ライク・ア・プリンセス


酔っぱらってる。もう金曜日だからお構いなし。
私の勤めている会社はちょっと、結構、かなり、変。一カ月に一回「先生」を招いてセミナーを受講する。業務ではないという建前があるため「残業手当」とは書かれないが、しっかり「職務手当」として拘束時間分が実質残業代扱いされている。
そのセミナーというのが甚だ胡散臭く、会社の経費で購入される「先生」の著書は一度も開いたことがない。ごめん、盛った。一回開いて5行で辞めた。

「別にねぇ、いいのよ?変なセミナー受けさせられても手当出るし、本も経費だし」
「じゃあ何が不満なんだ?」
「内容よ内容。今日のは本当に腹が立ったの」

セミナーの内容は概ね自己啓発で、一年も在籍していると二年目には「先生」のセリフが予想できるくらいありきたりなものだ。特にそういうものに傾倒するつもりはないし、まぁこれも仕事かといつも割り切って参加していた。でも今回は「先生」の使った言葉が気に入らなかった。

「夢を持ちましょう。だってさ。こんないい年してそんなもんあるかっていう話」
「いいじゃねぇか、夢」
「えぇぇ、あんたもそっち派ぁ?」

夢も何もない。小さい頃はケーキ屋さんになりたかった。あんなに可愛くて美味しいものを作れる人になれたらどれだけ素敵なことだろうと憧れていた。
でもケーキ屋さんになるための手順を知るころには製菓学校という選択肢が先々のために現実的じゃないかも、なんて思うようになって、結局普通の高校に行って普通の大学を卒業した。
それから私の夢は結婚してとびきり素敵な家族を持つことに変わった。そして大学時代に出会った彼と先日結婚秒読みのところでフラれ、心がぽきっと折れたところだった。

「だってさぁ、結婚も出来やしないのにもっとほかの夢って何よって思っちゃうんだもん」
「別に男は元カレだけじゃないだろ?」
「そうだけどさぁ。結構なダメージなの。しばらくはごめんなさいって感じ」

私の言葉に「そりゃ残念だ」と言って笑った。

「結婚したいって、例えば理想のプロポーズでもあるのか?」
「んんぅ?理想のプロポーズぅ?」

私は彼の言葉を復唱するようにしてじっと考える。理想のプロポーズかぁ。好きな人と結婚できるならあまりこだわりはないけれど、理想と言われればいくらだって思いつく。

「まずねぇ、薔薇の花束持ってきてくれるの」
「へぇ、それから?」
「それからぁ…跪いて指輪を差し出してくれてぇ」
「うんうん、それで?」
「君を一生守る、なんて言われたら最高!」

いつまでも少女趣味だと言われようが、夢なのだから仕方がない。友達に言ったら大体「いい歳して」って言われちゃうからこれはあんまり誰にも言ったことがない内緒の夢だ。なんだ、私まだちゃんと夢持ってるじゃん。
そういえば、彼はさっきからずっと聞き役に徹してくれているけれど、逆に話を聞きたくなった。いいじゃねぇかって言うくらいだから、きっと彼には夢があるんだろう。

「ねぇ、あんたの夢ってどんな夢?」

私はバーカウンターに頬杖をついて尋ねた。長い黒髪が艶やかに揺れる。まるで夜の帳みたい。その内側には一体どんな世界が広がっているんだろう。

「俺の王国を作って、王様になる夢」

繰り広げられた話は荒唐無稽で、でもとても心地よかった。それがまるで寝物語めいていたからか、それとも彼の聞き心地のいい声のおかげなのか、うっとり聞き入るうちにどんどんと瞼が重くなってきてしまった。


あー、あたまいたい。なんでだっけ。あ、そうだ、昨日メッチャ飲んだんだっけ。ぼうっとする瞼をぱちぱちと動かし、昨日のことを思い出した。
そうそう。無性に会社のクソセミナーに腹が立って飲みに行ったんだ。適当に入ったバーで好き勝手飲んで、バーテンさんに話聞いてもらって、それから隣に来た知らないお客さんと話し始めて…。

「…あっ!」

そのあと意識がない。ていうかここどこ!
目の前の天井は私の知らない照明器具がついていて、なんかシャンデリアみたいでキラキラしてた。勢いよく起き上がり、自分の置かれた状況を把握しようときょろきょろ見回す。
10畳くらい…ベッドはキングサイズかってくらい大きいけど、多分ホテルとかじゃない誰かの部屋。
サッと自分の恰好を確認したら完全に裸。全裸中の全裸。全裸中の全裸ってなによ。

「お、起きた?」

ふと背後から声がしてばっと声の方を見る。長い黒髪をひとつにまとめている長身の男が出入り口のところにもたれかかってこちらを見ていた。

「えっ…と…」
「覚えてない?まぁあんためちゃくちゃ酔ってたもんなぁ」

男はケラケラ笑って、私は昨日のことを徐々に思い出し始めた。そうだ、彼はバーで隣に座っていたお客さんで、名前…は知らないけどなんかすごい親切に話を聞いてくれたんだ。

「あのぉ…ここは…?」
「俺の部屋。言っとくけど、あんたが来たいって言ったんだぜ?」

ああ、この年にしてやらかした。酔って意識なくしてワンナイトとか私は学生か。彼はじっと私を見つめて、そこで私は自分がどんな格好をしているのかを思い出して掛け布団でバッと胸元を隠した。

「か、帰ります!」
「へえ、わざわざ泊めてやったのに礼のひとつもなしか?」
「それは…その…ありがとうございました…」

ちょっとだけ一理あるかも。酔い潰れたまま道端に放置なんてことになっていたらなんかもっととんでもないことになっていたかもしれない。彼とのワンナイトが合意か合意じゃないかと言われるとグレーな気がしてならないが、まぁそのくらいで済んで良かったと言うことにしておこう。

「ははっ、本当に謝る奴があるかよ」

彼は子供みたいに顔をくしゃっとして笑って、私はこんな状況だっていうのにその笑顔からなんとなく目が離せなくなってしまった。体はすごく大柄でいかつくて、顔はすごい綺麗系で、笑顔は子供みたいに無邪気。目が離せないのは、この男を構成するそれらがなんとなく全てアンバランスに思えるせいかもしれない。

「ほら、着替え。昨日の服洗濯して乾燥機にかけたから」
「あ…りがとう…」

さっぱり洗濯された服と下着を受け取ると、彼は「向こうの部屋にいる」と言って踵を返す。受け取った洗濯物からは嗅いだことのない柔軟剤のいい匂いを感じた。

間抜けにもワンナイトの相手のベッドルームでいそいそを着替え、彼の消えていった部屋に足を向けると、彼が大きなソファに腰掛けて優雅なコーヒーブレイクを楽しんでいる。窓の向こうにはビル群が広がっていて、ここがそれなりの高層階であることが窺えた。

「お、着替え終わった?」
「あの…服もありがとうございました。帰ります」
「なんだよ。コーヒー飲んで行かねぇの?」
「いや流石に…」

ワンナイトした相手にこの対応って、この人は相当遊び慣れてるのか、それとも単純におおらかなのか。どちらにせよこれ以上長居は無用と私は頭を下げて玄関の方へと向かう。玄関にはきっちりと私のヒールが揃えられている。
さて穏便にお暇しようとヒールにつま先を突っ込むと、ぐっと大きな手で掴まれた。ひらっと長い黒髪が揺れる。

「俺はボウタロウ。なぁ、名前教えてくれよ」
「…ナマエ…です…」

私は思わず自分の名前を正直に答えた。それは恐怖とかそういうのじゃなく、何かもっと不思議な強制力を感じたからだった。
ボウタロウ、って、いったいどんな漢字を書くんだろう。パッと頭の中には重い浮かばなかった。

「ナマエちゃんね。俺以外の前で酔い潰れんなよ」

ボウタロウの大きな手が私の頭をぽすんと撫ぜる。身長と比例して大きなそれは、私の頭を掴んで持ち上げられそうなほどのサイズだった。包まれているような感じが存外悪くなかった。


あんな学生みたいな失態をして一週間。冷静に考えればクソセミナーなんてどうせ内容空っぽなんだから腹を立てることでもないな。と、落ち込んだ気持ちはすっかりなくなっていた。あの日は天気も悪かったし、それでイライラしてたのかもしれない。

「ミョウジさん、合コン行かない?今日実はひとりドタキャン出てさぁ」
「いやぁ、今日は遠慮しとこっかな」

定時を過ぎて帰り支度を始めようとすると、隣の部署の女の子にそう声をかけられた。いつもならせっかくだしとか言ってしまいそうなところを自重する。先週お酒で失敗したばっかりなので多少の戒めは必要だ。今週末は大人しく宅飲みでもしようと思う。
とぼとぼとエレベーターを降りて正面玄関に向かっていると、途中後輩が「お疲れ様です」と言いながら私を追い抜かしていった。そういえばあの子、今日は彼氏とデートだって昼休みに言ってたっけ。彼氏。彼氏かぁ。

「ナマエちゃん」

不意に、オフィスの正面玄関を出たところで真横から呼び止められる。誰だ、と思って隣を見ると、一週間前に出会った長髪の男、ボウタロウがいた。先週と違って三つ揃えのスーツを着ていて、なのに対照的に髪はセットされずにゆらゆら自由に遊ばせている。

「えっ…なんで…」

ここにいるの?と尋ねる前に、視界がフワッと赤くなる。それから花の香りが広がった。ぼやける輪郭を捉えようと注視すると、目の前を占領しているのは抱えるのがやっとというほどの大きさの薔薇の花束だった。

「えっ、えっ、な、何これ…」

私が反射的に花束を受け取り混乱して言葉を詰まらせているうちに、ボウタロウは目の前でその長身をスッと折りたたんで足元に跪いた。そしてポケットに手を入れて小さな箱を取り出すと、私に向かってぱかりとそれを開く。銀色の輪っかがキラキラ座っている。

「君を一生守る」

私はその言葉を聞いて、あの日ボウタロウに理想のプロポーズについて話したことを思い出した。これはそっくりそのまま私があの日彼に話したことだ。

「や、な…なんのつもり?」
「なんのつもりって、プロポーズだよ。ナマエちゃん、これが理想だって言ってたろ」
「それは…そうだけど…」

そうじゃない。なんで一週間前出会った一回寝ちゃっただけの相手にプロポースなんかするんだ。
その場で色々言ってやりたかったけど、なんだなんだと周りが騒がしくなるのを感じた。そうだ、ここ会社の正面玄関じゃん。

「ちょっと!こっち!」

私はとりあえずこんな公衆の面前でこれ以上注目されるわけにはいかないとボウタロウの腕を引いて、すぐそばの路地まで隠れるようにして移動した。
そこそこの場所についてから私は薔薇の花束を抱え直し、ボウタロウに向かって「で、何のつもり?」となるべく冷静に言葉を発する。

「だからプロポーズだって」
「いや、ありえないでしょ、何にも知らない相手に…」

臆面もなく飄々と答えるボウタロウに私はぐっと眉を寄せた。いたずら?嫌がらせ?それにしても手が込んでて悪趣味だ。私は薔薇の花束を突っ返すようにしてボウタロウに押し付ける。

「ピンときたんだよ」
「はぁ?」
「先週バーで飲んでる時さ、ああ、俺の王国のお妃様はこの子しかいねぇなって」

王国…王国?
そうだ、ボウタロウは自分の国を作って王様になるのが夢だって言ってたんだっけ。
酔っ払って曖昧だった記憶を少しずつ取り戻していく。そんな荒唐無稽な夢を語る変人についていくもんか。何か言い返してこの薔薇の花束を押し付けて、さっさと立ち去ってしまおうと意気込んだ時だった。

「一目惚れだって仕方ないだろ。ナマエちゃんがいいと思っちまったんだ」

そう言って、ボウタロウが私の体を花束ごと包んだ。左右に長い黒髪が流れ落ち、カーテンのように私を閉じ込める。薔薇の香りと、ボウタロウの柔軟剤の香りがぐるぐると渦巻いた。

「俺と一緒になってくれ」

心地のいい低い声がぼやんと反響する。視覚も触覚も聴覚も嗅覚も、全部が全部ボウタロウでいっぱいになっていくような気分になった。どうしよう、何か言わないと。そう思うのに言葉がうまく出てこない。私はこのたった数秒ですっかり彼に支配されてしまっていた。

「か…考え…させ、て…」

意気込みなんてもう影も形もなくなって、私の口からなんとか絞り出したのはそんな格好悪い言葉だけだった。それでもボウタロウはニコニコ満足げに笑って、大きな手で私の頭を撫でる。包まれるような感覚が気持ちいい。

「じゃあ、今日のところはこのまま飲みに行こうぜ。俺いい店知ってんだ」

有無を言わさず今度は私が手を引かれ、ずんずんと長い足で勝手気ままに歩き始めた。それから振り返って目尻を緩める。

「ナマエちゃんの夢、俺がなんだって叶えてやるよ」

お酒なんて一滴も飲んでないのに足元がふわふわして、まるで酔っ払ってるみたいだ。
なんで私だったのとか、どうして会社知ってたのとか、聞きたいことは山ほどあるはずなのに、私に口から転がり落ちたのはどうしようもなく間抜けなセリフだった。

「ボウタロウって、どんな字書くの?」

テールランプが赤く連なる。遠くでサイレンの音が鳴ってる。私は抱えるのがやっとの薔薇の花束を抱いて、まるで物語の中のお姫様にでもなったような気分だ。


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