10 わ か れ



森の中は土の匂いが濃く立ち上る。
小樽の街で生まれ育ったナマエにとっては山の、しかも獣道のようなところをこんなに長時間歩くのは初めてのことだった。

「おいナマエ、遅れるなよ」
「ちょっ…そんな言い方ぁ…あります?」

はぁはぁ息を切らせて進む。対して尾形はひとつも呼吸を乱すことなく平然と前を歩いた。しかも尾形は三十年式歩兵銃を装備していて、ナマエより何倍も重いはずだ。それでもすいすいと山を登っていくのだから、これは完全に基礎が違う。
旅の道中の尾形との決まりごとはみっつ。尾形から離れないこと。はぐれた際は近くの安全な場所に身を隠し無闇に動かないこと。自分で判断はせず必ず尾形の指示に従うこと。

「仕方ねぇな、少しそのあたりで休むか」

やはり尾形はひとりで逃走したほうが良かったんじゃないか。ろくに山で生きるすべも、軍隊仕込みの体力もない自分が足手纏いになることは予想していたが、やはり突きつけられると申し訳なさが募った。

「…すみません」
「謝るくらいなら体力つけろ。ほれ、水飲め」

尾形はどうして足手纏いと分かって自分を連れ出したのか。答えはわかっているようでいて、間違いだったらと思うと怖くて確かめることができないでいた。


尾形の計画の通り、茨戸で土方歳三の陣営と行動を共にすることになった。茨戸までの道中で尾形から聞かされたのは刺青人皮とアイヌの金塊の話で、そんな荒唐無稽な話があるかと思ったものの、こんな男が冗談でそんなことを言うわけがないということは承知しているので、ナマエはその話を比較的素直に信じることにした。

「俺が兵営に潜り込んでいる間、お前はアシリパ一緒にいろ」
「えっ、尾形さんは…」
「俺は樹上から杉元たちの援護だ」

茨戸から夕張、夕張から月形と移動した。夕張で同じく金塊を探しているというアイヌの少女と男、元軍人と囚人という奇妙な組み合わせの一行と出会い、成り行き上行動を共にすることになった。
特に元軍人だという杉元とは、尾形が何か因縁がある様子だったが、いつも通り多くは語らなかった。

「大丈夫だナマエ。私の後ろに乗っておけ」
「ごめんね、ありがとうアシリパちゃん…」

アイヌの少女、アシリパはナマエよりも随分と幼いのに、ナマエよりよっぽど山での生き方や獣への立ち向かい方を心得ていた。
尾形に連れてこられたという立場でなければこんな旅路には参加などしていないはずだ。

「ナマエはどうして尾形についてきたんだ?」

土方たちと行動を共にしていたという白石が第七師団に拘束されて、その奪還のために一行は旭川を訪れていた。
師団の兵営に潜入するのは杉元と、道中で知り合った鈴川という詐欺師だ。網走監獄の典獄である犬童に化けて掠め取ろうという腹である。
尾形は不足の事態が起きた際の援護のために樹上の狙撃地点で待機し、アシリパとナマエは逃走用の馬で待機だ。

「どうして…っていうか…」

どうしてと改めて理由を問われると、それはいくつかあるようはな思えたし、同時にどれも曖昧な気になった。
尾形が危ない男だということは流石に理解していて、師団の脱走兵と行動を共にすることの危険さもわかっている。いくら真夜中に急に決断を迫られたとはいえ、それがわからないほど気が動転していたわけではなかった。ここにいるのは紛れもなくナマエ自身の決断だ。

「ナマエは尾形が好きなのか?」
「えっ…」

冷静な温度で言われたそれは、肯定してしまうには恐ろしく、しかし否定するような言葉をナマエは持たない。
ナマエは少し口籠もったあと「そろそろ潜入してるころかな」と言って誤魔化した。少し子供騙しだったかもしれないが、アシリパもそれ以上は追及してくることはなかった。

それからしばらくで、発砲音が聞こえた。アシリパとナマエは慎重に兵営の方へ意識を研ぎ澄ませる。にわかに兵営の方が騒がしくなり、何か大きなものがぐんぐんと空に昇っていく。

「あれなに…?」
「杉元たちが乗ってるぞ!」

アシリパの言う通り、目を凝らせば登っていく白い気球の木枠のような部分に杉元と白石、尾形とそれから見たことのない軍人が一人乗っている。
ナマエとアシリパの頭上に差し掛かり、アシリパの判断でそれを追って馬を走らせた。

「アシリパちゃん!杉元さんが兵隊さんに斬りかかられてる…!」

見知らぬ軍人は軍刀を振りかぶり、杉元に向かってドッと振り下ろした。光と距離でしっかりとは見えないが、素人目に見てもその軍人が相当の手練れであることは充分に伺える。

「ナマエ、伏せろ!」

アシリパがそう指示し、ナマエは言われた通りに馬上で身をかがめた。アシリパはそのまま半身を開くようにして弓を構え、気球に向かって一本の矢を投じる。馬は一度気球と並走しながらそれを追い越した。

「ナマエ、あれに乗る。馬から降りるんだ」
「えっ、乗るってどうやって…」

アシリパに言われるがまま馬を降り、アシリパがタイミングを見計らった。それから「私に掴まれ!」と言われて、慌てて彼女に抱きくと、すぐ背後からザザザザと木に何かが引っかかるような音が聞こえてくる。

「白石!」
「白石さん!?」

その正体は気球から命綱を伸ばした白石で、アシリパが白石に飛び乗るようにして掴まると抱きついていたナマエまで一緒に浮上することになった。

「グェッ!ちょ!二人は無理じゃない!?グェッ!」
「仕方ないだろう、どうせもう私もナマエも降りられないぞ、我慢しろ」
「我慢って言ったってグェッ」

自分の体重の他にアシリパとナマエの体重までもを支えることになった白石の命綱は早速悲鳴をあげている。また大きな木をザザザザとくぐり抜けるようにして通過し、それを抜けると同時に頭上から杉元の声が降ってきた。

「アシリパさん!」

白石の命綱を辿るようにしながらアシリパが気球に乗り、次はナマエの番である。「白石さんごめんなさい!」と言いながら彼の体を踏み台に気球に向かって手を伸ばして、尾形がそれを身を乗り出して捕まえた。

「引き上げるぞ」
「はい!」

尾形の力を借りながらなんとか気球に乗り込んで、最後に白石を杉元が引き上げた。一息つく頃には旭川はもう随分と遠く、気球が不時着する頃には旭川の兵営から東に40キロもの距離を移動することになったのだった。


馬で追跡をしてくる兵士たちを撒きながら南東方面に向かう。他の面々とは最終的に網走で落ち合う手筈となっていた。兵士に見つかれば多勢に無勢になるだろうし、そうなった場合接近戦を得意とする人間が杉元しかいないのも、その杉元が銃弾を二発喰らって負傷しているのも痛手だ。ここは逃げるに限る。
そうして旭岳付近まで逃げ延びた時、尾形が不意に背後からの気配に気がついた。第七師団の追手が遠くに見える。

「見つかった!!急げッ 大雪山を越えて逃げるしか無い」
「マジかよ、この山を?」

そう白石が難色を示したが、そうは言ったところでこの山を越えるほか逃げ道はない。一行は山に向かって歩き出した。歩き出して間もなく、天候が大きく崩れ始める。
吹く風が冷たく、まるで真冬のように感じる。ぶるりと肩を震わせると、尾形がそっとナマエの肩を抱いた。

「風をよける場所を探すんだ!!低体温症で死んじまうぞ」

尾形がそう声をあげる。しかし見回してもあたり一面の荒野には燃やせる木さえ生えていない。その時アシリパが前方に鹿の群れを発見し、そのオスを仕留めるように指示をした。杉元が「エゾシカを撃つのか?」と動揺している間に尾形が銃を構え、一発で2頭のエゾシカを仕留める。

「2頭同時に…ッ!!」

杉元の声に構わず、尾形はさらにもう1頭のエゾシカを仕留めた。アシリパが急いで皮を剥ぐように言い、下半身の皮を剥いで内臓をある程度取り除いていく。

「鹿の体で風を避けるの?」
「ああ、仕留めてすぐのユクの中は温かいし、ある程度熱も逃げにくい。ナマエは尾形と一緒に入れ」
「う、うん…」
「白石を捕まえろ!低体温症で錯乱しているッ!」
「パウチカムイに取り憑かれた!」

エゾシカの中に逃げ込む準備をしているうちに低体温症により判断力の低下した白石が全裸になって歩き出し、それを杉元とアシリパが追っていく。すると、背後からぐっと手が伸びてきてナマエの肩を掴んで引き寄せた。

「ナマエ、早く入れ!白石はあいつらに任せておけ!」
「は、はい…!」

肩を引いてきたのは尾形で、ナマエは尾形に言われるがままエゾシカの体の中に逃げ込んだ。
尾形も同じエゾシカの中に入り、いくら大きなエゾシカの中でナマエが小柄とは言っても、身動きも取れないほどにぎゅうぎゅう詰めになった。

「尾形さん、苦しくないですか?」
「問題ない。お前は平気か」
「はい。身動きは取れませんけど苦しいほどでは…」

背中にぴったりと尾形の体を感じる。これが宿や通常の野営であればあれこれと意識してしまうだろうが、生憎ここは悪天候の山のエゾシカの体内である。エゾシカの肉のありありとした感触と匂いを感じてそれどころではなかった。

「一筋縄じゃ行かないとは思っていたが…まさかエゾシカの体の中で暖をとることになるとはな」
「ちょっとびっくりです…小樽に住んでたら流石にどう頑張ってもこんな経験はしなかったですよ…」
「ははぁ、それどころか獣道を歩くのも獲物を仕留めて野営するのも、あのまま小樽にいたら経験することなんてなかっただろうよ」

確かにそうですね。ナマエは相槌を打った。
尾形と共にいることを選ばなければ、自分は今もあの街で薬問屋の奉公人をしていただろう。小樽の兵営や陸軍の診療所に薬を届け、薬の勉強に励む、それまでと変わらない生活をしていた。

「着いて来なけりゃ良かったと、そう思っているか」

ふと、尾形がそんなことを尋ねた。耳元で吐き出された声のあまりの小ささに、ナマエは思わず笑いそうになった。この男はこんな声も出すのか。いつだって強引でナマエを簡単に自分の調子に巻き込んでいく、この男が。

「尾形さんに着いてくると決めたのは私です。後悔はしてません」

ナマエのはっきりと輪郭を持った声がエゾシカの体内でぼんやりと反響した。そうだ、後悔などあるはずがない。
あの時尾形と別れて仕舞えば、きっと二度と会えなかった。それはこの道中でまざまざと感じる。恐ろしいこともある。人を殺すところも見た。自分の足でまといを歯痒くも思った。
けれどそれら全てと天秤にかけたとしても、尾形のそばにいるという選択はナマエにとって正しいものだったと胸を張って言うことができた。

「…そうか」

ナマエを後ろから抱きしめる尾形の腕にぐっと力が込められた。それが少し苦しいくらいで、それがとても心地よく感じる。
エゾシカの体温が二人に移り、命を生かしていく。こうして循環する生命を知ることも、この度に着いてきていなければ気づかなかったことだろうと思う。


釧路、屈斜路湖、北見を経由して、道中様々な人間を巻き込みながらついに網走までたどり着いた。
網走監獄への潜入は新月の夜。ナマエはインカラマッとチカパシ、永倉と家永と共にコタンで待機、尾形は山に隠れて狙撃で援護、谷垣と夏太郎は川岸に用意した丸木舟で待機、キロランケ、牛山、土方は宿舎で待機、アシリパと杉元、白石が都丹の先導により網走監獄の舎房に潜入する手筈となっていた。
いよいよ潜入、という夜、山へと入る前に尾形こっそりナマエを呼び出して小さな声で言った。

「いいか、ナマエ。今夜は永倉のそばにいろ」
「永倉さんの、ですか?」
「この騒動ではぐれたらおまえは土方たちについていけ。永倉のジイさんならそう簡単にゃやられねぇだろうし、恐らく何かあれば土方と合流するだろう」

尾形が静かな声でそう言った。まるで何かを知っているような口ぶりにナマエは息を飲む。それから少し震える声で「尾形さんは…」と口にした。風が吹く。声がかき消されてしまう。

「…尾形さんも、来るんですよね…?」

ナマエは恐る恐るといった様子で尋ねた。尾形は後ろに流した髪を撫で付け、それからナマエの手首を引いてすっぽりとその腕の中に収める。とくとく心臓の音がする。

「…迎えに行く」

尾形はそう言ってナマエを腕から解放すると、彼女の頭をくしゃりと撫でて少しだけ口元を緩めた。ナマエはその顔を見るだけで尾形がナマエとはともに来ないのだと悟った。

「私、待っていていいんですか」
「ああ、待っていろ。必ず迎えに行く」

尾形の声はひとつも揺らぐことなくナマエの耳へと届く。低く心臓を撫でるような声がする。この声はナマエの胸をいつも高鳴らせ、そしてどうしようもなく寂しくもさせた。

「わかりました。尾形さん、怪我しないでくださいね」

ナマエはできうる限りの力で自分の喉を律し、声が震えてしまわないように懸命にそう言った。見上げた尾形の顔越しに夜空が見える。新月だから星々はのびのびと輝き、数え切れないほどのそれらが夜空を絢爛にに飾った。





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