12 せ な か



あれから、尾形とはぽつぽつとメッセージをやり取りしている。
来週からカフェで新メニューが始まります。今日は友達とカラオケ行ってきました。近くにオススメのスーパーってありますか?
内容はすべて他愛もないものばかりで、尾形からの返信は「そうか」「良かったな」などの一見そっけないものだったが、頭の中で尾形の声で再生されると少しもそんな気にはならなかった。

「…尾形さん、結構マメだよね」

いままで一度も連絡を寄越さなかったのに、いざやり取りが始まれば尾形の返信頻度は思いのほか高かった。流石に同級生の女の子と同じとはいかないが、ナマエの予想を遥かに超えるマメさだった。

バイトの方は、デリバリーコーヒーのメニューが本格的に始まった。
初めは裏メニューのような扱いで、試験的にカフェの常連客に店長がセールスをした。その運用を初めて二か月、ついに先日正式にメニュー表に載ることになった。

「おはようございます」

デリバリーの注文は平日昼がメインなので、主なシフトが平日の夕方以降と土日であるナマエはあまり配達に出る機会は少なかった。
平日の昼間によく入っている男の先輩の店員は時間帯的によく配達に入るようで、ナマエが出勤した今日も昼間にデリバリーに行っていたようだった。

「おはようございます」
「おはよーミョウジさん」
「配達どうですか?」
「最初に比べりゃ結構慣れてきたよ」

バックヤードで別の作業をしているその先輩に出勤ついでに様子を尋ねるとそんな調子で返事が返ってきた。大変そうとは思うが、別の仕事を任されるのは少し羨ましい。
そんなことを考えながらタイムカードを切ると、その先輩が思い出したように「そういえば」と口を開いた。

「ミョウジさん、第七商事さんに知り合いいる? ほら、あのかっこいい人」
「えっと…どの人ですかね…」

幸か不幸か、第七商事には複数人知り合いがいる。その上、先日デリバリーに行った際に顔を見た人間も数人増え、かっこいい人、と曖昧な形容をされても誰のことだかピンとこない。尾形さんかなぁとのん気に考えていれば、彼は「色黒のさ」と付け加えた。どうやら鯉登のことらしい。

「鯉登さんですね。知り合いですけど何かありましたか?」
「ナマエは配達に来ないのかって三回に一回聞かれるんだよ」
「えっ…」

思ったより面倒をかけられていたようだ。宇佐美の注文で初めて配達に行ったとき「私もまた頼む」という旨を言っていたが、本当に頼んでくれているのかもしれない。

「連絡しときます。なんかお手数おかけしてすみません」
「あ、連絡先知ってんだ」
「えっと、はい…」

お客と個人的に知り合いだというのはまずかっただろうかと思いつつ、とはいっても訂正できないのでそのまま肯定すれば、彼はそこまでの意味はなかったのか「よろしくー」と言って業務に戻っていった。


カウンターに入り店内の様子を確認する。テイクアウト用のカップを補充しておこう。それからホイップが少なくなっているので、新しいのを冷凍庫から出して解凍しておかねばなるまい。
勤務歴もそこそこに長くなってきているから、店のことは大抵出来るようになっていた。頼られるのは楽しいし、時折言われるお客からのありがとうという言葉も嬉しかった。

「いらっしゃいませ」
「えっと。期間限定のやつってどれですか?」
「こちらのティラミスラテでございます」

その日一番初めに接客したのは随分と個性的な服装に身を包んだ若い男だった。流石に本物ではなかろうが、人間の皮を模した生地のバッグからポスターのようなものがぴょこんと飛び出ている。どこかのデザイナーだろうか。

「うーんこれだったかなぁ」
「明日から新しく期間限定のピーチフロマージュが始まるんですが、もしかしてそちらでしょうか?」

ナマエは迷っている様子の客に明日から店頭に出す広告をペラリと見せた。すると男性客は「そうそうこれだ!」と得心がいったような様子で、明日からならば仕方がないと今日のところは通常メニューのチャイラテを注文する。

「またお待ちしてますね」
「どうもありがとう」

彼は満足げにチャイラテを受け取り、出入り口に向かって歩いていく。入り口のところで小柄な男に「江渡貝くぅん、こんなところにいたのぉ?」と声をかけられていた。

勤務し始めて一時間半が経過したころ、仕立てのいいスーツを着た四十代くらいの男性客がまっすぐカウンターに向かって歩いてきた。
別段おかしい行動ではないはずなのに、どこか雰囲気に押されてしまう。ナマエは呼吸を忘れたように黙り、目の前に彼がきてからやっと思い出したかのように「いらっしゃいませ」の常套句を口にした。

「お嬢さん、今日のデリバリーコーヒーで使っていた銘柄はどれかな?」
「本日のデリバリーですね。御社でのご指定がなければ本日はこちらの銘柄でお届けしております」

そう言ってナマエはメニューの右端を指さした。今週はコロンビア産のブレンドを「今週のコーヒー」として届けている。それは指定がない場合で、先方から銘柄の指定があればそれに従って配達することになっていた。
ブラックコーヒーにオリジナルブレンド以外を追加しているのはデリバリーを始めたこの店舗だけである。

「うーん。どうなんだろうなぁ。なにせ部下が頼んだものでね…」
「もし御社名お伺い出来れば本日のご注文内容を確認致します」

ナマエはそう言うと、男性客は「そうかい?」と少し顔を綻ばせた。
ナマエは注文履歴を確認しようと端末を取り出し、男性客に向かって「会社名よろしくお願いします」と言った。

「27階の第七商事株式会社なんだが…」
「えっ…」

ナマエは検索するより先に思わず声を上げてしまい、男性客は「どうかしたかな?」と尋ねる。

「い、いえ、すみません。以前デリバリーでお伺いしたことがあったので…」
「そうだったか。それは世話になったね」

彼は特に気分を害した様子はなくナマエを労った。ナマエは手早く今日の注文履歴を確認して、第七商事の項目をタップした。注文者の名前は月島になっていた。

「えっと…そうですね、本日の月島様のご注文では銘柄のご指定はなかったようなので、今週のコーヒーのコロンビアブレンドでお届けしています」
「そうだったか。ではそれを」
「かしこまりました」

そこからは通常通りの受注作業をして、精算を済ませてコロンビアブレンドを用意する。作業しているあいだじっと客の視線を感じたが、作業を眺められるようオープンになっている店だからさして気にはならなかった。

「お待たせいたしました」
「ありがとう。何度かここのコーヒーはいただいてるんだがこれが特に気に入ってね」
「お気に召していただいてありがとうございます」

男性客は持ち帰り用の紙カップからほのかに香るコーヒーの香りをすんっと嗅いだ。不思議とその仕草さえ絵になっている。随分な美形だ。綺麗に口髭が整えられ、彼をより特別にした。何より存在感がある。そこに立っているだけでまるでその場を支配するかのようなそれにナマエは飲まれそうになった。

「じゃあまた寄らせてもらうよ、ミョウジくん」
「はい。ありがとうございました」

そう言って見送り、はて、自分は名乗っていただろうかと首を傾げた。いや、名札も下げているし、それを見たのかもしれない。
月島が注文したコーヒーを飲んだということは営業部の人なんだろうか。考えても仕方がないとは思いつつも、彼らの上司かもしれない男にナマエは思いを馳せたのだった。


今日、多分尾形さんのところの上司の方が見えましたよ。
自宅に戻り、話のついでに尾形へそうメッセージを送った。いつもすぐに既読になるわけではないからしばらくスマホを放置して家事をしていると、けたたましく着信音が鳴り響く。

「だ、だれ…!?」

普段あまり通話の着信はない。一体誰かとディスプレイを確認すると、表示されていたのは先ほどメッセージを送ったばかりの尾形の名前だった。

「も、もしもし…」
『おいナマエ、上司って誰だ』
「えっ、名前なんて聞いてませんけど…」

挨拶もなしに本題だけ切り出され、ナマエは正直にそう答える。客の名前なんていちいち聞くことはないし、件の上司だって今日のデリバリーと同じコーヒーが飲みたいという申し出がなければ会社を聞くこともなかっただろう。

「今日のデリバリーコーヒーと同じ銘柄を飲みたいって注文受けてそれで会社名聞いたんです。だから名前は聞いてません」
『チッ……待てよ、今日のデリバリーコーヒーだと?』

尾形は舌打ちをして、それから何かに気がついたようだった。それから少しの間があって、もう一度盛大に舌打ちをする。

『そりゃ鶴見部長だな』
「鶴見部長って、あの?」
『お前知ってるのか?』
「いえ、知ってるというか…鯉登さんから熱心に話を聞いたことがあって」

またもナマエが正直に答えれば、尾形はスマホの向こうで『あのボンボンが…』と悪態をついた。言わずもがな、そのボンボンというのは鯉登のことだろう。
鶴見部長に会ってしまうと何かまずいことでもあるのか。いや、そもそも自分の上司と会社の外の知り合いが顔を合わせるなんて嫌なのかもしれない。

『お前、鶴見部長には気をつけろよ』
「はぁ…」
『真面目に聞け』

真面目に聞けも何も、尾形は出会ってからというもの大体の人間に対して「気をつけろ」と言う。言わなかったのはキャンプで一緒になった三人くらいのものではないだろうか。

「尾形さんの周り気をつけなきゃいけない人だらけなんですもん」
『仕方ねぇだろ、昔からだ』

昔から。それだけ付き合いが長いということだろうか。スマホの向こうから踏切のカンカンカンという音が聞こえる。もう11時を回って少し経つが、尾形はまだ外にいるらしい。

「尾形さん、もしかして今帰りですか?」
『ああ。ちょっと仕事でトラブってな…終電にならなかっただけマシだ』
「お疲れ様です」

そこからしばらく他愛もない話になった。尾形に教えられた定食屋に行ったこと、カフェで明日から出すメニューの試飲をさせてもらって美味しかったこと、友人が最近新しく彼氏ができたとはしゃいでること。
どれも尾形には興味のないことかと思ったが、尾形はメッセージでやりとりしていた時のようにそっけない言葉で、でもメッセージで見ているよりも受け答えは暖かく感じた。

『なぁ、行きたいとこ決まったか?』
「…ま、まだ考えて、ます…」
『そうか…。まぁ急かしはしないが、7月の連休はしっかり休めそうだからそのくらいを考えておけよ』

7月の連休なんて、もう1ヶ月と少しだ。どこがいいなんて、年上の思い人に対して何を言えば正解なのかもよくわからない。
ふと、視線を前にやるとちょうどテレビで海外の海の映像が流れていた。有名なバカンス地で、軽装の外国人が楽しげに街を歩いている。その中にはチラホラとカップルもいた。

「海…」
『海?行きたいのか?』
「あっ、違います!ちょうどテレビでやってて…」

思わず口から出てしまって、咄嗟にそれを否定する。尾形は『別に構わねぇよ』と言ってあれよあれよと言う間に目的地は海に設定されていく。
来月の連休の初日、東京近郊の海。集合はナマエの家の前。尾形が自家用車を出してくれる。とんとん拍子に決まっていくそれらに一息ついた頃、尾形が『なぁ』と少し改まったように言った。

『ナマエ、少しベランダ出られるか』
「え?ベランダですか?」

ナマエは言われるがままローテーブルの前から這い出し、カラカラと掃き出し窓を開けてベランダに出る。空には三日月が出ていた。
出ましたけど、と申告すると、電話口から『下を見てみろ』と言われ、それに従ってヒョイっと下の道を覗き込む。

「えっ、尾形さん…!?」

そこにはぼんやり光るスマホの画面を頬にくっつけたままの尾形が立っていて、ナマエをじっと見上げていた。

『このアパート、駅からの帰り道なんだよ』
「そうなんですね…お仕事お疲れ様です」

顔が見えているのに声は耳元で聞こえる。夜更けだから近所迷惑にならないように二人とも声を潜めていた。それでもまるで糸電話で繋がっているように近く感じて、メッセージより通話より、顔を合わせているのが一番尾形を感じることができるのだと実感した。

『お前の顔が見れてよかった』
「わ、私も…です…」
『海、楽しみか?』
「はい。今から何したいかいっぱい考えます」
『あんま無茶なこと言うなよ。こちとらお前と違ってそこそこオッサンなんだ』
「尾形さん、全然そんなふうに見えないですよ」

ぽつぽつぽつ。通話を切りたくないとでも言うようなどうしようもなさで会話が続く。仕事で疲れているのだから早く解放して上げなければと思うのに、どうしてだかそれが出来ない。
そのうちに二人の間にじんっと沈黙が広がり、本当にもうそろそろ通話を切ってしまわなければと迫られた。

『…鍵、閉めて寝ろよ』
「はい。尾形さん、おやすみなさい」

尾形も「おやすみ」と小さく言い、踵を返してマンションを離れていく。ナマエはその背中をじっと見送った。
何故だろう。不思議だ。高々4ヶ月程度の付き合いだと言うのに、尾形の背中を何度も何度も見送った気がするのだ。





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