形に口で勝てるとも思えず、ナマエは止めていた手を動かして動画配信サイトをぽちぽちといじる。大コケした当時の映画が配信サイトで配信されているとは思えないが、少し興味があった。どこかでどうにか見ることは出来ないのか。せっかくだし今度キラウシに聞いてみよう。

「おいナマエ、またあいつのこと考えてるだろ」
「うそ、尾形さんエスパーですか?」
「お前は顔に出やすいんだ」

リモコンはあっさり取り上げられてしまい、尾形はそのままナマエに体重をかけてソファの上に押し倒した。クッションの中に埋もれながら抵抗しようとしても見逃されるはずもなく、視界には尾形と天井しか入ってこない。
映画を見ようと言っていたのに、これではどうにも見ることはできないだろうと思われた。





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