15 あ の ひ



網走監獄での夜、尾形は結局ナマエのところへは戻ってこなかった。言いつけ通りに永倉と行動していたナマエは、第七師団の兵士の目を掻い潜りながら土方陣営と合流した。

「尾形はもう戻ってくるかはわからん。お前さん尾形に連れてこられたクチだろう。これ以上俺たちについてくることはないんじゃないか」
「いえ…尾形さんが必ず迎えに行くって言って下さったから…」

苛烈さを増す金塊争奪戦の、地獄行きの舟にこれ以上同乗することはないと永倉はそう言った。その話にナマエは首を振る。尾形は迎えに行くと言っていた。待っていろと。

「何も、残らんかもしれんぞ、お前さんには」
「いいんです。もしも何もなくても…」

ついていくと決めた。最後まで。


土方たちとの道中では、釧路で途中キラウシというアイヌに再会した。彼とは刺青の囚人のひとりである姉畑の人皮を入手した際に一度顔を合わせている。奇妙な縁もあるものだと思いながら、ナマエはおさんどんや治療を中心とした支援を土方たちに続けていた。

「あのニシパはいないのか」
「あのニシパ?」

全員分の洗濯をしているとき、不意にキラウシにそう尋ねられた。キラウシは「銃の巧い、兵隊の」と補足した。尾形のことだ。

「えっと、少し前にはぐれちゃって。今は別行動というか…永倉さんたちとご一緒して迎えに来てくれるのを待ってるんです」
「そうか」

キラウシはナマエの前に屈むと、一緒になってたらいの中の洗濯ものをごしごしと洗う。なんだかんだとキラウシも夏太郎もナマエを手伝ってくれているから、おさんどんはちっとも苦ではなかった。
一行は釧路から土井新蔵、もとい人斬り用一郎の足跡をたどり、その後阿寒湖と登別を経て小樽にある土方歳三一派の隠れ家に潜伏した。

「イノシシ来い!!イノシシ来い!!」

キラウシと門倉が揃って花札をしている。年齢も境遇もずいぶん違うように思える二人だが、存外馬が合うのか二人でこうして手遊びに興じていることは多かった。もっとも、二人を組ませたのは元々永倉の采配ではあったが。

「うるせぇこの野郎!」
「ふふ、まぁまぁ永倉さん。いいじゃありませんか」

土方について永倉、牛山と四人で街に出ていたナマエは永倉にそう声をかけた。もうこのやりとりも随分と慣れたものである。初めの頃は尾形も、顔見知りだった谷垣もいない中でどう立ち回ればいいかと頭を抱えたものだが、立ち位置を心得てしまえば存外快適であった。

「こいつら毎日ダラダラと…」
「そう言わずに…あれ?」

門倉たちが花札をしている部屋の反対側、火鉢のあるその部屋にいつもと違う気配を感じた。牛山もナマエに続いて「おや?」と声をあげる。

「のら尾形が戻ってきてる」

そこにいたのは、火鉢を我が物顔で占領する尾形の姿だった。

「お、尾形さん…!?」

ナマエは驚きのあまりに返って小さな声になりながらそう尾形を呼び、パタパタとそばに駆け寄った。尾形はナマエが駆け寄ったことによりむくりと体を起こす。右目に包帯を巻いている。

「ようナマエ、迎えにきたぜ」
「…ばか」

尾形はさらりと髪を撫で上げる仕草で、その不遜にも見える態度が尾形そのものだと実感することができてナマエは泣きそうになった。戻ってくれた。待っていた。ずっと、信じて待っていた。

「…網走監獄から今日まで何をしていた?」

土方のヒヤリとした刃物のような声が飛ぶ。ナマエは嬉しさの余りここに他の面々がいたことも忘れていたと赤面し「お茶淹れてきます!」と言って厨に走っていった。


ナマエの淹れた茶を前に、一行が顔を揃えて尾形の言葉を待つ。
尾形の話によると、あの夜の混乱の最中でアシリパはのっぺら坊が父親であることを確認出来たものの、その直後にのっぺら坊とそばにいた杉元が流れ弾に当たって倒れたらしい。
散り散りになる中でキロランケがアシリパを連れて逃げるのをみて、尾形はその後を追って樺太に渡ったという。そしてアシリパを樺太で暗号解読の一助となるだろう女囚ソフィアに引き合わせ、そこで杉元佐一に追いつかれてキロランケは殺害され、アシリパは奪い去られたという。尾形の右目もその際に負傷したのだそうだ。

「とうして杉元がキロランケを?」
「殺したのはアシリパ奪還のために杉元と一緒にいた鶴見中尉の部下たちだ。杉元が集めていた刺青人皮は全て奪われてると考えた方がいい。だが杉元は樺太で鶴見中尉たちを裏切りアシリパと北海道へ逃げ帰ってきている」

牛山の疑問に尾形はするすると答えてみせた。ナマエは話を聞きながら、その右目はいったい誰にどうやってやられたものなのだろうと考える。尾形は見つめるナマエに気がついたようで硬く握った拳を開かせるように包んだ。

「俺の樺太土産はふたつある。ひとつはソフィア・ゴールデンハンドという女の情報。ウイルクとキロランケのかつての仲間でパルチザンの女頭首だ。必ずアシリパを奪いに日本へ来るだろう鶴見中尉たちとは別の厄介な勢力になるはずだ」

尾形は自分の有用性を示すように情報を話し始めた。茨戸の時と同じだ、と思いながらそれを聞く。その場にいる誰もが尾形の「もう一つ」を待った。

「もう一つは、アシリパはどうやら暗号を解く鍵を思い出したということ」

その言葉に緊張が走る。だとしたら、アシリパの奪取は急務になる。万が一鶴見陣営に先手を打たれれば拮抗している戦況は大きくひっくり返ってしまう。門倉が「一刻も早くアシリパを探さなくっちゃ!!」と言えば、尾形は「向こうから来るさ。杉元たちだって刺青人皮を集めるしかない」と返す。それはその通りだろう。もはや刺青人皮の枚数は土方陣営と鶴見陣営に二極化している。

「では、次の手を打たねばなりませんな。待つと言ってものうのうと待ってるわけにはいきますまい」
「杉元たちを待つのは他の刺青人皮を集めながらで問題ないだろう。どうせ奴らも残りを狙ってくる。永倉、引き続き囚人の情報を」
「はい」

永倉の声に土方が答える。尾形がもたらした情報で視野は広がったが、出来ることに変わりはない。今まで通りの刺青人皮捜索を続行しながら杉元たちに対して注意を払う。

「尾形、この子に土方さんたちと行動しろと指示したのはお前だろう。なぜそんなことをした」

永倉が不意に切り出し、じっと尾形を見つめた。どうして突然そんなことを言い出したのか。ナマエは見当もつかないまま黙ってその場を見守った。尾形は包んだままのナマエの手を握る力を少しだけ強める。

「ジィさんについてりゃそうそう死なねえし、はぐれても土方歳三と合流するだろうと思った。そうなりゃ見殺しにされるこたぁないだろう」

尾形は網走でナマエに言ったことをなぞるように口にする。実際、永倉と共に行動していたから網走監獄付近の潜伏先のコタンからも逃げ出すことができ、土方とも合流できた。そして今日まで死なずに生き抜くことが出来ている。

「よく馴染んでよく働いてくれておったぞ。お前なんぞの隣に置いておいていいのか」
「なんだ、老婆心か?それとも俺とコイツのことを取り合おうってか」
「馬鹿を言え。お前には勿体ない良い娘だと言ってるんだ」

随分な評価をもらっている、とナマエは「永倉さん…」と間に入ろうとしたが、存外ぴりりと切り立つ二人の空気に割って入ることはできなかった。
土方が今後の動きについて話を詰めると言って二人に割って入り、どうにかその妙な空気が収まった。湯飲みからはまだほんのりと湯気が立っている。


その日の夜。ナマエは尾形に呼ばれ、隠れ家の近くを二人で並んで歩いていた。外はまだ寒く、雪解けには遠い。冷える身体をさすると、尾形がナマエを引き寄せて外套の中へと閉じ込める。

「…私、ちゃんと待ってましたよ」
「ああ。迎えに来ただろ」
「はい。尾形さん、いつもちゃんと来てくれますよね」

ふふふ。ナマエは控えめに笑った。小樽を出た時も、いつ迎えに来るのかもわからない尾形を待っていた。尾形はちゃんと迎えに来た。尾形は嘘つきなところがあるけれど、迎えに行くから待っていろと言ったときは必ず迎えに来てくれる。だからナマエは尾形を待つことができる。
暗闇の中を二人で進む。宛てはない。まるでこの旅路のようだ。そんなことを思っていると、隣の尾形がすっと足を止めた。外套からするりと抜け出してしまう形になり、ナマエは尾形と向かい合う。

「尾形さん?」
「…杉元を撃ったのは俺だ。というか、正確には殺そうとして仕留め損なった」
「そう、ですか…」

土方や永倉には「流れ弾に当たった」と説明していたが、それはどうやら嘘の情報であるらしい。尾形は故意に杉元を撃ち、そして仕留めそこなった。樺太に行ったことも、元から予定していたのかもしれない。
協力者が他にいるならキロランケか白石だが、キロランケが死に白石が杉元と行動をともにしていることを考えれば、それはキロランケである可能性が高い。

「アシリパから暗号を解く鍵を聞き出そうとしたんだがしくじってな。右目がこのざまだ。やっぱり俺ではだめらしい。上手くいかんもんだ」
「その…右目は、アシリパさんが?」
「ああ。もっと言えば出くわした杉元に驚いてあの娘が手元を狂わせたんだが」

淡々とした尾形の語り口の中に、底知れない闇を感じた。この男はナマエにすべてを曝け出しているふうでいて、まだ踏み込ませない闇を持っている。ナマエにそれを暴こうという気はなかった。

「あの娘も勇作殿もそうだが…どうして道理があるのに人を殺さないのだろうな。俺は道理をやったんだ。お前の父も杉元も、殺したのは俺だと教えてやった。なのにあいつはギリギリまで俺を殺そうと躊躇ったし、実際この右目も事故みたいなもんだ。このまま穢れずにこの争奪戦をやり過ごすつもりなのか」

尾形は目の前に立っていて、どこか遠くの誰かと話しているように感じた。饒舌なそれは独り言よりも対話であり、対話ではあるが相手はナマエではない。名状し難い隔たりがそこにある。

「俺には罪悪感というものがないらしい。人を殺しても何とも思わんし、必要なときは誰だって殺す。祝福を受けていない呪われた人間だ」

ぎょろり。左だけなった猫の目がナマエを見る。そこから初めて言葉がナマエに投げかけられるように感じた。どこからも何の音もしない。雪がすべての音を吸収してしまっている。尾形の掠れた声だけがひっそりとナマエに届いた。

「お前も俺を、おかしいと思うか」
「たとえそうだとして、それはいけないことなんですか」
「質問を質問で返すな」

ぴしゃりと言葉を断ち切られ、ナマエはぐっと押し黙る。人を殺して罪悪感があるとかないとか、正直なことを言ってしまえばナマエには向こう側の世界の話だった。
この旅路の中でナマエはひとりも人を殺していない。けれどそれはナマエが敬遠しているというより単純に人を殺す能力と技術が欠如し、なおかつその機会がないからだ。このところは土方陣営に世話になっているが、それまでだってずっと尾形がそばで守っていた。だから自ら誰かを手にかけることがなかった。それだけの話だ。

「…おかしいとかおかしくないとか、よくわかりません。私きっと、尾形さんが危ない目に遭っていたら相手が誰でも殺してしまうと思います。私なんかでどうこうできる相手に尾形さんが追い詰められるところなんて想像できませんけど…」

実際にその場面に遭遇したわけではないのだから想像の域を出ないが、自分が相手を殺さなければ尾形が死ぬというのであれば、勝算がなくてもきっとナマエは拳を振り上げると思った。罪悪感などそれこそそのあとになってみないとわからない。
ただこの瞬間、尾形が欲しているのはこの問答の答えでないということは充分にわかることだった。

「それに私、今の話聞かされたって、ついてこなければ良かったなんて、ちっとも思いませんからね」

大雪山で悪天候に見回れ鹿の身の内で難を逃れたとき。いつだって強引でナマエを簡単に自分の調子に巻き込んでいくこの男が、あまりに小さな声でナマエに後悔があるのかを尋ねた。その答えはあの日から変わらない。

「ははぁ、俺がとんでもねぇ悪人だとしてもか」
「はい」

ナマエは空いてしまっていた一歩分の距離を詰める。それから無防備な尾形の身体を目一杯両手で抱きしめた。大人の男の身体だとわかっているのに、今日はどうしてだか小さな子供を抱きしめているような気分になった。

「私、はじめから尾形さんのこと、別に善人だなんて思ってないですよ。優しくないし、すぐ嫌味言うし…」
「随分な言われようだな」
「もう…。尾形さんのこと善人だなんて思ってませんけど、あの日もう会えないかもって思ったらすごく嫌だったんです」

本当は、彼の不器用な優しさにも気づいている。それを真っ向から言われると照れて嫌味で返すことも。
俺についてこい。その言葉だけで充分だった。「お前も決めろ」と言われたあの日に決めたのだ。私はこのひとについていく。
背中に回した手からは尾形の体温を感じた。生きててくれてよかった。また会えてよかった。

「もしも最後に何も残らなくても、尾形さんとなら、いいんですよ」

小樽での日々が懐かしく感じるほど遠い。ゆく先は地獄かもしれない。生きているほうが不幸だと思うほどのことが待っているかもしれない。けれどもう、この男からは離れ難い。
あなたとなら、どうなったっていい。心の底からそう思ってしまったのだ。この選択に少しも後悔はなかった。

「好きです」

尾形がその言葉には応えずに手のひらでナマエの頬を掬い、ゆっくりとその顔を近づけた。ナマエは導かれるように瞼を降ろし、やがて唇に尾形の少しかさついたそれの感覚が重なる。
何よりあなたを支えていたい。あなたがそれを許してくれるのなら、ずっとそばで。





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