14 は な び



ナマエは昔から花火が少し苦手だった。映像で見る分には何とも思わないため、恐らく原因は臭いと音だろうと思う。
そもそも大きな音は好きではないが、雷なんかより花火の音はもっと嫌いで、友人に誘われても花火大会だけは一度も行ったことがない。

「はぁ、花火大会のシーズン来ちゃったなぁ」

ナマエはスマホに入った大学の友人からのメッセージを確認して溜息をついた。今度の夏祭りに一緒に行かないかという誘いである。ここは穏便に「バイトのシフトが入ってるから」と断るのが無難だろうとそのように送ると、今度は通話になって飛んできた。

『えーっ!ナマエ行かないのー!?』
「ご、ごめん、シフト入ってるからさぁ」
『夏だよ?祭りだよ?出会いだよぉ?』

彼女は同じゼミの友人で、彼氏を作ることに対し非常に精力的に活動している。可愛い方だと思うし、さほどほかに難があるとは思えないから、彼女に特定の彼氏ができないのは「恋に恋しているから」ではないかとひそかにナマエは思っていた。

「出会いって、祭り行っただけで出会えるもんかなぁ?」
『だからゼミの先輩に男子連れてきてもらってグループで回るの!』
「なるほど…」

そういうパターンの合コンか。とナマエは理解した。
ただでさえ友人の言う夏祭りは花火が最後に上がるのを売りにしているのだ。その上興味のない合コンを兼ねているとなれば断らない手はない。

『女の子足りないの!ね!ナマエ!』
「いやぁ…」

友人の押しが強いのとナマエがはっきり言わないのとで事態は膠着した。彼女は人が良くて学内でも助けられているし、なるべく手助けをしてあげたい。しかし苦手な花火大会と興味のない合コンのダブルパンチは非常に苦しい。
ナマエは頭を抱えた挙句「あ」とひとつの妙案を思いついた。

「すーちゃんは?あの子彼氏と別れたって言ってなかった?」
『あ!確かに!すーちゃんなら来てくれるかも!』

友人はそのまま「ありがとっ!」と言って通話を切った。
よかった。適任を選出することで難を逃れた。これでみんなウィンウィンというやつだ。

「…まぁそもそも、合コン行ったところでね…」

何せ、もう好きな相手がいるのだから、そういった場に出会いを求めてもいないのに行くのだって迷惑だろう。
尾形はどうしているだろうか。理由もなく気になって、理由もなくメッセージを送った。尾形からは1時間もしないうちに返信が来た。


数日後の勤務中のことだった。

「ミョウジさんは行くの?夏祭り」

またこの話題だ。と、ナマエは男の先輩の言葉に苦笑いをした。時期が時期だから仕方がない。

「行かないです。シフト入ってますし」
「えぇぇ、せっかく大学生なのに」
「せっかく大学生なんで、夏休みは稼ぎたいんですよ」

この男の先輩はフリーターで、夜はバンド活動に精を出しているらしい。一度も演奏を聞いたことはないが、バンドではベースをやっているそうだ。

「先輩は行かないんですか、夏祭り」
「まぁねー、俺は人ごみ平気だけど、彼女が嫌がるからなぁ」

こざっぱりとしたこの先輩は何かと話題を振っては来るけれど、自分の意図しない回答をナマエがしたとしても変に突っ込んで聞いてきたりしないから気が楽だった。
大学も夏休みに入り昼帯からシフトに入っているナマエはせっせと紙カップの補充をする。

「あ、そう言えば今日第七商事さんのデリバリー入ってたけど、ミョウジさん行ける?よね?」

そう言って、彼はタブレットの注文履歴をひらりと見せる。第七商事営業部宇佐美様。本日のコーヒーのデリバリーで16時から。
時計を見るともうそろそろデリバリーの準備をしなければならない時間だ。どうしてそんな殆ど断定系の言い方なのかと思いながらも、ナマエは「行きます」と答え、さっそくデリバリーの準備に取り掛かった。


配達するコーヒーは10杯分。カゴに必要なものを入れて27階へエレベーターで上がっていく。
控えめな電子音の後に扉が開き、フロアに降りる。きょろきょろと左右を確認して、金色で社名の書かれたガラス戸を目指す。ここに来るのは二回目だ。
受付に置かれたインターホンを押せば「はい、第七商事でございます」と、女性の声で応答があった。

「△△カフェです。コーヒーのデリバリーで伺いました。営業部の宇佐美様はいらっしゃいますか」
「宇佐美でございますね、少々お待ちくださいませ」

ナマエが言われた通りにそこで待っていると、数分もしないうちに宇佐美が姿を現す。クールビズの時期だからだろう、ネクタイもしてないラフな様子だ。

「ナマエちゃんどうも。早速だけど中に運んでくれる?」
「毎度ありがとうございます。あの、出入り口のところでお渡しすることになってるんですけど…」
「そうなの?まぁいいじゃん。細かいことは気にしないで」

だから、と言いたくなったが、この様子で宇佐美が折れることはなさそうだということはよくわかっている。ダメ押しに「いいからいいから」と適当なことを言われ、ナマエは「失礼します…」と言ってオフィスの中へ足を踏み入れた。

「…宇佐美さん、いいんですか。なんか、会社で勝手して」
「勝手って…君を中に入れてること?そんなことくらい全然平気だけど。君指名したの僕だし」
「指名って、うちそういう店じゃありません」

宇佐美がふふふと笑う。暖簾に腕押しというか、なんとなくこの男は話が通じない。仕方なくそのまま後ろをついて歩き、前回と同じ会議室に通される。
ナマエはカップとポットをカゴから出してコーヒーの準備を始めた。

「ああ、いいよ。淹れるのはこっちでやるから」
「えっ」

ここまで通しておいて、という気持ち半分、純粋な驚き半分でそう声を上げれば宇佐美が「この後会議なんだよ」と補足した。であればどうしてわざわざ中まで運ばせたのか。重いと言ってもナマエ一人で充分持てる重さだ。

「百之助が仕事してるとこ、見たいかなと思って」

宇佐美はそう言いながら手招き、閉じられたブラインドの隙間からナマエにオフィスの中を覗かせる。忙しなく動き回るスーツやオフィスカジュアルの大人たちの中で尾形がパソコンに向かいながら何やら電話の対応をしていた。

「こういう姿、見ることないでしょ?」
「確かにそう…ですね…」

単純に自分の身の回りでこういう光景を見ないというもの珍しさもあるが、尾形のかっこよさというものはそれをおいて余りあると思った。
こんなふうに仕事をしているんだ。なんだかすごく優秀に見える。きっと後輩にも言葉ではあまり優しくなくても、上手にフォローしてあげたりして慕われてるんだろうな。宇佐美さんが見せてくれなかったらきっと見ることはなかった。宇佐美さんが…。

「えっ、なんで尾形さんが働いてるとこ見せようって…」
「だってナマエちゃん、あいつのこと好きでしょ」
「えっ!な、なっ…!」
「バレバレ。あとあいつ確かに仕事は出来るけど普通に嫌味だし優しくないし後輩から慕われてもないよ」

夢の見過ぎ。と言って宇佐美が笑った。「私何も言ってません」と抗議すれば「全部口に出てたよ」と返ってきてナマエはもう意味もないというのに口を塞ぐ。

「それからあいつ、かっこつけなだけでかっこよくないからね」
「どういう意味です?」
「ブラック飲めないの。いっつもカフェラテ。砂糖入れたやつね」

えっ、と声をあげ、ナマエは記憶を辿った。初めて会った日も、その次の時も尾形の注文はホットコーヒーのブラックだった。何食わぬ顔で飲んでいて、まさか苦手のようには見えない。

「飲めないくせにかっこつけて君の前ではブラックしか飲まないんだよ」

ブラックで飲むのがかっこいいと思ってるのがダサくてウケるんだけどね。とくすくす笑いながら宇佐美が補足する。全然気づいていなかった。まさか自分の前だけでだったなんて。

「宇佐美さん、応援してくれるんですか、その…私のこと」
「そう見える?」

ナマエはこくんと頷いた。多少捻くれている感は否めないが、こうしてわざわざ会社の中へと入れて尾形の様子を見せたり、ナマエの知らない尾形の話をしたりする。それはなにかナマエの手助けをしてくれているように感じた。「なんでですか」とそのまま尋ねると、ちらりとナマエを見下ろした後で口を開いた。

「別に、大した理由はないけど…強いて言うなら、変わるところを見てみたいのかも」
「変わるところ、ですか?」
「そ。あの甘ったれの百之助がさ」

何度話してもこの男が何を考えているかは推し測れるところではないが、尾形のことは随分と気にかけているようだ。それは同僚としてなのか、それとも何か彼も「昔馴染み」であるのか。
すっと鼻筋の通った横顔を見上げる。均等なえくぼの代わりのようにほくろがあって、唇はいつもつんと尖っている。町の女の子は優しくて紳士だって言っていたが、自分にはちっとも優しくなかった。いつも意地悪でちょっとしたことでからかわれてーー。

「あれ…」
「なに?」

思考がどこか別のところに引っ張られていくようだった。町の女の子。それは一体どこの。自分は一体いつの話をしているんだろう。

「えっと…宇佐美さんって、昔どこかで会ったことあります…?」
「うわ、何さその古いナンパみたいなセリフ」
「別にそう言うつもりじゃ…!」
「そう言うのは百之助に言ってやんなよ…ああでも、やっぱ言わないほうがいいかもね」

そう言って意味深に宇佐美が笑った。そうやって笑う顔もどこかで見たことがある気がしたのに、それ以上は少しも思い出せなかった。


それから一週間。脳裏にはぼんやりと田舎の風景のようなものがちらついていた。見覚えはない。もしかすると何か昔映画で見た光景かなにかだろうか。
町並みは古く、殆どが木造の家屋だった。町を歩いている人も洋服のひとより着物の人が遥かに多く、女性はみんな髪が長い。まるで、時代劇か何かのような。

「はぁ…」
「アレ、溜息?」
「えっ、あっ…すみません…」

そうだ、バイト中だ。何を考え事なんかしてるんだろう。気を引き締めて店内を見回した。今日は日曜日だから客足は少なく、店内にちほらと浴衣姿の女性が見受けられる。今夜はナマエが断った夏祭り当日だった。
この店からは電車で何駅も移動しなければならないが、待ち合わせの時間つぶしなどで祭り目当ての人間が来店していた。

「やっぱ祭り行きたかったん?」
「いえ、全く。私、花火好きじゃないので」
「あー、近くで見てると音クソデカいよねぇ」

バンドをしているこの先輩店員がそんな音なんぞをどうこう思うとは思えなかったが、気にかけてくれるところがこの先輩の良いところであり仕事のしやすいところである。バンドは売れていないが。

「あと30分でラストだし、まぁ適当に」

何が適当なのかは全くもってわからないが、ここでその気遣いにどうのこうのとケチをつけることもない。
オフィス街にあるこの店舗は平日は21時閉店だけれど、休日は19時に閉店する。時計を確認すると時刻は18時30分。ナマエは「在庫確認してきます」と声をかけ、カウンターを先輩に任せてバックヤードに下がった。
このところ店長が他店舗への応援に出ていて、普段なら社員の女性店員と店長でこなしている仕事をアルバイトが少しだけ手伝っていた。在庫の発注状況の確認などもそれで、ナマエはタブレットを手に在庫の棚を数える。
花火大会に客足を引かれてそのまま閉店かというタイミングでカウンターから先輩が「ミョウジさん!」と焦ったような愉快そうな声でナマエを呼んだ。

「はい?」
「お客さん!来てる!」

カウンターに出ろと言うことだろうか、と思いタブレットを片づけて足早に店頭に戻る。すると、殆ど客足のなくなった店内で見知った顔がナマエを待っていた。

「尾形さん?」
「よぅ」

そこに立っていたのは私服姿の尾形だった。特に約束もしていないし、今日がどうのこうのという話もメッセージのやり取りが会った覚えがない。

「えっ、なんで…」
「お前、夏祭りの日はラストまでシフト入ってるって言ってただろう」
「い、言いましたけど…」

迎えだ。と、少しぶっきらぼうに言い、尾形は髪をナデナデと撫でつける。どうぞあとはお二人でと言わんばかりに先輩はフロアの清掃に出ていって、カウンター越しに向き合う二人だけが残された。

「…ホットコーヒー、ブラックで」
「カフェラテじゃなくていいんですか?」

宇佐美に言われた「いっつもカフェラテ。砂糖入れたやつね」という言葉が頭をよぎり、ナマエは思わずそう言った。すると尾形がなんでだと言わんばかりに目を丸くして、事態が悪化する前に「宇佐美さんに聞いて」と弁明するとたちまち顔を渋く歪めた。

「べ、別に良いと思いますよ、私も苦いの飲めないし!」
「そういう問題じゃねぇ」

尾形は盛大に舌打ちをしたが、少しの問答の末カフェラテを注文することになった。時刻は閉店5分前。尾形は注文のカフェラテを受け取ると「外で待ってる」と言って出ていってしまった。尾形が去り客のいなくなった店内でフロアから戻った先輩が「彼氏?」とニヤニヤ笑っている。
その後、先輩の気遣いで閉店作業をそこそこに「もう帰っていいから」と追い出され、従業員出入り口を出る。出てすぐのところで尾形が待っていた。

「すみません、お待たせしました」
「いや」

どちらともなく歩き出した日曜の夜のオフィス街は静かだった。時おり車がブォンと勢いよく通り過ぎていく。心地の良い沈黙が流れ、いつもはすたすた歩いて行ってしまうはずの尾形とぴったり歩調が合っていた。無論、尾形がスピードを落として合わせているのだ。

「花火、なんで嫌いなんだ」
「なんでって…多分音と臭いですかね」
「音と臭い?」
「はい。あのどぉんっておっきい音するのと、火薬の臭いがなんかダメで…」

ナマエがそう言うと、尾形は「そうか」と相槌を打つ。すぐそばを車がまた通り過ぎる。

「それなら、今日はラストまで入ってないほうが良かったんじゃないか」

何を、と思った時だった。どぉん。東の空で大きな音がする。夏祭りの花火が始まったのだ。数駅離れているから平気だと思っていたが、思いのほか音が大きい。流石に火薬の臭いまでは流れてこないがナマエの肩を震わせるには充分だった。

「あ、あははは…け、結構近いんですね…ここ」

去年の今頃は違う店舗でバイトをしていたからこんなに近いのは予想外だったし、そちらの店舗だと商業施設の中だからラストまで入っていれば夏祭りは終わる時間になるのだ。完全に盲点だった。

「えと、あの…去年までは違うお店で…ヒッ!」

どぉん。大きく音が鳴った。ビルの合間を次々と勢いよく火の玉が登っていく。思わずびくりと身体を固め、尾形がナマエの腕を引いた。くんっとその反動でバランスを崩し、ナマエは尾形の胸の中に吸い込まれる。

「こうすれば、多少は怖くないか」

頬に尾形の胸板を感じた。海で向かいあう時とは違って、ぴったりと距離はゼロになった。全身から顔に向けて血液が集まっていくように感じる。

「好きだ」

どぉん。どぉん。花火の音は思いのほか大きく、尾形の声を少しだけ掻き消した。なんて言ったのか。本当に自分に聞えた言葉で正しいのか。見上げた尾形の大きな瞳の中に自分が映っているような気がした。

「え、と…」
「お前が好きだ」

今度は花火の音に掻き消されることなく、尾形の声がまっすぐにナマエに届く。私も、と口に出そうとして、それを遮るように尾形の手のひらがナマエの頬を掬うと、ゆっくりとその顔が近づいた。ナマエは導かれるように瞼を降ろし、やがて唇に尾形の少しかさついたそれの感覚が重なる。

「花火、多少はいい思い出に変わったか」

唇が離れ、尾形がじっとナマエを見下ろす。猫の瞳に見つめられ、ナマエは少しも動けなくなった。
花火はまだ終わらない。けれどすっかり轟音から守られているような気になった。真夏で暑いはずなのに、抱きしめられている温度が心地いい。この腕の中をずっと待ち望んでいたような、そんな満ち足りた気分になった。





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