番 外 編 こ と ば



外資系の企業が多数入っているというわけではないが、いくつもの大手企業が入るビルの一階にあるため、外国人客もそれなりにいる。従業員全員が堪能というわけではないが、アルバイトの中には英会話が出来るスタッフもいるし、英語で書かれたメニューも用意がある。最終的に指さしでなんとなく意思の疎通をとり、あとは笑顔でどうにかしていた。

「あー、えーっと…」
「Какой самый сладкий напиток?」

ナマエは髭の外国人客を前にどうしたものかと頭を抱えた。
これは何語だろうか。英語じゃないことはわかる。中国語でも韓国語でもなさそうだ。フランス語、イタリア語、ドイツ語。いくつか可能性を考えてみたが、何処の国かを当てるゲームでもあるまいし、わかったところで言語が理解できるわけではない。

「Кто-нибудь понимает по-русски?」

だめだ、全く分からない。幸い後ろに客はいないけれど、このまま立往生させているわけにもいかない。どうしようか思っていると、ふと妙案を思いついた。自動翻訳アプリだ。スマホに向かって喋って翻訳してもらえばいい。
いままで使ったことはないから相手が何語かわからない状態で使えるものかどうかは知らないが、物は試しである。「プリーズ、ウェイト!」完全な片仮名発音でそう言ってロッカーまでスマホを取りに行こうとすると、長身の外国人の後ろからまた外国語が飛んできた。

「Это самое сладкое.」

それは聞き覚えのある声であり、ナマエは足を止めて振り返る。そこには多少くたびれたスーツ姿の尾形が立っていた。
外国人客は通じる言語が飛んできたことに喜び、それから尾形といくつか言葉を交わした。ひと通りの話を終え、尾形がナマエに向き直る。

「尾形さん、すみません、ありがとうございます」
「ようナマエ。このカフェで一番甘いものが飲みたいんだってよ」
「承知しました。えっと、多分これとか…あとこれが甘いと思うんですけど、どっちがいいか聞いてもらっても良いですか?」

尾形がこくんと頷き、男に向かってメニューを指さしながらなんぞや説明をしていく。男はそれを聞きうんうんと頷いてヘーゼルハニーオレを指さした。

「こっちがいいんだってよ」
「はい、ヘーゼルハニーオレですね。サイズは…」
「Lだと」
「わかりました、ありがとうございます」

尾形の登場により、彼を介してなんとか注文が進んでいった。出来上がりを待つ間外国人客は嬉々として尾形に話しかけ、尾形はごくなめらかにそれへ受け答えをした。サーバーから尾形を盗み見る。まさか外国語が堪能だとは知らなかった。
外国人客はテイクアウトのハニーヘゼルラテを受け取ると「Спасибо」と言って店をあとにした。意味はわからなかったけれど、きっと「ありがとう」とかそういう言葉だろうと思う。

「尾形さん、助かりました」
「大したことはしてない。カフェラテのホット、テイクアウトで」
「はい、少々お待ちください」

いつもの注文をして会計を済ませる。いつものといっても、いまはブラックではなくカフェラテではあるが。

「今日は19時上がりだったか」
「はい、予定通り上がれると思います」
「じゃあ迎えに来る」

尾形はそう言ってカフェラテを受け取り、何食わぬ顔で楚々と店を後にした。後ろから遅れてやってきたアルバイトの先輩に「青春だねぇ」と言われ、真っ赤になりながら「仕事中にやめてください」とぴしゃりと返した。ブーメランになっている気がしなくもない。


滞りなく業務を終えたナマエがロッカーのスマホを確認すると、尾形から「ビル出たところで待ってる」とメッセージが入っていた。ナマエは急いで「今終わりました」と返信をして、いそいそ着替えを済ませると、店内を抜けてビルの外に出る。出てすぐの壁に背中を預けて尾形が待っていた。

「おう」
「お疲れ様です」
「ん」

言葉少なにそう応答し、ナマエが隣に立つと勝手に右手を取り去って歩き出す。最近の尾形は、当然のようにナマエと手をつないで歩くようになっていた。嫌なわけではもちろんないが、昔のことを思い出した分、こんなことをする人だっただろうかと不思議な気分にもなった。

「お昼間のお客さん、結局どこの国の方だったんですか?」
「なんだお前、それもわかっていなかったのか」

少し揶揄うような声音で尾形が言った。その言いっぷりに多少ムッとしたものの、まったくもってその通りだから「英語じゃないことしかわかりませんでした」と正直に白状した。

「ロシア人だ。話してたのも、多少東部なまりがあったがロシア語だった」
「尾形さんロシア語話せたんですか?」
「ああ、ほとんどは昔取った杵柄ってやつだがな」

ロシア人とは予想もしていなかった。いや確かに色素の薄いかんじはなんとなく寒い国を髣髴とはさせたけれども、あいにく見た目だけで国籍を言い当てられるほど外国人の見分けがつくタチではない。

「昔って…もしかしてあの頃の?」
「ああ。鶴見中尉の言いつけである程度話せるまで勉強をした」

お前には話したことがなかったか。と尾形が続けた。あの頃はさっぱりそんな話は聞いたことがなかった。もしかして彼が樺太に行っている間にはその成果を発揮する場面があったのかもしれないが、あいにくその頃ナマエは土方たちと北海道にとどまっていたから、それを見るチャンスは一度もなかった。

「……どうした?」
「えっ、あ、いや…あの頃の事でも知らないことたくさんあるんだなぁと思って…」

悶々と考えていたのが顔に出てしまっていたのか、尾形が尋ねてきた。拗ねたような言い方になってしまったかもしれないけれど、概ね事実である。
尾形と知り合ったのは旅に出る前の夏。それから年が明けて、春には一緒に小樽を出た。夏が過ぎ、秋に網走で別れ、そして春になる前にやっと再会して、そして───。
尾形と出会ってから過ごした時間は二年にも満たない。

「俺も、お前のことは結局知ってるんだか知らないんだかよくわからん」

尾形がナデナデと空いた右手で髪を撫でつけてそっぽを向いた。ナマエはその子供っぽい様子に思わず「ふふふ」と笑いをこぼす。

「私たち、お揃いですね」

ナマエがそう言いながら繋いだ手にぎゅっと力を籠めると、一瞬ためらったあと、それに応えるように尾形も指先に力を込めた。

「あー、なんだ、その…部屋寄っていくか」
「今からですか?」
「ああ。明日休みだろ」

言外に泊まっていけとでも言われているように聞こえる。もちろんやぶさかではないけれども、こうも急だと心の準備が足りない。そりゃあ、前の世ではそういうことがなかったわけではないけれど、今だって緊張するのは変わらないに決まっている。

「…べつにお前を怖がらせる趣味はない」

どこか聞き覚えのある言葉にぐっと記憶が巻き戻される。いつだったか、そうだ、釧路の海岸で飛蝗から逃げ込んだ番屋の中。谷垣がもらったというラッコの肉を煮て、とんでもないことになって、そのあとだ。尾形の熱っぽいさまが忘れられなくて勝手に避けてしまって、それを尾形が子供みたいな声で「妙に避けたりするな」と言ったのだ。
あの時からずっと、尾形がナマエになにか無理強いをしようなんてことはただの一度もなかった。

「あ、あの…嫌とかじゃ、ないんですけど……緊張するっていうか、その、私19年間そういうことも全くないですし、いろいろ…失敗しちゃいそうで…」

話しながら、尾形にそこまでの気がないとしたらどうしようという気になってきた。そうだ、べつに部屋に寄っていくかと尋ねられているだけで、そういうことをするだなんて言われているわけではない。自分一人で勝手に想像して予防線を張るようなことを言って恥ずかしいことこの上ない。

「言ったろ、おぼこいのも悪くねぇってな」

尾形はぐいっと片方の口角だけを上げ、ナマエの手を解放するとそのまま今度は腰を抱いて歩いた。さっきまで少し子供っぽい雰囲気さえ出していたのに、こうして一瞬で空気を変えてしまう。その差にくらくらしてしまうのは、今も昔も変わらないことだった。


ナマエが土曜日の開店前に表の掃除をしていると、ビルの周りをうろうろとうろついている長身の男がいた。あれはあの時のロシア人客だ。思わず見てしまって、するとばっちり目が合い、彼がとことこと歩み寄ってきた。これは次こそ翻訳アプリの出番か。

「お、おはようございます…」
「ヒャク、イル?」
「ひゃ…?」

ヒャクイル…どういう意味だろう。いや、どうせ考えたところでロシア語なんかボルシチとマトリョーシカくらいしか知らない。ポケットに入れたままのスマートフォンを取り出そうとすると、ロシア人は手元のスケッチブックにサラサラと何かを描き始める。ものの数分で描き上がったらしくナマエにそれを見せれば、そこには尾形の似顔絵が描かれていた。一目でわかるくらいよく出来ている。

「あれ、ヒャクってもしかして百之助のヒャク…?」

ヒャクイルというロシア語ではなく、百之助はいるかという日本語なのか。ナマエが似顔絵を指さして「オガタヒャクノスケ?」と聞けば、男は目をパァっと輝かせてぶんぶん首を縦に振った。

「プリーズ、ウェイト!」

これはどうこう説明するより、尾形に電話をかけてしまおう。彼ならこのロシア人とも電話越しだって会話できる。たぷたぷとスマホのアドレス帳から尾形の名前を呼び出し、通話ボタンを押してコールをする。

「あっ、尾形さんおはようございます」
『…なんだナマエ…お前今日は朝からシフトだって言ってなかったか?』
「えっと、そうなんですけど、この前のロシア人のお客様がみえてて、何だか尾形さんのことを探しているみたいで…」

ナマエの説明に尾形が舌を打ち『あの野郎覚えてやがるのか…』と呟いた。一体何がどうなっているのか。尾形がそのあとも電話口で『どうしてここに』『いやそれより俺のことを』とぶつぶつ独り言をこぼし、ひとしきり吐き出した後に気を取り直して『まぁ良い。電話代われるか?』と尋ねる。

「はい、今代わりますね」

ナマエがスマホを差し出すと、ロシア人がそれを使って尾形とロシア語で話を始める。彼はフンフンという効果音が目に見えそうなくらいに嬉々として話していて、まるで昔からの知り合いのように見えた。
それからしばらくしてロシア人はナマエをちらりと見ると、まだ通話が繋がったままのスマホを差し出した。きっと尾形に『持ち主に繋げ』とでも言われたに違いない。頬にぺたりとスマホをくっつける。

「代わりました」
『今からその男を迎えに行く。そこで待っているように言ってあるから、お前はもう仕事戻っていいぞ』
「えっ、でも外で待ってて貰うんですか?」
『別に構いやしねぇよ、すぐ家出る』

じゃあな、と一方的に通話を終わらせると、ロシア人は「Спасибо」と言って建物の隅の方に歩いていって壁に背を預けた。店内を勧めようにもどう言っていいものかわからないし、結局ナマエは一度店の中に戻り、自分の財布からヘーゼルハニーオレ一杯分の代金を支払うと、外で待っている彼のもとへ持って行った。アイスブルーの目がパッと見開かれ、にこにこ笑っているところを見るに喜んでくれているのだろう。
この男があの当時、尾形と壮絶な狙撃戦を繰り広げたロシア兵だったと知るのは、ほんの数時間先の事である。





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