18 ふ た り



ナマエと尾形は黙ったまま帰路についた。痛みは徐々に引いていくように感じた。
アパートのエントランスの前でいつものように別れようとして、ナマエは自分でも自分がどうしたいのかもわからず尾形のジャケットの裾を掴む。

「…部屋の前まで送ってく」

尾形の提案にナマエはこくんと頷いた。
階段を昇り、アパートの3階に向かう。ナマエの部屋の前まで辿り着くと、鞄からごそごそと鍵を取り出した。

「あー、その…なんだ。無理はするなよ」
「…はい」

じっとりとした沈黙が流れる。
尾形の言った「お前がいれば、それでいい」という言葉を信じるほかないのに、どうしても胸の奥で何か見えない大きなものが渦巻いている気がした。

「尾形さん、あの…」

名前を呼んでどうしたいのかわからなかった。自分の抱えている感情が自分でもよくわからない。寂しくて、苦しくて、胸をぎゅっと締め付けられる。

「…ちゃんと戸締りして寝ろよ」

尾形がナマエの頭を撫でた。大きな手の感触がゆっくり伝わる。好きだ。このひとが好きだ。

「はい…おやすみなさい…」

だから、もやもやと引っかかる心の澱のようなものが、どうしようもなくて切ない。


いくら落ち込んでいても朝は来る。
一体自分の中で折り合いのつかない感情がどういうものなのか、それは名状し難かった。
ずっと、初めて出会ったときから「前世の恋人」と言われたことが気になっていて、初めの頃はそんな素っ頓狂なことを言われたから気になっていただけだと思っていた。
けれど、尾形に惹かれるようになるうち、その言葉は次第に重い足枷に変わっていった。

「…はぁ…」

鯉登は、自分の前世を覚えていると言っていた。あの荒唐無稽な話が仮に本当なら、尾形にもその前世の記憶とやらがあって、自分と似たような女のことを好いていたのか。
そうだとして、それは本当に自分のことを好いてくれているということなのか。自分を通してその前世の恋人を探しているんじゃないのか。

「どうしたんだい、溜息なんかついて」
「えっ…!」
「こんなところで奇遇だね。買い物?」

声をかけてきたのは杉元だった。隣には明日子の姿もある。ナマエは気分転換にとバイトのない土曜日、自分の生活圏からずいぶん離れたショッピングモールに足を伸ばしていた。

「あ、はい。杉元さんと明日子ちゃんもお買い物ですか?」
「ああ!シェアハウスの洗濯機が壊れたから杉元と一緒に見に来たんだ」
「シェアハウス、ここから近いの?」
「車で10分くらいだぞ」

今日訪れたショッピングモールは奇しくも杉元や明日子、白石の暮らすシェアハウスに近いらしい。シェアハウスで洗濯機が壊れたとなると相当大変だろう。一人暮らしなら自分だけの問題で済むが、シェアハウスとなればそうとはいかない。

「昨日はコインランドリーに行ったんだけどね、毎日っていうのも俺も仕事あるから車出せるとも限らないし」

杉元がそう言って、ナマエは自分の自宅付近にあるコインランドリーのことを思い浮かべた。近くにあればいいが、なければ洗濯ものを持って移動するのも一苦労だろう。
そういえば、あのコインランドリーで顔を合わせたから尾形さんが近くに住んでるって知ったんだっけ。そこまで考えて、自分がまた尾形にばかり意識を割いてしまっていると頭を振った。

「ナマエは何を買いに来たんだ?」
「えっ…と、私は…」

明日子にそう聞かれ、咄嗟に言葉に詰まった。目的なんてなく、しかしそれならそれで「フラッと来ただけだよ」とでも何とでも言えばいいのに、それも出来なかった。それで明日子と杉元はナマエの様子がおかしいことに気が付いたようで顔を見合わせる。

「どうしたナマエ、調子が悪いなら車に乗ってくか?」

ぐいっと明日子がナマエを覗き込む。昔もこんなことがあった気がする。ーー昔?
そうだ、あのとき山の中で、体調が悪くなって。そのときはどうだったっけ。

「ナマエさん?」

杉元の声に弾かれたように顔を上げる。顔に残る時代錯誤の大きな傷がぎらりと光る気がした。
ナマエは尾形に「いつも」や「昔から」という言葉をかけられるたびにずっと違和感のようなものを感じていたが、自分も無意識のうちにそういった言葉を頭の中で思い浮かべる機会が多くなっていた。
そんなふうになったのは、尾形に出会ってからだ。

「アシリパ、ちゃん…」

口から転げ落ちた知らない名前に、杉元と明日子がハッとまた顔を見合わせる。それから明日子がナマエの二の腕をぐっと掴んだ。

「ナマエ!」
「あ、あれ…ごめんね、私、なんか変なのかも…」
「…いや、いいんだ。向こうのファミレスで休憩しよう!たくさん歩いて疲れたんだ!」

明日子が笑ってそう言い、杉元も「いいね」と隣で賛同する。「疲れたときは甘いものがいいぞ!」と言われ、こんなに小さい子にまで気を遣わせてしまって申し訳ないとは思ったが、手を引いて明るく振舞ってくれているのがありがたかった。
手を引かれるままに入ったファミレスで、明日子と杉元と向かい合って座る。明日子が早速グランドメニューを広げ、ハンバーグとステーキで迷いだした。疲れた時には甘いものと言っていなかったか。

「もぉー、明日子さん、夕飯入らなくなっちゃうよぉ?」
「杉元、ファミレスのチーズハンバーグは別腹だぞ!」

そんな別腹は聞いたことがないが、明日子を止めることは杉元にも出来ないようで、いよいよ標的はチーズハンバーグに絞られていく。ナマエはというと、流石に昼下がりのこの時間からそんなヘビーなものを食べる気にはなれなくてモンブランを注文することにした。
明日子が呼び鈴を押し、ほどなくして現れたウェイトレスにチーズハンバーグとモンブランとくまさんパンケーキを注文する。このくまさんパンケーキは杉元の注文である。別に人の趣味をとやかく言うつもりはないが、随分可愛い注文だ。

「杉元ぉ、まぁたお前は可愛いものを頼んでぇ」
「だってぇぇ、明日子さぁん」

明日子が隣に座る杉元の大胸筋をぐりぐりと突く。杉元はひんっと顔のパーツを中央に寄せ、せっかくの男前が随分台無しになっている。体格のいいれっきとした成人男性とは思えぬ乙女チックな動作で杉元がなよなよとしなを作り、ナマエはそのやり取りにくすくす笑いを溢した。

「なんか、運ばれてくるときハンバーグが杉元さんの前に来そうですね」
「ええぇ、俺そんなにハンバーグ顔してる?」
「ふふ。ハンバーグ顔かどうかはわかんないですけど、ハンバーグを美味しそうに食べてくれそうな顔はしてると思いますよ」

そんなことを話しているうちにウェイトレスがトレイに乗せたハンバーグとモンブランとパンケーキを運んできた。そういう時に限ってどうして食事とデザートが同じタイミングで出来上がって来るのか。
初めにウェイトレスが「モンブランのお客様ぁ」と言ってナマエが小さく手をあげると、あとは消去法とばかりにパンケーキが明日子、チーズハンバーグが杉元の前にサーブされた。もはやコントみたいな予想通りの光景にナマエはもう一度笑った。

「いただきます!」

明日子が行儀よく手を合わせ、ナイフとフォークでハンバーグに切り込みを入れる。そこからじゅわりと肉汁が滴り、半分に割ると中からチーズがとろりとこぼれ落ちてきた。
明日子はそこから到底一口大とは思えぬ大きなサイズにハンバーグをカットし、あーんと口を開けて迎え入れる。

「ヒンナヒンナ」
「ひん…?」

明日子が言った言葉が聞き取れず、頭だけをとって疑問符をつける。すると、明日子はその言葉を「何かをもらった時に感謝する言葉だ」と教えた。曰く、食事などに感謝する時にも使うのだという。

「すごいね。外国語?」
「アイヌの言葉だ」
「アイヌ…って、北海道の?」

日本史の記憶を引き摺り出しながらナマエが尋ねると、明日子はそれを肯定した。北海道は日本の歴史においてごく近代までほとんどが閉ざされた場所であった。その北の大地に先住していたのがアイヌ民族である。

「明日子ちゃんはアイヌ文化が好きなの?」
「私はアイヌの末裔なんだ」

思わぬ返答にナマエは「えっ」と声を漏らした。アイヌ民族の身体的特徴について詳しいわけではないから見分けというものが付くのかどうかはわからないが、こうして身近に少数民族の末裔が暮らしているとは想像もしたことがなかった。

「失われていく故郷の文化をどうにか残して行けたらいいと思っている」
「明日子ちゃん、偉いねぇ。しっかりしてるなぁ」
「私は私に出来ることをしているだけだから」

明日子はこともなげにそう言った。こんな歳でそんなことを言えるのがそもそも稀有なことだと言えるだろう。
自分は彼女ほどの年齢の時にどんな風だっただろう、とモンブランにフォークを差し入れながら頭の片隅で考えた。栗の味を損なわない上品な甘さだ。食感に使われているナッツもアクセントになっていて食べ応えがある。特にこのタルト生地が、とそこまで考えたところで目の前の杉元が同じようなタイミングでパンケーキを口に運んでいて、目を輝かせながら言った。

「んんっ、パンケーキの生地の甘味とミルク感の強い生クリームのバランスが絶妙だ!ラズベリーソースも甘酸っぱくて全体のバランスをとってる。特にこのパンケーキ生地がもちもちで全ての食材と余すことなく絡まっていて美味い!こいつはヒンナだぜ!」

杉元が怒涛の食レポを繰り広げ、本来の意味と多少ずれるような言い回しで「ヒンナ」を使って締めくくった。正直に言って芸能人以外でこんなに食レポをする人間に出会ったのは杉元が初めてだ。バーベキューの時も多少披露していたが、改めて聞かされるとなかなかの圧力がある。

「ふふ、杉元さんすごいですね」
「え、あ、食レポ?なんか美味いもん食べるとついつい出ちゃうんだよね」
「わかります。私も癖みたいなもので、なるべく人前ではしないように気をつけてるんですけど…」
「無意識で出ちゃうんだから仕方ないよなぁ」

杉元の返答にナマエはくすくす笑う。その気持ちがよくわかった。ナマエも気をつけていないとうっかりその癖が出てしまいそうで、最近はずっと尾形の前以外でうっかり口にしてしまわないように気をつけていた。
そういえば、尾形はナマエのそれを一度も疎むようなことはなかった。むしろいつも少し楽しげな様子でさえあった。その反応が新鮮で嬉しくて、尾形の前では自然体でいられた。

「…あのさ、勘違いだったら申し訳ないんだけど…ナマエさん尾形と付き合い始めた?」
「えっ…!」

頭の中を見抜いたように振られた言葉にカッと顔が熱くなるのを感じる。それだけで杉元と明日子には白状してしまったも同然で、杉元は「やっぱり」と言って明日子は「おめでとう!」と身を乗り出した。
誰かに話したのはこれが初めてで、成人と未成年の交際について悩んでいた身としては手放しで祝福してくれることが嬉しかった。

「えっと、その…一応…」
「よかったな、ナマエ、尾形のことが大好きだって顔にかいてあったぞ!」
「あ…明日子ちゃん…」

明日子がにこにこと言って、ナマエはそんなに分かりやすかっただろうかと、真っ赤になった頬に意味もなく手を当てる。

「でもそれならどうしてあんなに暗い顔をしていたんだ?」

明日子の言葉にぎくりと肩を震わせた。ちらりと二人を見る。言い訳は通用しなさそうだった。

「その…実は、私の思い込みかもしれないんだけど、尾形さんが私じゃないひとを見ているような、そんな気がして…」

かいつまんだナマエの言葉に杉元と明日子がこっそりと視線を交わす。尾形さんの友達になんてことを言ってるんだろうかという気になって、ナマエは慌てて「私の勘違いだと思うんだけど!」と取り繕った。

「俺から見て、ナマエさんは尾形の特別な人だと思うなぁ」
「え?」
「いや、キャンプに行ったときナマエさんの話してた尾形の顔、見たことないくらいあったかいっていうか、穏やかっていうか…なんかそんな顔しててさ」

杉元の言葉に、ナマエはキャンプに行ったゴールデンウィークのことを思い出した。あの時はまだ出会って日が浅いっていうのになし崩しでキャンプに連れ出されて、それが少しも嫌じゃなかった。
むしろ昔馴染みに会わせてくれるということが、どこか尾形のテリトリーに入ることを許されているようで嬉しかった。

「ナマエ、尾形のこと好きか?」

明日子の言葉がすっと透き通って届いた。問題は、本当のところ意外とシンプルなんじゃないか。
前世の恋人という言葉にどんな事実があったとしても、それを理由に尾形から離れることが出来るのか。いいや、出来るはずがない。

「うん、私、尾形さんのことが好き」

ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸がするりと解けていくようだった。
ナマエの気持ちそのものに、尾形の考えや感情というものは本質的に無関係だ。ナマエの気持ちはナマエのものでしかないし、同じであればいいとは思うけれども、同じでなくたって無理やりに形を変えることは出来ない。

「私、尾形さんのところがいい」

そうだ、尾形を好きになったのは他でもない自分の意思だ。後悔などあるはずがない。尾形のそばにいたい。今は傷ついてでも、あの背中を手放したくない。それくらい熱烈に、尾形のことが好きになってしまったのだ。

「ありがとうございます。明日子ちゃん、杉元さん。私、もう平気です」

モンブランをぱくりと口に運ぶ。甘いケーキが胸のなかでゆっくり溶けていく。次に尾形に会う時はちゃんと自分の気持ちを伝えよう。どんな真実があっても自分の気持ちはもう変えられないのだ。





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