11 ね ご と



置いて行かないでと言ってしまえたらどれだけ楽だろう。私はあなたを引き止めることなんてできない。あなたはいつも、いつも…。

「おが、たさ…」

意識が白み、瞼の向こうにひんやりと世界を感じた。重い瞼をゆっくり開くと、まだ夜であることに気がついた。どこだろう、緑の匂いを感じる。外、外。そうだ、私、キャンプに来ていたんだっけ。
ナマエはぼやける視界の中で自分の現状を理解し直した。せせらぎが聞こえる。あのまま眠ってしまっていたらしい。

「起きたか」
「…尾形さん、おはようございます」
「おはようって時間じゃあねぇけどな」

肩にはウィンドブレーカーがかけられていて、それは尾形の気遣いだとすぐにわかった。肩を抱かれているから当然のように体が密着していて、尾形の体温をすぐそばに感じる。

「すみません、眠ってました」

尾形の肩に寄せられている身体を起こそうとすれば、尾形がそれを阻止するように手に力を込める。反動でむしろ体はもっと近くに引き寄せられた。

「お前、何の夢見てたんだ?」
「…え?」

尾形にそう言われて、ナマエは自分の記憶を弄るようにパチパチと瞬きをした。夢。そう言われれば何か夢を見ていたような気がする。何の夢だったか、思い出そうとしても夢なんてものは覚醒した瞬間に泡のように曖昧になっていってしまっていた。

「私、何か寝言言ってました?」
「俺の名前を呼んでたぜ」

寝言で名前を呼んだところを本人に聞かれてしまうなんて恥ずかしい。
自分は尾形の夢を見ていたのか。指摘されても夢の輪郭さえ見えてこなかった。

「何か、すごく大事な夢を見ていたような気がします」
「大事な夢?」
「はい。あったかくて、優しくて、ちょっと寂しいような…」

残っているのは残滓のようなものばかりで、言語化することは難しかった。初めて見た景色のような気もするし、それでいて懐かしいような気もする。形容に困る景色だった。

「尾形さん、何か…知ってるんですか?」
「さてな」

前世の恋人。尾形からまだその言葉の真相を聞くことができていない。初めて会った時は初対面のくせして前世の恋人だなんて話をしてきたくせに、どうしてあれから口にするのを憚るような様子なんだろうか。

「尾形さん私ーー」
「ナマエ!こんなところにいたのか!ほら、私たちのテントはこっちだぞ!」

言葉を遮るようなタイミングで明日子から声がかかってしまい、結局ナマエは今日も尾形にそのことを尋ねられなかった。後ろ髪を引かれるように振り返りながら、ナマエは明日子の先導でテントへと向かったのだった。

「ナマエはそっちの寝袋を使ってくれ。そっちの方があったかくて寝心地がいいぞ。私は慣れているからこっちで充分だ」
「いいの?」

こちらのテントは明日子とナマエの女二人で使うことになっており、尾形と杉元と白石はとなりに設営しているテントを使うらしい。ふたつの寝袋が仲良く並んでいる。

「明日は山に入ろう。山菜が採れるから、採ったら一緒に料理をしよう」

まだ幼いのにキャンプに慣れているだなんて、きっと明日子はもっと小さい頃からこういった場所に慣れ親しんでいるんだろう。それは尾形たちもそうなんだろうか。
そもそも、彼女くらいの子供ならこういうところには親なり保護者なりと来るのが普通だろう。あの三人とはどんな繋がりがあるのだろうか。

「ねぇ、明日子ちゃん。その…尾形さんたちとはどういう知り合いなの?」
「ん?ナマエが妬くようなことは何もないぞ?」
「えっ、あっ…そ、そういうつもりじゃなくて…」

明日子が暖かい緑茶の入った水筒を傾け、ナマエに一杯差し出した。ナマエは変な聞き方をしてしまったと恥ずかしくなりながら「ありがとう」とそのコップを受け取る。

「私はアチャの…父の残した家でシェアハウスをしてるんだ。杉元と白石はそこの同居人で、尾形は元々白石の友達だ」

明日子はにこにこと笑って言った。なるほど、白石経由で杉元や明日子と知り合ったわけだ。ナマエの中で引っかかったのは「父の残した」という言葉だった。

「その…ご両親は?」
「父は3年前に事故で死んだ。母は私が生まれてすぐに亡くなった」
「そっか」

明日子の声音は落ち着いていて、悲しみはほんの少ししか滲んでいない。ナマエはコップを傾けて緑茶を啜る。ナマエの母親はお茶といえば熱い緑茶を好むひとで、小さい頃はその熱さから飲むまで時間がかかってじれったく思っていた。

「私も両親いないんだ」
「そうなのか?」
「うん。父親は元々いないんだけど、小学校の時母親も死んじゃってね」

ナマエの母親が亡くなったのは彼女が小学校のころに亡くなった。父親の顔は見たこともなかった。母親が亡くなってからはずっと叔父夫婦のもとで世話になっている。
円満な家族というものに憧れたこともないわけではないけれど、そもそも円満な家族というものがどんなものなのか、正解がよくわからない。

「あの、明日子ちゃん、聞いてもいい?」
「なんだ?」

明日子がナマエを見つめる。
ナマエは少し躊躇ったあと、意を決して口を開いた。

「明日子ちゃんは…生まれ変わりってあると思う?」
「…私は、あると思うぞ」

予想外に強い声音で、ナマエが弱気になる番だった。

「…ほんとに?」

生まれ変わりがあるとして、自分に前世があるとして、前世で尾形と恋人だったとして。
それじゃあ一体、今ここにいる自分は何なのだろう。自分がその前世というものに由来して生きているなら、ここにいる自分自身の価値を見失ってしまいそうだ。

「さぁ、ナマエ。明日も早いぞ!寝よう寝よう!」

明日子にそう促され、ナマエはコップを隅に追いやると寝袋の中に包まった。少し窮屈だけれど、隙間なく包まれているような感覚は悪くない。
まるで誰かに後ろから抱きしめられているみたいだ。


翌朝、目を覚ましたナマエがテントを抜け出して川辺に向かうと、杉元がうんとストレッチをしているところが目に入った。
ナマエはトコトコと歩み寄り「おはようございます」と声をかける。

「あれ、ナマエさんおはよう。早起きだね。もしかして眠れなかった?」
「あ、いえ。いつもこのくらいの時間なので多分習慣で…」

本当は環境が違うからほんの少し早く目が覚めてしまったのだけれど、そんなことを言って気を遣わせるわけにはいかないとナマエは誤魔化す。

「杉元さんも早起きなんですね」
「ん?まぁ久しぶりに山来たからちょっとテンション上がってるのかも」
「山お好きなんですか?」
「そういうわけでもないんだけどさ」

不思議なことを言う人だ。テンションが上がるというなら山が好きだということではないのか。ナマエは杉元に並んでうんと伸びをした。
朝の山の空気は不純物が少なく澄んでいて美味しく感じる。土の匂いが濃く立ち上る。

「あのさ、ナマエさんと尾形ってその…付き合ってるの?」
「えっ」

杉元は慌てて「やっぱごめん、今のナシ!」となかったことにしたが、そもそも聞いてしまったものは根本的になかったことになど出来るわけがない。
昔馴染みの集まりに突然女を連れてきたら誰だってそう勘ぐるだろう。しかしそんなことはないのだから、ナマエは余計に言葉に詰まった。

「付き合ってるとかじゃ、ない、です…」

言葉にしてしまうと尾形が遠い存在のように感じた。
そうだ、何かと構われてはいるけれど、別に尾形と恋人同士というわけではない。ナマエはずっと意識しているが、尾形から言われたそれらしい言葉は「前世の恋人」という言葉だけで、それだって甚だ怪しい。

「そうなの?俺てっきりもう付き合ってるものかと…」
「あはは、まさか。私みたいな子供、尾形さんが相手にするわけがないですよ」

自分で言ってしまうと尚の事遠くなる。本当にその通りだと、誰かに言われている気さえした。
尾形がどういうつもりでナマエに構っているのかは知らないが、相手は社会人で、自分は未成年の、しかも学生だ。尾形のような男ならきっともっとふさわしい女が身の回りにいるに違いないと思った。

「あ…相手に、するわけ…」
「ナマエさん!?」

じんと目頭が熱くなった。泣いてはいけないとわかっているのに涙が溢れてくる。こんなことで泣くなんて子供っぽいし、何より杉元を困らせるだけだ。昨日会ったばかりの女に泣かれたら杉元だって相当迷惑だろう。

「ご、ごめんなさ…」

目の前の杉元がストレッチを辞めてナマエの前におろおろと立ちふさがる。早く涙をぬぐわないと、と袖口で擦ろうとすれば、それを阻止するように後ろから手が伸びてナマエの手首を捕まえた。

「杉元佐一ィ…よくも人のいねぇところで勝手してくれたな?」
「あ、尾形!いや、俺のせいじゃねぇって…あれ、これって俺のせいになる?」
「お前のせいだ馬鹿。ほらナマエ行くぞ」

尾形はチッと杉元に舌打ちをしてそのままテントとは反対側にずんずんと進む。ナマエは訳も分からず、もつれそうになる足をなんとか尾形の速度に合わせて動かした。しばらく歩くと木陰にぽつんと蛇口が見えて、尾形はそれを捻ってポケットから取り出したハンカチを濡らした。

「ほれ、これで冷やせ。明日子にでも見られたらまた質問攻めだぞ」
「あ…ありがとうございます…」

ナマエはハンカチを受け取り、予想外の冷たさに思わず何の捻りもなく「冷たっ」と声を上げ、尾形はこの蛇口の水はこの山の地下水を汲み上げているものだと言った。地表に沁み込んだ雨水が地面のフィルターを通り、長い年月をかけて冷え冷えとした美しい水になっているのだ。
一体この水はいつ降った雨のものなのだろう。途方もないことを考えながらハンカチで目元を覆う。冷えたそれが熱を持った目元を落ち着かせていった。

「尾形さん、この山のこと詳しいんですね」
「あー、ここは明日子の親戚のキャンプ場なんだ。それで何度かあの面子で来てる」
「そうなんですか」

尾形のことは知らないことばかりだ。そもそも出会って間もないのだから当たり前のことなのだが、自分よりずっと前から尾形を知っているという昔馴染みとのやり取りを見てたらなんだか仲間外れにされたような、そんな幼稚な気持ちが湧き上がった。
尾形だってナマエのことを知らないだろうとも思うけれど、そこには大きな違いがある。
ナマエが尾形のことを知りたがっているというのに対して、きっと尾形はそうは思っていない。これは些細で、しかし決定的な違いだ。

「で、何で泣いてたんだ」
「えっ、と…」

尾形がナマエをじっと見つめる。まさか杉元に言ったことをそのまま言えるわけがない。ナマエはどうやってこの場を切り抜けようかと視線を彷徨わせて言い訳を探したが、そう都合のいい言葉が転がっているわけもなかった。

「あの、なんていうか…大したことじゃないんです。本当に」
「俺には言えないことか?」
「…すみません」

俯くナマエに尾形は「そうか」とだけ言って、いくつか何か言いたげな様子ではあったが結局何も言わなかった。

「そろそろ行くか。あまり遅いとあいつらが探しに来る」

尾形がそう言って立ち上がり、ナマエも「はい」と返事をして続いた。今日は山に入ろうと明日子と約束した。山に入るのは初めてだから迷惑をかけないようにしなければならない。
そんなことを考えながら尾形の後ろを歩いていると、尾形がここへ来た時と同じようにナマエの手首を掴む。

「…あんまり色んな男にへらへらするな」
「え…?」

尾形は少しもナマエの方を向かなかった。だからどんな顔で言ったのかは見えなかったし、そもそも聞えた言葉もナマエの聞き間違いかもしれない。
聞き返せるほどの度胸はなくて結局有耶無耶のままになった。テントの近くまで戻れば明日子たちが二人のことを待ち構えており、明日子が変な木の棒を持って尾形を追い回した。尾形は普段見せない機敏さでそれを避けて走る。

「えっ!あれ止めなくていいんですか!?」
「あー、いいのいいの。明日子ちゃんと尾形ちゃんのはいつものことだからさぁ」

白石がそう言ってへらっと笑い、アシリパの投げた変な木の棒の流れ弾にごすんと当たった。痛そうな音にナマエは思わずぐっと顔を歪めた。


それから山菜と釣った魚で昨日と同じバーベキュー形式の昼食をとった。明日子はナマエの想像以上に山に慣れており、また持つ知識も深くて豊富だった。対するナマエは山といえば高尾山くらいしか登ったことのない初心者で、彼女の豊富な知識に舌を巻いた。
昼の片づけが終わればそろそろお開きのようで、設営したテントを男性陣が持ってきたときと同じように小さくまとめていく。ナマエは明日子と一緒に食器や調理器具などの片づけを担当した。

「ナマエ、また来ると良い。私も杉元も白石も大歓迎だぞ!」
「ありがとう。すごく楽しかったからまたお邪魔しようかな」

午後二時には撤収作業がすっかり終わり、ナマエはここへ来た時と同様尾形の車で帰宅する運びとなった。
手をぶんぶんと目一杯振る明日子にナマエも同じようにして手を振り返す。自信過剰かもしれないが、尾形の言う通り「すぐ馴染んだ」だろうとは少し思った。

「どうだった、キャンプ」
「はい、すごく楽しかったです」

帰りの車中で尾形が尋ねる。ナマエが嬉々として答えると、尾形はどこか安心したような様子で「そうか」と相槌を打った。
今朝のモヤモヤは全くどうでもよくなってしまったというわけではなかったけれど、時間が経過して冷静になったおかげか、朝のように自分を制御できなくなるほどではなくなっていた。

「今度はふたりで行くか」
「キャンプですか?私テントとか張れないし戦力外だと思ういますけど…」

今回ナマエのやったことといえば食材を切る、焼く、食器の準備をするといった程度のことで、キャンプそのものの役に立ったとは到底思えない。
しっかりキャンプに慣れた人間が一緒にいなければ尾形の負担が殆どになってしまうことは明白で、ナマエは首をひねりながらそう言った。

「馬鹿たれ。そんなもんあいつらと行きゃ充分だろ」

ハァ、と溜息をつかれて反射的に「すみません」と謝った。「別に怒っちゃいねぇよ」と尾形は言いながら山道をするすると下っていく。カーブで重力がかかってドアの方に少しだけ傾く。

「もっと落ち着けるところがいい。細かいことはお前に任せる。だからどこに行きたいか考えておけ」
「えっ!は…はい…」

ふたりでどこかになんて、まるでデートのようだ。
これはそういう意味なのか、それとも単に尾形の気まぐれなのか。ナマエに推し測ることは出来なかった。
今度は反対向きに曲がって、身体が運転席の方へ傾いた。まっすぐ前を見る尾形の横顔が、じりっと胸の奥の方へと焼き付くのを感じた。





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